大洋ボート

伊藤永之介「万宝山」今村栄治「同行者」徳永直「先遣隊」

  伊藤永之介の「万宝山」は1931年7月に起きた万宝山事件を題材にしている。長春西北の万宝山付近に入植した朝鮮人農民と中国人農民が対立し、日中双方の警察を巻き込んでの衝突事件となったといわれる。
日韓併合によって零落した下層農民が満州地域に農地をもとめて移住するが、日本の警察は存在するものの庇護するに足りるだけの人数ではなく、逆に中国警察が政府の朝鮮人農民排斥政策にのっとって中国人農民と結びついて実力行使でもって彼等を妨害・排除しようとした。例えば、小説に描かれた朝鮮人農民は地主から正式に借地権をえた状態であるにもかかわらず、地主は中国警察の強権によって彼等に即刻の立ち退きを申し渡すという始末で、つまりは安定した法秩序の無い地域が満州であったのだ。
  おそらく数十人の朝鮮人農民であろう。前述した某地にたどりついた彼等が開墾をはじめるが、満州は水利が悪いところで、河から水をひかなければならないにもかかわらず、日本領事館から許可がなかなか下りない。播種期がせまっているから交渉をつづけるとともに水路の掘削にも彼等はとりかかる。播種を終え、後は河を堰きとめる工事をするばかりになった頃に、巡警と呼ばれる中国警察と中国人農民が襲撃してくる。大半の工事を朝鮮人にやらせたうえで農地を強奪しようとするのだ。銃をはじめ中国側には武器が事欠かず、一方朝鮮人にはそんなものはない。頼りにならない日本警察にすがるしかないのだ。正面切って抵抗するでもなく、あっさり逃げるでもなく、なんとか踏みとどまろうとする朝鮮人農民の無力がよく描かれている。
  危険を承知で堰きとめ工事は実行される。そうするしかないのだ。収穫期までは食糧不足に耐えなければならず部落は飢えと栄養不足による赤痢に見舞われ、子供たちがつぎつぎ死んでいく。また主人公の女性裴貞花(ベチョンハ)の夫も中国警察に連行されたのち消息不明になる。男性は動きまわる。女性は昼間は工事を手伝うことができても夜間は子供を置き去りにできず、家のなかでじっとするしかない。特に襲撃のさなかは息を殺したように緊張に耐えるしかない。何かしたいという思いはあってもそれはなく、事態の推移のなかに立ち会うしかないのだ。
  わたしがはっとしたのは銃撃の描写だ。わたしたちはアクション映画でいやというほど銃弾が飛び交う場面を見させられて、絵空事を承知で楽しんでしまい、それは別段悪くはないと思うものの、現に飛び交う銃弾というものの実相からとおざかってしまっている。

突然パーンと銃声が弾けた。
耳朶を刃物で切るようなシュッという無気味な唸りが、湿った空気を通り抜けた。


銃声がグッと此方に接近したようだった。銃丸(たま)の唸りが渡鳥のように低い空をよぎった。

  銃弾とは触れれば怪我をする、悪いと死ぬものだ。こんな当たり前のことが、恐怖が、臨場感豊かに表現されている。無論、銃弾ばかりではなく、出来事全体が作者にとって切実さをともなって捉えられている。襲撃に慌てふためく男女の一連の動きのなかでの銃弾。「万宝山」には朝鮮人農民への真面目な同情があり、それが根にあって万宝山事件の実相を日本人・朝鮮人の読者にとどけたかったのではないか。
  推測になるが、名目上は「日本人」となったものの朝鮮人にたいしては、日本警察はそれほど警護に重きをおかなかったのではないか。また、それを見越しての中国人側の襲撃ではなかったのか。この短編はほぼ同時代に発表された。初出「改造」1931年10月号、とある。万宝山事件の2か月後の9月18日満州事変が勃発する。
