バットマン(1989/アメリカ)
09/29/2008 (Mon)
![]() | バットマン (2000/04/21) マイケル・キートンジャック・ニコルソン 商品詳細を見る |
このシリーズは最新作の『ダークナイト』をはじめ何本か見たが、しっくりこない思いが残った。どうしてだろう、たぶん、単純明快なヒーローアクションとの先入見がどこかにあった。痛快さをもとめていたのだ。だがそれほどのものはえられなかった。わたしはまちがっていたらしい。製作者の意図はわたしの先入見とは少しずれたところにあった。このシリーズ第一作を見てようやく納得できた気になった。
マイケル・キートンのバットマンよりも、悪役のジャック・ニコルソンのジョーカーを主役に見立てたほうが見やすくなるのだ。彼は架空の都市ゴッサムシティを恐怖におとしいれる犯罪集団の頂点に立つ男だが、犯罪の被害を真面目に受け取って憤慨するよりも、彼のいじめっぷりを苦笑しながら楽しめばよいのだ。いじめはよくないし、いじめられるのも御免だ。だが私たちの心のなかには正直なところ、いじめを面白く思ってしまう感性が十のうち二、三割は残っているのではないか。その感性をジャック・ニコルソンは見事に、醜悪さをもあわせて引き出してくれる。「いじめは面白い」というひん曲がった人格を芝居っ気たっぷりに見せてくれる。よくあれだけ痛快さを響かせる笑い声がつづくものだと感心させられる。
なかでも、美術館にかざられた歴史的名画のかずかずを落書きしたり、ペンキで塗りたくる場面は秀逸だ。白塗りの顔に、ベレー帽にスーツにブーツという狂ったコスチュームで、ダンスミュージックにあわせて軽く踊りも交えながら、例のけたたましい笑いでやっていく。手下がでかいラジカセをもってついていくのだ。だからといって無論、ジョーカーに心底共感できるというもでもないが。
バットマンはたしかに強い。空を飛ぶことができるし、弩級の戦闘車両も駆使する。だが手下とばかりの格闘で、ジョーカーにはなかなか追いつけない。そうこうするうちに、ジョーカーの仕掛けた毒入り化粧品で女性がばたばた死んでいく。(その死に様がまた苦笑ものだ)それに彼は普段は青白さの残るブルジョアのお坊ちゃまで、老いた執事とともに豪邸で孤独に暮らしている。その表情に憔悴の色が浮かぶとき、してやったりというジョーカーの「痛快」さの目で私は見させられた。勧善懲悪の原則ははずせないのか、ジョーカーにも最後がくるが、それでもマイケル・キートン(バットマン)にとっては、やっとこさの感がある。
単純で明朗で絶対的に強い。こういうヒーローの活躍する時代はとっくの昔終わったのかもしれない。
プラトーン(1986/アメリカ)
09/20/2008 (Sat)
![]() | プラトーン (特別編) (2008/03/05) トム・ベレンジャーウィレム・デフォー 商品詳細を見る |
ベトナム戦争が舞台。ベトナム民間人に対する殺戮をめぐっての積極派と否定派の深刻な対立を新兵チャーリー・シーンの目をとおして描く。前者のリーダー的存在がトム・ベレンジャーで、顔面にむごたらしい傷を残している。復讐心のかたまりのような人物で、部隊内でも冷酷で傲慢だ。これに対してウィレム・デフォーは良識派で、無闇な殺害は断固否定する。チャーリー・シーンもその立場だ。それぞれを支持する兵がいて、自然に派閥が形成される。だがこの対立はそれほど整然とはしていない。チャーリー・シーンのなかで理性というものがたいへん危なっかしいことを見せてくれる場面がある。
