2008.08.07
クライマーズ・ハイ
見ている最中はかなりのめりこんだ。未曾有の航空機事故であった一九八五年の日航機墜落を追跡する地方新聞社の目一杯の活動がいきいきと描かれている。同じ大きな出来事であっても、同じ新聞社内であっても、人それぞれに役割が立場が、また思いがちがう。これがたいへんあざやかにすくいとられている。
全権デスクを命じられた堤真一は持ち前のタフネスと清廉潔癖ぶりを発揮して、寝る間も惜しんで熱中し、指揮をとる。だが競争相手は他の新聞社ばかりではない。彼よりも一足早く重役になった男たちは、全権デスクに指名されなかったためか、堤の活躍を何故か快く思わない。嫉妬であるが、そればかりではなく具体的に意地悪もする。また堤が広告のスペースをつぶして記事を掲載すると、当然営業担当がどなりこんでくる。若手記者の苦労もある。徒歩で汗まみれ埃まみれになって現場まで駆けつけるが、携帯電話が普及していない時代なので、通信手段がない。夜中に民家の電話を借りねばならない。また社長の山崎努は記事にあれこれと注文をつけてくる。……。という具合に堤真一の仕事は必ずしも順調には行かない。同じ大きな出来事のもとでの人それぞれの思いと行動ということでは、私は群像劇として見た。『ヒトラー 最後の七日間』という近年の作品を思い出した。国家の中枢部と一新聞社とを比べるとスケールはちがうが、こちらのほうがきめ細かさの点では勝るのではないかとも思った。堤真一も熱演であるし、まわりの俳優陣も負けてはいない。
若手記者の「現場雑感」が一面に連載され、好評を博することが伝えられると「やった」と思った。ほろっとした。記事の紹介はわずかであるし、また大惨事の現場は直接映像としては映らない。だがブンヤ魂が取材対象の中心にそのときついに届いた気がしたし、同時に事故現場の地獄も彷彿とさせられた。なんだか私もその新聞社の一社員になった気がして、気勢をあげた。
だがこの映画、突然のように終わってしまう。スクープ記事をあと一押しの確証がとれないことで見送ったことを社長になじられて、堤は辞表を出してしまう。ここで大半は終わってしまうのだ。原田眞人監督はどうやら清廉潔癖な堤真一個人の物語としてつくりたかったようで、だから私が推奨する群像劇は追求不足になったのではないか。堤や新聞社の同僚は本格的な登山活動が趣味のようで、急峻な山の姿に、堤の心情につうずる清新さを語らせたかったようにも見えるが、しっくりと受けいれられない。苦労した撮影であったことを窺わせるが、心を動かされるものがとぼしい気がする。
それと飛行機事故の全体像であるが、これはこの映画独自の視点でなくても今日的に明らかにされている概要だけでも伝えてもらいたかった。堤真一デスク以下の新聞記者が肉薄した像の本来的な姿がそこに見えるであろうから。また、犠牲者や遺族の皆さんへの供養ともなるであろうから。
全権デスクを命じられた堤真一は持ち前のタフネスと清廉潔癖ぶりを発揮して、寝る間も惜しんで熱中し、指揮をとる。だが競争相手は他の新聞社ばかりではない。彼よりも一足早く重役になった男たちは、全権デスクに指名されなかったためか、堤の活躍を何故か快く思わない。嫉妬であるが、そればかりではなく具体的に意地悪もする。また堤が広告のスペースをつぶして記事を掲載すると、当然営業担当がどなりこんでくる。若手記者の苦労もある。徒歩で汗まみれ埃まみれになって現場まで駆けつけるが、携帯電話が普及していない時代なので、通信手段がない。夜中に民家の電話を借りねばならない。また社長の山崎努は記事にあれこれと注文をつけてくる。……。という具合に堤真一の仕事は必ずしも順調には行かない。同じ大きな出来事のもとでの人それぞれの思いと行動ということでは、私は群像劇として見た。『ヒトラー 最後の七日間』という近年の作品を思い出した。国家の中枢部と一新聞社とを比べるとスケールはちがうが、こちらのほうがきめ細かさの点では勝るのではないかとも思った。堤真一も熱演であるし、まわりの俳優陣も負けてはいない。