  今村栄治「同行者」の初出は「満州行政」1938年6月号。時代はさかのぼって「万宝山」と同じく満州事変直前である。主人公の朝鮮人青年のいる長春の宿の部屋には日本軍の演習による銃声が聴こえてきて、日支衝突の噂が広がっている。だが青年にとっては大きな政治(戦争)の帰趨よりも自分の身の処し方が切実だ。朝鮮半島においては、日本の政策に賛同して日本人に成りきろうとする者と朝鮮人ナショナリズムを固守する者とが分裂した。青年は前者の立場で、日本語を習得して大連で日本人と交わってきた。十年以上朝鮮語を使わず「完全な日本人」となったとは本人の自覚である。だが大連での生活も行きづまり、今満州の田舎に移民している兄のもとへ赴こうとしている。都会暮らししか知らない青年にとっては百姓暮らしには自信なく、また魅力ももつことができない。日本人によって排斥されたのかどうかは不明だが、日本人にもなりきれない、かといって朝鮮人の保守的文化にも今さら慣れることができないという、青年はジレンマのただなかにいるようだ。
  そうしたなか、主人公はさらなる民族分断と異民族(日本人)の猜疑にさらされることになる。「同行者」とは荷馬車で二日かかる同じ場所に行く同乗者の日本人で、彼が朝鮮人の同行者をもとめていて宿の主人に紹介された。その日本人は「鮮匪」と呼ばれる満州地域の朝鮮人の犯罪集団を非常におそれていたので、同じ朝鮮人同士での無事なやりとりを期待してのことだった。だが実際に鮮匪が待ち伏せする場面に直面すると、日本人は青年に鮮匪の手引きをしたのではないかと疑ってかかるという結末が待っている。青年にとってはまったくの濡れ衣だが、日本人の朝鮮人にたいする心の底にある警戒心や猜疑がここへきて如実に顕れた感がある。異民族融和や、同民族内(鮮匪と青年)の団結、こうした言葉はうつくしいのかもしれないが、実現にはとおいことを青年は危機とともに実感するようだ。
  作者の今村栄治は朝鮮人で、完璧な日本語で小説や戯曲を発表しつづけたが、1945年8月15日以降、消息不明となったと作者紹介にある。朝鮮語よりも日本語が堪能だったそうで、まるで本短編の主人公さながらだ。日本にあまりに寄り添い過ぎて、戦後、身の置きどころがなくなったことが想像される。
  徳永直の「先遣隊」は満州国成立後が舞台。大人数の満州移住に先立って1年前に少人数の部隊が移住してその準備をととのえるのが「先遣隊」である。測量、農地開墾、播種、収穫を終え、さらに冬場には家屋建設をできるだけ多く成しとげるという工程となっている。中国人匪賊の襲撃にも見舞われるが、日本人も武装しており、互角に応戦できる。だが、満州の冬はながく、その夜の静寂はおそろしい。男ばかりの集団でなかには好きな異性を本土に残してきた者あり、また写真だけで結婚が決まった者がその写真を繰り返し見てはなぐさめにする。夜の静寂のなかからすすり泣く声が漏れてくると、それは単身で渡ってきた給仕係の少年である。このわびしさ、寂しさは読んでこたえる。渡満にあたっては永住の決意をしたものの、ともすると心が揺らぐ。「屯墾病」という言葉が出てくる。ホームシックが高じ、さらには匪賊の恐怖もくわわって神経衰弱に陥るという病である。青年の一人がこれに罹って日本へ帰っていく。だが郷里の村では満州移住の準備が少なからぬ希望とともになされている最中で、青年には居場所がない。
  結末はハッピーだ。満州移住の人に混じって青年もふたたび渡満し、先遣隊の青年たちは結婚相手や好きな女性と合流し、再会をはたす。この時代の日本人のいきおいと幸福感を感じさせる好短編。満州国崩壊の運命はこの時点ではだれにも知られない。初出は「改造」1939年2月号。

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山本周五郎「葦は見ていた」「おさん」

  二編とも性感覚が深い女とその女に引きずられ耽溺してしまう男の話。相思相愛が前提として確固たるものがありながら、さらに性の深淵に二人とも呑みこまれる。戸惑い、引き返そうとしながらもそのめくるめき世界への執着を容易に断ち切ることができない。愛は性によってより高められるが、愛と呼ぶべきか、あまりにも混沌とした熱に浮かされた世界だ。
