息子の部屋(2001/イタリア)

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(2006/06/23)
ナンニ・モレッティラウラ・モランテ

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 病気の進行による死ならともかく、健康な人の突然の事故死はまったく予測がつかない。とくに家族にとってはそうで、今日も明日も同じような日々がつづくものと思いなしている。予定調和的ではなく曲折はあるものの、生を前提としてあれこれと善後策を考える、そして少しずつ実行する。それが家族の日常といえるだろう。そんななかで高校生の長男がスキューバダイビングの最中に事故死してしまう。日常性がいきなり切断されてしまうのだ。何の罪もないのに奈落に突き落とされたようで、理解を超えている。息子の死を自分や家族にどう納得させるのか、どういう道筋をとおって立ち直ることができるのか、そこがこの映画が描こうとしたところだ。

 家族の死ということなら私も若いときに父をなくしていて経験済みであるが、危篤状態であり心の準備は少しはできていた。それでも死は理解を超えていた。死は避けることのできない運命だが、当たり前のことだが運命とは人が乗り越えられないものである。そして乗り越えられないものに直面させられるということもともに、私にはどうにも腑に落ちなかった。重かった。しかし私はぼんやりとそんなことを想ってはみたものの、意識的にその時間に立ち止まることはしなかった。はやく普段の状態にもどろう、生活に向き合おう、という気持ちが勝って、そのときの気持ちはいつしかうやむやになっていったものだ。だから死の不可解さに向き合う自分(人間)についてはぼんやりとは覚えている程度である。また、そういう悲嘆の際の人間が外側からどんな風に映るのか、とはまったく思ってみたことがなかった。他人様の悲嘆のさまを覗き見るのも気がすすまなかったからでもある。

 この映画はそうした死に直面した家族を冷静にカメラにおさめている。もっとなりふりかまわず泣けばいいのではないかと想うくらい父の精神科医ナンニ・モレッティ(監督も兼ねる)は平静に努めようとする。気晴らしをもとめて遊園地に行ってみる。人々の賑わいのなかでアクロバティックな動きをする遊具に乗るが楽しさは湧いてこない。むしろナンニ・モレッティの視線でとらえられたぎくしゃく揺れる遊園地の風景のさまが悲しみをあざやかにすくいとる。母や姉はさめざめと泣くが、これも攻撃的に泣くことによって何かしら憑き物を追い払おうとするたぐいの涙ではなく、堪えきれずに流してしまう涙に見える。ベッドに横になって泣く母ラウラ・モランテが真に迫っていてたまらなくうつくしい。うつくしいという言葉が適するかどうか判断できないが、感じたままならうつくしいと記すほかない。またこの家族は、嵐が過ぎ去るのを身を縮めて待つように、ただ鎮静や忘却を願うのではない。中断された息子の物語が、彼の死後!ふたたび始まるのだ。

 息子の死をいまだ知らないガールフレンドから手紙が来る。ここからも少し曲折があるが詳細は省くとして、両親は彼女に対して生前の息子に対したのと同質の接し方をする。心配し遠慮しながらもやさしくする。それは息子が彼女にそうしたいと願っているのではないかという思いに促されるからだ。つまりは、両親からみれば彼女は息子にとっての形見として映るのだ。
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キャスト・アウェイ(2000/アメリカ)

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(2008/10/17)
トム・ハンクスヘレン・ハント

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 トム・ハンクスは国際的な宅急便会社の幹部で、荷物を搬送中の飛行機に同乗したさい墜落事故に遭う。そして彼一人だけが無人島に漂着して奇跡的に命を取り留める、という話。映画はこの無人島における彼の生活ぶりが大部分を占める。

 めったやたらに体験することではないが、話としてはこういうことは馴染みがある。水と食料を確保し、雨風をしのぐために小屋を作る、また火を起こす。生存のために最低限必要なことを試行錯誤のはてに成し遂げていく。それは心細さや寂しさに打ち勝っていく過程でもある、そして最終的には、流れ着いたアルミの大きな板を帆に利用して筏を組んで脱出するのだが、そこまでの生活ぶりの逐一がたいへんこまやかに描かれる。