若手記者の「現場雑感」が一面に連載され、好評を博することが伝えられると「やった」と思った。ほろっとした。記事の紹介はわずかであるし、また大惨事の現場は直接映像としては映らない。だがブンヤ魂が取材対象の中心にそのときついに届いた気がしたし、同時に事故現場の地獄も彷彿とさせられた。なんだか私もその新聞社の一社員になった気がして、気勢をあげた。
だがこの映画、突然のように終わってしまう。スクープ記事をあと一押しの確証がとれないことで見送ったことを社長になじられて、堤は辞表を出してしまう。ここで大半は終わってしまうのだ。原田眞人監督はどうやら清廉潔癖な堤真一個人の物語としてつくりたかったようで、だから私が推奨する群像劇は追求不足になったのではないか。堤や新聞社の同僚は本格的な登山活動が趣味のようで、急峻な山の姿に、堤の心情につうずる清新さを語らせたかったようにも見えるが、しっくりと受けいれられない。苦労した撮影であったことを窺わせるが、心を動かされるものがとぼしい気がする。
それと飛行機事故の全体像であるが、これはこの映画独自の視点でなくても今日的に明らかにされている概要だけでも伝えてもらいたかった。堤真一デスク以下の新聞記者が肉薄した像の本来的な姿がそこに見えるであろうから。また、犠牲者や遺族の皆さんへの供養ともなるであろうから。
2008.08.03
蚊帳
かつては夏の就寝時には必需品であったが、今はすっかり廃れてしまった。日本家屋の密閉性が向上したからであろうし、化学物質の蔓延によって蚊が少なくなったこともあるだろう。蚊ばかりではなく、蠅もめっきり減った。それに蝶やトンボの類も。ちょうど六〇年代にはじまる高度成長と、それらの変化が期を同じくしているようだ。
私にはとくに蚊帳に関する思い出はない。強いていえばクーラーが我が家にはまだなかった時期と重なることくらいか。今では考えられないが、暑い寝苦しい夜を連日過ごしたものだ。
日本の四季にまつわる風物を愛する田中冬二は蚊帳のことも詩に書いている。蚊帳の質感が甦る思いにさせられる。ただしこれは夏の詩ではなく、秋になって蚊帳をかたづけるときに、それを惜しむ心情をきざんだものである。「蚊帳」と題された詩の前半部分。
思い出したが、蚊帳のへりは細い帯のような少し厚めの布だった。金具もあった。それに蚊帳の半透明の布地の独特のかわいた手触り……。母の実家の山奥の家でも蚊帳を吊って寝たこともあった。しかし都会では家が密集しているから勿論、田舎でも、夜空を眺めながら蚊帳のなかで横になったことはない。そういうことをやっておけばよかったかな、という気にさせられる。ガラス窓でなければ、蚊がどんどん侵入してしまうが。
「髭を剃りたての月」がこのなかでは抜きんでた表現だろう。蚊帳越しに眺めているはずの月が、あまりに煌々としてなまめかしいので、蚊帳越しではなく直に眺めるような気になる。つづいては星を女性にかさねた部分。寝苦しい夜は、なやましいあれこれの幻想を引き寄せてしまうものだ。
私にはとくに蚊帳に関する思い出はない。強いていえばクーラーが我が家にはまだなかった時期と重なることくらいか。今では考えられないが、暑い寝苦しい夜を連日過ごしたものだ。
日本の四季にまつわる風物を愛する田中冬二は蚊帳のことも詩に書いている。蚊帳の質感が甦る思いにさせられる。ただしこれは夏の詩ではなく、秋になって蚊帳をかたづけるときに、それを惜しむ心情をきざんだものである。「蚊帳」と題された詩の前半部分。
秋になった
いつとなしに秋になった
朝夕はもうしろい障子の親しまれる頃となった
そして蚊帳をつらないでもよい頃となった
二三日の中にそれはしまわれるであろう
あの青いすこし暗いような色
それから赤い布のへり
たたむ時つり手の金具の触れ合うすずしい音
草臥(くたび)れてねる白い床の上を
流れる 青いこまかい影の快さ
山の斜面(スロープ)のような快さ
真夜中に目ざめると
髭を剃りたての月が
青い波の上を静かにわたっている
女の心のような星が
蚊帳にくっついて
心臓をくすぐるような夜もある
それはなんでも 蒸(む)すような