  「葦は見ていた」は若い女の川での入水自殺の場面からはじまる。この女は「おひさ」という元芸妓で、直前まで藤吉計之介という武士の屋敷に身を寄せていた。計之介の家は五百三十石持ちで父は某藩の中老という身分。武士としては上級の身分に属するのだろう。計之介本人も学業、剣術ともに優れていて将来を嘱望されていた。だが、父の葬儀のために江戸におもむいた際におひさと知り合い、関係をもってから計之介の運命が暗転する。双方とも惹かれあい、逢瀬をかさねることになる。計之介が地元に帰っても、おひさはその地に来て芸妓の職をえて二人の関係はつづく。おひさは計之介の妻になろうとするのではなく、身分のちがいもあって関係を清算しようとするも計之介への執着をたちきれない。また計之助もおひさを手放そうともせず、逢瀬をかさねることによって計之助のみならず、おひさも借金まみれになってしまう。使用人に暇を出し、目ぼしい家財道具を売り払って荒れた家におひさを迎え入れる計之介。
  計之介の行状は周囲に知れわたる。友人の杉丸東次郎の妹の深江は計之介の許嫁で、当然東次郎は計之介に忠告するが、おひさを侮辱されたととった計之介は東次郎に果し合いまで申し込む。計之介は荒んだのか、愛に忠実なのか。
  おひさの自殺は性愛の絶頂に達したという肉体的自覚とともにある。これ以上の幸福はなくあとは下り坂しかない、別れしかないという見通しだろうか。当然、計之介の出世の妨げになるという自覚は最初からある。結末は異なるが、性の幸福を道連れに事件が起きるという成り行きは映画『愛のコリーダ』に似ている。だが、おひさが何も告げずに出奔したため、計之介はおひさに逃げられたと誤解するのだ。唯一売り飛ばさなかった家宝の漢鏡をもっていかれたこともおひさへの憎しみを増幅させるのかもしれない。計之介はおひさを忘れる。深江とも結婚し、藩内の出世の階段を順調にのぼっていく。「立ち直る」のだ。こういう誤解が生じるのはやむをえないことかもしれない。
  だが不可解だったのは、おひさが自殺した同じ川で釣りをしていた計之介が偶然文箱に保管されたおひさの遺書を発見する個所だ。つたない字で「けいさま」と呼びかける部分があるが(「おひさ」の字は滲んでいて読めないとある)それでも彼は気づかないのだ。こんなことってあるだろうかと、わたしは思った。過去の身を焦がした恋と女をすっかり忘れてしまうことなんてあるだろうか。(「18年後」という時間の隔たりがあるが)たとえ細部は忘れるとしてもだ。山本周五郎は過去をすっかり忘れ果てて、眼の前のさらなる出世にのみ獲物を狙うように凝視する計之介を「悪人」に仕立てたいのだろうが、別の書き方があったのではないか。
  「おさん」は「床の間大工」の参太が親方の家での飲み会に参加し酔いつぶれてしまい、気が付くと、そこで働いているおさんが傍に居てすぐさま肉体関係に発展し、やがて所帯をもつ。だがこれは過去のはじまりというべきで、現在のはじまりは、箱根あたりの宿で参太が別の「おふさ」という芸妓と同じ部屋にいる場面で、この両者が交互に進行する仕組みになっている。だが前者のほうが中心だ。