 前後して漂着した飛行機の搬送物のいくつかのなかにバレーボールがあった。これに彼は顔の絵を描いて対話する。「顔」といっても彼が手を負傷したときの手形で、そこに目鼻を描きいれただけのもの。シンプルだが、彼の自暴自棄に陥りがちな自分を食い止め、なぐさめるためだ。身の回りにある精神にかかわるものといったらこれひとつだ。だがボールには島の生活の時間においては視聴者に明かされない意味があって、トム・ハンクスが生還したのちみずから明かす。また脱出を決意できたのは漂着物の「帆」のおかげだということも。その直前まで彼は無人島での生活をずっとつづけるつもりだった。偶然島の近くを航行する船に発見されることでも期待したのだろうか。これには重要な意味がある。外部によって私たちは自己内世界では思いつかない希望、積極性をはじめて知らされるということだ。トム・ハンクスのこの事後の説明によって無人島の生活があらたな角度でふりかえられる、この映画の巧みなところだ。

 生還しても彼の以前の居場所は、とくに家庭においては無くなっている。詳述はひかえるが、悲しい場面は島本理生の小説『ナラタージュ』を連想させた。

 島の風景で印象的だったところ。トムが海に面した山の高所に立ったときの海面。突きでた岸壁に向かって波が取り囲むように半円形になってゆっくりと押し寄せる。波頭の白の一本一本は直線だが、全体としては半円形である。不思議な眺めだった。トムは無言だが「俺はたいへんなところに来てしまった」とでも慨嘆しただろうか。
23:58 | DVDで見た映画・2000年代 | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

ブラインドネス

 不快感を催させかねないあらあらしい映像が、全体のかなりの部分を占める。視界が真っ白になって見えなくなる眼病に人々がつぎつぎに感染していくのだが、その視界を代わって表現するかのように白のまさった映像で、ピントを故意にずらしたり、おもいきって省略したり、「眼前」の重要な事物を逆に黒っぽくしたりする。これは従来的な映画の映像に対する挑戦の意味を持つだろうし、かなりの部分成功していると思う。不快ついでに音響のほうも不快さをもっとくわえてもよかったのではないか。というもの最初に眼病を患う伊勢谷友介とその妻の木村佳乃のマンション宅で、ジュウサーが悲鳴のような音を立てるからだ。不自然なほどの大きい音でこれは驚いた。これはその後の展開に期待を持たせるいい意味での私にとっての驚きだった。しかし音のほうは、この部分が最初で最後だった。枕の意味をもたせたのだろうか。

 話は隔離施設に収容された人々が、不自由な目でどういう行動をとるかということだ。絶望と憔悴のなかで希望を失うまいとする人々のなかで、一致団結して待遇改善を勝ち取ろうとする者がいる。また欲望にまみれて少ない配給食糧を独占しようとし、そのうえ暴力支配を確立しようとする者がいる。前者は眼科医のマーク・ラファロで、後者はガエル・ガルシア・ベルナル。さらに眼科医の妻のジュリアン・ムーアは実はたった一人目が見えていて秘密にして夫についてきている。のちには彼女が夫に代わって大活躍するのだが。

 これはSFというよりは寓話だ。今日では考えにくい伝染性の眼病によらずとも、ある特定のせまい地域でほかの病気や貧困が蔓延する場合と状況はまるで同じではないか。つつましく平等に甘んじようとする人々が大部分であっても、必ずや自分さえよければという輩が出てきて非情な暴力をもちいる。そしてその暴力に抗することは並大抵ではないが、ずばぬけた力があれば可能にもなろうというものだ。そしてまた、そういう「力」がなく抗争が早期に決着がつかず泥沼化すれば、どちらが善か悪かということも見分けがたくなる。映画ではそこまではいかない。本作では暴力に抗するたくましい「力」がジュリアン・ムーアの「目」に当たり、映画の時間のなかであっさりと決着がついてしまうので、かえって通俗性を帯びてしまうのだが。

 隔離施設には看護師などはいない。にわか眼病者は誘導する人がいてもときには自分で歩かねばならない。両手を前にさしだしておそるおそるぎこちなく歩く。どこに何が待ち受けているか、目的のものがどこにあるか全くわからないのでけ躓いたり倒れたりが常態だ。またあちらこちらにものを捨てるわ、用を足すわで、建物内部がどんどん汚れていく。テレビ画面から冷酷に呼びかける監視者の映像も、時間の経過につれて何故かしだいにぼけていきよじれていくのも象徴的だ。最初に書いた白が過剰な映像を基礎としてのこれら施設内部の光景の移り変わりは、映像的にたいへん腑に落ちる。

 そして一行が脱出に成功したあとの街の風景はやはり汚れて乱れきっている。皮肉という次元ではなく街全体も眼病に汚染されたことを一行も視聴者もはじめて知る。だがおりから降り出した雨のなんとさわやかなこと。シャワーとして人々は喜んでそれを浴びる。さらにジュリアン・ムーアが自宅に一行を招待しての料理のもてなし。これが私にはたいへんおいしそうに感じられた。生唾が湧いてきた。
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