醸(かも)すような夜ではなかったか
思い出したが、蚊帳のへりは細い帯のような少し厚めの布だった。金具もあった。それに蚊帳の半透明の布地の独特のかわいた手触り……。母の実家の山奥の家でも蚊帳を吊って寝たこともあった。しかし都会では家が密集しているから勿論、田舎でも、夜空を眺めながら蚊帳のなかで横になったことはない。そういうことをやっておけばよかったかな、という気にさせられる。ガラス窓でなければ、蚊がどんどん侵入してしまうが。
「髭を剃りたての月」がこのなかでは抜きんでた表現だろう。蚊帳越しに眺めているはずの月が、あまりに煌々としてなまめかしいので、蚊帳越しではなく直に眺めるような気になる。つづいては星を女性にかさねた部分。寝苦しい夜は、なやましいあれこれの幻想を引き寄せてしまうものだ。
2008.08.01
思い出したくなった詩
子供のころ、父が飲みおわったビールのラベルを爪で剥がすのが好きで、よく遊んだ。当時のラベルは紙製で、冷えたビール瓶の付近の水蒸気が冷やされて水滴となって瓶の表面に溜まる。するとラベルの紙も水を吸い込んで重くなり、場合によっては自然にずり落ちてくることもある。そうでなくても紙と瓶の接着があまくなって剥がしやすくなるのだ。他愛ないが、こんなことを今の季節になると思い出す。
父が死んでからは、私が飲むときは中瓶タイプに変えた。これは紙のラベルではなく瓶にプリントがされていた。さらにその後は缶ビールになった。大瓶タイプにはまだ紙ラベルが使われているのか、何故か見かけることがないので知らない。
田中冬二にこのことが書かれた詩があったはずだ。ただし映像でしか覚えていないし、ほかの部分はすっかり忘れてしまった。ほかの詩人の詩と併録された詩集を本棚から出してきた。「虹」という題名の詩だった。
都会のたとえば団地の室内を私は勝手に思い浮かべたりしたが、ちがっていた。リンゴ園のみえる緑豊かな地方の風景、ならびにその地の室内である。屁理屈をいうと、冷蔵庫のなかへ入れただけではビール瓶のレッテル(ラベル)は剥れないと思うが……。冷えた瓶を高温の外気にさらして、はじめて濡れてくるのではないか。それとも、もしかすると電気冷蔵庫が普及する以前の、大きい氷を入れておく冷蔵庫かもしれない。冷気は氷が解けるまでの寿命であり、そののちはしだいに庫内の温度があがるから、理屈は合う。
そんなことよりも、田中冬二はレッテルの剥がれかかった(あるいはほとんど剥がれてしまった)「麦酒壜」にこの詩では随一の詩的興趣を見出したのだろう。短いが、最終行をもって詩はひき締まっている。
父が死んでからは、私が飲むときは中瓶タイプに変えた。これは紙のラベルではなく瓶にプリントがされていた。さらにその後は缶ビールになった。大瓶タイプにはまだ紙ラベルが使われているのか、何故か見かけることがないので知らない。
田中冬二にこのことが書かれた詩があったはずだ。ただし映像でしか覚えていないし、ほかの部分はすっかり忘れてしまった。ほかの詩人の詩と併録された詩集を本棚から出してきた。「虹」という題名の詩だった。
夜半 雨を聞いた朝
裏二階の窗(まど)をあけると
山の傾斜地の林檎園の上に
うつきしき虹
投げ入れへ夏蕎麦の花と芒(すすき)と
台所の冷蔵庫の中 麦酒壜のレッテルは濡れておちている
都会のたとえば団地の室内を私は勝手に思い浮かべたりしたが、ちがっていた。リンゴ園のみえる緑豊かな地方の風景、ならびにその地の室内である。屁理屈をいうと、冷蔵庫のなかへ入れただけではビール瓶のレッテル(ラベル)は剥れないと思うが……。冷えた瓶を高温の外気にさらして、はじめて濡れてくるのではないか。それとも、もしかすると電気冷蔵庫が普及する以前の、大きい氷を入れておく冷蔵庫かもしれない。冷気は氷が解けるまでの寿命であり、そののちはしだいに庫内の温度があがるから、理屈は合う。
そんなことよりも、田中冬二はレッテルの剥がれかかった(あるいはほとんど剥がれてしまった)「麦酒壜」にこの詩では随一の詩的興趣を見出したのだろう。短いが、最終行をもって詩はひき締まっている。