  参太がおさんと所帯を持つ気になったのは、おさんの性的感応力の深さにある。それまでの参太は女性関係が豊富であるものの「惚れた」ことがないことが自慢だったのだが、おさんを知ってからはそうではなくなった。おさんの身体の深部から発される反応に参太は夢中になり、二人は短い期間、至福の時間を共有することになる。「愛」が性によって高められるのは「葦は見ていた」の男女と同じだ。だがまもなく参太は、おさんの性的感応力の深さと隣り合わせにある異常さに直面することになる。その興奮が進行するさなか、おさんは別の男の名を叫ぶ。あわてて問い詰める参太だが、おさんは興奮状態にあるときの自分というものがまったくわからない、覚えていないだ。別の人格になるのではなく、普段の人格が消失してしまうようで、その男の名は、おさんの父や幼なじみであったりし、特定の男ではないことがわかる。だがその異常さによって参太の愛は急速に冷め、憎しみや殺意まで抱くようになる。参太は無気味になっておさんから逃げてしまう。だがそのときには参太には「逃げる」という意識はない。少し間をおいて冷静になってみよう、よく取ればそうだが、自分の都合のいいように考えてしまうのだ。おさんがいつまでも待ってくれるという参太の思い込みだ。これは男性なら落ちこみそうな罠ではないかと、わたしは思ったところだ。

仕事が終われば帰ってくるよ、とおれは繰り返した。きっとね、待ってるわよ、とおさんは云い、すぐにまた泣きだした。あんたにいなくなられたら、あたしはすぐにだめになってしまう、すぐめちゃめちゃになってしまうわ、とおさんは云った。一年か二年はなれてみよう、おれは心の中でおさんに云った。そのあいだに事情が変わるかもしれない、おさんの癖が直るかもしれないし、おれ自身がもっとおとなになって、おさんの癖に付いていけるようになるかもしれない。口には出さず、心の中でそう云った。しんじつそう思っていたからである。


  だが案の定というか、参太の思い込み(錯覚)に反しておさんは留守居に我慢しきれず、出て行ってしまい、そのあとは次々と男を作っては例の癖のために男に憎まれ、捨てられ、あげくは殺害される。おさんの男女関係は、参太との出会いのときのように、みずからを押し付けるように男にいきなり至近距離にまで行ってほとんど同時に性交を果たすというもので、それを繰りかえしたのだ。小説は上方から江戸に帰る途中から「現在」がはじまり、やがて江戸に帰っておさんとの再会を目指して探索する参太が描かれ、上記のおさんの運命を知ることになる。おさんにとって参太はおそらく特別ではなく、何人もの遍歴した男の一人に過ぎず、別れればすぐに忘れ去ってしまう存在だったのだろう。飲み屋で同じくかつておさんと同居し、暴力のためにおさんに逃げられて意気消沈する作次という男と話す場面があるが、作次が未練をもって再開を果たしたとき、おさんは「まったく縁のねえものを見る眼つきだった」と作次は言う。
  終結近くの場面はおおいに甘い。寺の無縁墓を前にして参太が空想されたおさんと語り合うが、参太はおさんを助けられなかったことを詫びるとともに、言い訳たらたら。また、空想のおさんにとっては参太が唯一愛した男であり、参太を忘れるためにつぎつぎと他の男に身を任せたのだと言う。これは実際のおさんではなく、参太の錯覚だと思われるが、性愛の甘さを追慕するには錯覚のほうを自然に択んでしまうということだろうか。わたしにも身に覚えのあるところだが、感動のはしくれくらいは受け取れるものの、この甘さには疑問符を打っておきたい。江戸へ向かう道中の宿で参太の相手をしてくれる「おふさ」はやがて女房になるらしく、つまりは「次の女」がちゃんと用意されているのも、参太の後悔の念を薄める作用としてはたらいている。本文庫中のいちばんの力作ではあるが。

初出
「葦は見ていた」(「面白倶楽部」昭和二十九年九月号)
「おさん」(「オール讀物」昭和三十六年二月号)
それぞれの編の末尾記載による


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川田稔『昭和陸軍全史1 満州事変』(2)

  若槻礼次郎首相は、事変勃発の当初は事態不拡大と関東軍の独立国家建国運動への不関与をいちはやく決議した。満鉄沿線への軍の撤退を、つまり事変以前への回帰をできれば実現したかったようだ。だが大陸の軍隊を思うように統率できず、結局は満州地域の事変以後の占領状態を認めざるを得なくなる。独立国家運動の水面下の動きも、表向きの方針はともかく放置するしかなくなる。若槻にとってはたいへん苦しい後退劇だっただろう。だが、総辞職に追い込まれるまではみずから職を投げ出すことはなかった。軍とのせめぎ合いはまだまだつづいているという現状への感覚があったのではないか。本土陸軍中堅層の政治的攻勢の情報も当然とどいていただろう。それに若槻においては、同内閣の先に記した南陸相はじめ、幣原喜重郎外相、井上準之助蔵相らの布陣をもとめられる範囲においての最強の布陣であるという確信(自信)があったようで、内閣交代によってさらなる内閣の弱体化を懸念したとわたしは想像した。軍を統率できない首相は弱い。民政党内部も一枚岩ではなく、野党政友会も政権交代を目指さないわけもない。形式的とされるものの最高権力者の天皇をいただく宮廷も、軍にたいする抑制工作への協力には消極的だ。つまり若槻には有効な打つ手がなかったのだが、にもかかわらず、自分たちの布陣が最良であるとの自覚は持続していたようで、これがジレンマでなくてなんだろうか。
  川田稔によると、若槻礼次郎は内閣総辞職ののちにもふたたびの組閣を望んでいた。首相は憲法の規定上、天皇の任命「大命降下」によって選ばれることになっていたが、事前に元老西園寺公望らによる候補者の決定・奏薦を経なければならない決まりになっていた。しかし西園寺は若槻を有力な候補者として念頭におきながらも結局は野党政友会の犬養毅を奏薦した。その経移はやや複雑であるが、西園寺はべつに若槻の能力を疑ったのではない。陸軍や民間右翼、それに国民世論の一部から若槻が怨みを買っていることを知悉していて、若槻への「大命再降下」によって怨みが宮中にふりむけられることを怖れたようだ。川田の記述にふれると、この警戒心はけっして過剰とはいえなかった。引用された西園寺私設秘書原田熊雄の回想録『西園寺公と政局』によれば、若槻内閣がつづいた場合<もしそうなれば、すでに今までにも為にする宣伝、無理解な中傷によって[宮中]側近に対する空気がすこぶる悪くなっていた事実や、官僚出身の一部の先輩および軍部に一種の陰謀のあることなどを承知しておられる公爵としては、これと政友会とが合流して、側近攻撃、宮中に対する非難中傷が起ることは、今日の場合、すこぶる憂慮すべき結果を惹起しはしないか、という懸念が、相当強く公爵(西園寺・ブログ筆者註)の頭を支配していたわけである。……もちろん財政や外交も重要ではあるけれども、遺憾ながら、この際宮中のことのためには、何物をも犠牲に供さなければならない国情である、と考えられたのであった>
  宮中の第一義の目的とは、財政や外交の健全化の追求よりも皇室の存続そのものだとしているのだ。明治以降、京都に常住していた皇室・宮中の人々は薩長勢力よって江戸に引っ張りだされてきたのであり、暴力的な政治勢力にたいしては、その地位の不安定さ・脆さを自覚していたのかもしれない。最高権力者としての天皇の地位を謳った明治憲法にしても彼等にとっては盤石には映らなかった。それに、事変の真っ最中に明らかになったクーデター未遂事件「10月事件」の発覚が衝撃をあたえた。橋本欣五郎参謀本部ロシア班長・大佐を中心とするその計画には襲撃対象として主要閣僚や宮中重臣のリストがあげられていたという。宮中にとっては、橋本らが拘束されても陸軍その他の「下剋上」の動きには敏感にならざるをえなかったのであり、若槻ではなく犬養を首相に指名したのは、目先をそらそうとしたからだ。だがわたしはこの宮中の思惑から嫌なことを思い出さずにはいられない。太平洋戦争終結・ポツダム宣言受諾にもたついたのは、連合軍側の方針としての皇室存続が確認されなかったからだという。(吉見直人『終戦史』)そのために何10万人という膨大な犠牲者をかえりみることなく、皇室の身分と引き換えにしたのだ。(ただし、昭和20年の場合は、この方針は宮中単独ではなく政府と軍の一致したものだった)
  若槻と犬養はいずれも天皇の権威を借りて軍を抑え込もうと試みたが、思うようには宮中は動いてくれなかった。事変直後の9月22日には参内した若槻にたいして、天皇は若槻内閣の「不拡大」方針を指示する旨の意見を表明し、南陸相、金谷参謀長にもつたえられた。だがこれは統帥権にもとづく命令ではなくあくまで意見表明を超える強制力はなかった。南、彼方の両者はごく短期間それを遵守したが、天皇の顔を立てたくらいの扱いでしかなかった。犬養においては<天皇への上奏によって、過激な少壮将校三〇人程度を免官処分にすることを試みようとしたようであるが、結局実現しなかった>(川田)また若槻、犬養の両者とも長老軍人や政界重鎮らに相談をもちかけるが、これまた軍の抑え込みには効果はなかった。
  永田鉄山ら陸軍中堅層はかねてより軍首脳から宇垣派排除を画策していたが、犬養内閣成立にともなって、彼等が後押ししる荒木貞夫、真崎甚三郎がそれぞれ陸相、参謀次長に就任し(参謀総長は皇族の閑院宮載仁(ことひと)で実務には不関与)彼等の軍・政界工作は実現した。犬養首相は南陸相の留任を望んだらしいが。川田はこの陸相・参謀長の人事刷新が陸軍の質的転換をもたらしたと説く。荒木・真崎は前二者とちがい国際協調重視ではなく、関東軍の占領地拡張・独立国家樹立方針により親和的であり、ひいては陸軍の好戦性を定着化するにいたるからだ。
  記すまでもないが、犬養首相は5・15一事件によって惨殺される。<犬養の軍部への対抗姿勢や満州国承認への消極的態度は、少壮軍人や極右勢力に強い反感を抱かせることとなり、……。(川田)>
(了)
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川田稔『昭和陸軍全史1 満州事変』(1)

  満州事変から本格化する日中激突の時代が、日本の政治と軍部(陸軍)の中枢にたずさわる人物群の動きをとおして描かれる。関東軍の行動を世論は支持したと思われるが、個々の日本人や中国大陸の日本人居留民、また一般の中国人がどのようにその時代をとらえ生きたか等、日本の政・軍の中心人物以外の意見や動向は捨象される。本書の考察対象の範囲外ということだろう。いっこうに構わない。
  事変を引き起こしたのは関東軍であり、それを絶対的に支持し、且つ政界と軍内部における工作活動によって法的合法の枠内に押し込もうとしたのは永田鉄山らの陸軍中堅幕僚であった。一方、事変の知らせを寝耳に水として受け取りながら「事態不拡大」をめざして関東軍と陸軍を必死に抑え込もうとするのがときの若槻礼次郎民政党内閣である。そのせめぎ合いの様子が、陸軍と若槻首相の双方のアングルから時系列順にしたがって活写される。川田稔は客観性の枠内にとどまる描き方に終始するが、若槻に対する同情と共感が漏れ伝わってくる。わたしもまた若槻や次期首相の犬養毅に寄り添いつつ読んだ。旧憲法の体系下では首相の権限が制約されており、充分に軍にたいする指示命令が行きとどかないこともあらためて学ばせられた。また皇室・宮中は元来から国際協調主義であり、若槻内閣に同情的で軍部に批判的であったが、政争の中心に天皇の身を晒させることにおよび腰であった。軍における不穏な動きを宮中は嗅ぎとっていてその矛先が天皇や宮中に向かうことを警戒したからである。したがって 若槻や犬養の協力要請を全面的に受け入れることはなかった。
  1931年9月18日の事変勃発から2年足らず後の1933年3月31日塘沽(タンクー)停戦協定が締結され、日中間にとりあえずの平穏が訪れるが、4年後の1937年7月には盧溝橋事件が勃発し、日中戦争と呼ばれる戦いがまたはじまる。さらには4年後の太平洋戦争開戦から敗戦に至るまで戦争はつづく。陸軍の、のちには海軍も巻き込んだ戦争継続・膨張路線は満州事変に端を発するという見方ができるのではないか。少なくとも満州事変期においては、永田鉄山を中心とする陸軍の中堅幕僚による非公式の横断組織「一夕会」のイデオロギーが大きく働いている。それが川田稔の歴史見識だ。
  永田らは次期大戦に向けての日本の大国化を目指した。第一次世界大戦に見るごとく「大戦」と呼ばれる戦争においては兵器の広範囲にわたる機械化をはじめとして、国家規模の工業力、経済力が問われる。また「大戦」は短期間で終息するのではなく何年もの間継続するので兵器はもとより物品の再生産能力を高めておかなければならない。つまり、大戦は「総力戦」になるので、国家のありとある人材と経済力、工業活動を総動員しなければならない。そのためには工業力を量的質的に高めることは勿論、国家体制を戦争に集約されるべき組織と仕組みに組み替えておかなければならない。同時に、工業や軍事分野への潤沢な資源・材料の供給が不可欠だ。しかし日本国内においてはそれに足るだけのものが確保できない。ならば資源が豊富に眠っているであろう地を日本の支配下におくことが不可欠だ。そういう認識(あるいは野望)のもとに満州事変は計画実行された、と川田は言う。黒竜江省、吉林省、遼寧省の満州東三州以外にも北支、中支と呼ばれる地域(揚子江以南をのぞく中国の大部分であろう)には豊富な資源が眠っていると永田らは見当をつけ、それらの地の占領と支配化をめざして事変を起こしたと川田は見る。
  だが満州国建国にこぎつけたものの、またその後あらたに獲得した占領地においても、大戦を担うに足るだけの資源を日本軍は中国大陸において見つけることができなかった。とくに石油資源は有力な埋蔵地がなく、永田の構想は大風呂敷を広げたにすぎない結果になった。太平洋戦直前の南部仏印進駐はアメリカによる蒋介石援助のための物資支援ルート「援蒋ルート」を遮断するのが直接の目的だったが、蘭印(現インドネシア)の石油資源も視野に入っていたのだろう。十分な資源確保の見通しもないまま、日本はアメリカとの戦争に突入し敗れた。
  少し問題の標的がずれた。川田稔によると永田ら一夕会の構想があらかじめ根っこにあって事変は引き起こされた。関東軍単独の暴走ではなく、その行動をさらに拡大・定着させようとする本土陸軍の永田らの後押しがあって初めて開始された。世界恐慌打開のためでもなく、南満鉄道をはじめとする日本の権益擁護や日本人居留民保護のためでもなかった。それらは副次的理由であり、国民受けするのには好都合だったようだが。
  満州事変は1931年9月18日午後10時過ぎに起きた。奉天近郊の柳条湖付近で満鉄線路が爆破された。関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と作戦参謀石原莞爾中佐の指揮による謀略であったが、これを中国軍の仕業として板垣は攻撃を指示、関東軍は翌19日の午前6時半頃までには中国軍(張学良軍)の拠点の奉天城、北大営を占領、さらに奉天のみならず長春・安東・栄口・鳳凰城など南満主要都市のほとんどを19日中に占領した。中国軍側の抵抗が微々たるものだったからでもあるが、関東軍の軍事行動はいかにも電光石火ではないか。事前の準備がなくてはこれほどの素早さは実現できないのではないかと感じる。19日午前10時に閣議がひらかれ若槻首相は事態不拡大を確認。22日の閣議では朝鮮軍の独断越境が報告され、閣僚は憤ったようだが、若槻首相はあっさりこれを容認し、経費支出を決定した。このあたりの川口の解説(見識)は読みどころだ。なお、書きおくれたが板垣、石原はいずれも一夕会会員であった。
  当時の首相には軍隊を直接指揮する権限がなかった。軍の作戦・用兵をつかさどるのは陸軍においては参謀本部であり、参謀本部は天皇に直属していた。そのトップは参謀総長(満州事変当時は金谷範三大将)であったが、内閣の外の組織であるため、首相は参謀総長を監督下にはおけなかった。内閣内の陸軍組織は陸軍省であり、ここは陸軍大臣が閣内において首相らと協議して装備・編成の分野で具体的に予算措置を講じる役割を担った。臨時の経費支出も内閣の専権事項だったのだろう。朝鮮軍の越境は事前の天皇の裁可をえないままの「独断」であり「大権干犯」であったから、若槻は断罪したうえ経費の不支出を決定することも可能だった。だが若槻はあえてそれをしなかった。川田によると、経費不支出にたいする陸相や参謀総長の抗議ひいては辞任によって内閣総辞職に追い込まれることを回避するためのやむにやまれぬ選択だったという。(辞任にいたらずとも一人の閣僚が内閣の方針に反対するだけでも総辞職しなければならない決まりだった。全会一致が内閣の大原則だったから。のちに安達謙蔵内務大臣によってこれが引き起こされ若槻内閣は総辞職の事態に陥る。ただし、単独辞職を願い出ることは可能)これもまた旧憲法の制約で、首相には閣僚の任免権がなかった。また陸海軍大臣は「軍部大臣武官制」という法規があって、陸相なら陸軍が陸軍内の上位将校から選んで内閣に推薦する取り決めになっており、逆にいうと陸相候補推薦を陸軍が拒否するならば内閣は成立しえなかったのだ。
  若槻は南次郎陸相と金谷参謀総長の両者を、陸軍を抑制するための最適の布陣と見なしていた。二人はともに宇垣派とよばれる派閥に属しており、頭目の宇垣一成(満州事変発端当時は朝鮮総督、前浜口雄幸内閣では陸相)は1920年代歴代内閣の国際協調路線に寄り添う姿勢の人だったので、その影響は南・金谷の両者にも及んでいたと見られる。だが二人は内閣の不拡大方針に従いながらも若槻首相ほどの一貫性はなかった。陸軍軍人だからだろうか、一夕会をはじめとする陸軍中堅層の突き上げを食らって拡大方針に舵を切ってみたり、ふたたび関東軍の野放図な攻撃範囲拡大を制止したりと右往左往するのだが、若槻にとっては両者の起用継続は十全とはいえないにしても、それなりの結果はもたらされたと川田は見る。
  関東軍は政府や陸軍首脳の指示を無視してそののちも攻撃・占領地域を拡大していき、条約上で許されていた南満鉄道沿線の駐兵権地域(距離は本書では不記載)をはるかに逸脱するに及んだ。たとえば吉林という都市は地図でみると東に100キロほど鉄道線路から離れている。さらに10月以降、黒竜江省首都チチハルを一時的に占拠、張学寮軍の拠点の錦州を爆撃するに及んだのだが、若槻内閣は南・金谷両者の権限を以て一旦は関東軍をそれらの地から撤退させることにこぎつけた。チチハルはソ連の利権鉄道・中東鉄道を超えた場所にあり、錦州はイギリスの利権鉄道・北寧鉄道の沿線であったので、国際世論の硬化をおそれたためだ。陸軍内部にも短兵急の攻撃・占領地拡大を懸念する声があったためでもある。だが若槻のせいいっぱいの踏ん張りもここまでだった。12月11日、若槻内閣は総辞職に追い込まれる。野党政友会との協力内閣設立を模索する安達謙蔵内務大臣が、閣議を欠席したためだった。
  さかのぼって9月21日、中国政府は日本の軍事行動を「侵略行為」として国際連盟に提訴している。その主張は2年後の1933年には国連に認められ、日本軍の満州からの撤退勧告決議案が2月24日国連総会において採択されることになる。3月4日、日本は国際連盟を脱退。これは陸軍にとっては事変開始以来の想定事項だったようだ。3月1日には既に親日派中国人らによる「満州国建国宣言」が発表されている。



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