小隊が索敵のために小さな山村をめざすが、その集落の手前の場所において同僚の兵が木にくくられて殺されていた。これで部隊全員が殺気立つ。集落にはいると荒っぽいガサ入れをして、北ベトナム兵がかくまわれていないか探索する。女性と老人が大部分だが、若い男が一人いて、これが何やらチャーリー・シーンに向かってわめきつづける。調子の外れた笑いも交え、言葉が理解できないのでチャーリーは挑発された気になってしまう。すっかり興奮して言い返すどころか、その男の足もとに銃弾を雨のように浴びせるが、男の理解不能な、もしかしたら反抗的な態度はいっこうに改まらない。チャーリー・シーンの理性的忍耐も限界かと思われる場面で、こういうことは戦場において起こりがちなのではないかと唸らされる。言葉がたがいに通じないことが苛立たしさを必要以上に高めてしまうのだろう。視聴者を虜にする。この若い男だが、あとからそこへやってきた別のアメリカ兵によって銃殺されてしまう。さらにトム・ベレンジャーが兵隊たちによって詰問されていた女性数人を殺そうとしたところを、ウィレム・デフォーが駆けつけてきて激高して制止する場面へとつづく。
この殺戮肯定派と否定派の対立はさらに抜き差しならなくなるが、このあたりからは戦争の現実を踏まえるよりも、映画を盛り上げるため、またオリヴァー・ストーン監督の反戦的な主張を刻みこむため、やや強引な物語の展開となる。だがトム・ベレンジャーやチャーリー・シーンの行動は驚くに値する。
「戦争の現実」かもしれない場面には愉快さもある。チャーリー・シーンが大麻を教えられるところ。ウィレム・デフォーがチャーリーに銃口をくわえさせて開いた弾倉から口に含んだその煙を吐き出す。受け止めてくらくらするチャーリー。部屋にいた兵たちがやんやの喝采。こういうことで仲間になっていくんだろうなあ、と思わせる。それにつづいての男同士のダンスパーティ。題を忘れたが、スモーキー・ロビンソンの名曲が流れていた。
もうひとつ。遺体を被ったシートが離陸するヘリコプターのプロペラの風によってめくれあがるところ。何気ないが印象に残った。
黒薔薇昇天(1975/日本)
08/29/2008 (Fri)
![]() | 黒薔薇昇天 (2006/03/24) 谷ナオミ岸田森 商品詳細を見る |
「やきもち焼いてしもた」――岸田森が意外さと感動を込めて叫ぶ。これがこの映画の眼目だ。岸田はブルーフィルムの製作者で、今しも、恐喝をし肉体関係も持った人妻の谷ナオミを被写体にして撮影の最中。当然男と谷がからみあう姿を間近で見て、あれこれ指示を出す。その最中に岸田は谷を心底好きになってしまったことを自覚するのだ。撮影は岸田監督の指示で当然中止される。このとき別世界のような「ブルーフィルム製作現場」が岸田の「やきもち」によって急に視聴者に身近になる。それどころか、あたたかい明かりがぽっと点るようなうれしささえ喚起されるのだ。「やきもち」が誰でもが覚えのある人間的感情だからだ。
それまでは神代辰巳監督独特の卑屈で隅っこ的な世界がえんえんとつづく。最初の撮影は「女優」の芹明香が妊娠したために中断。つぎの「女優」を探さなくてはならない。その間にも岸田はテープ製作という別の仕事にはげむ。犬や猫の鳴き声を録音したりと、それがエロスになりうるのかと失笑を誘う、いじましい、小さい世界。女性の苦痛の声を録ろうと歯科医にも盗聴器をしのばせるが、ここで大きな獲物をえる。谷ナオミと歯科医の浮気の最中を偶然にも録音してしまった。ここから自称芸術家の岸田は俄然小悪党に変身する。テープをネタにして谷をゆするのだ。
和服で着飾った谷と岸田が話しあう場所が、なんとも似合わない遊園地の狭苦しいゴンドラのなか。それにときどき流れる奥村チヨの「終着駅」こういうなんともちぐはぐな感覚が神代辰巳がつむぎだす世界だ。「明るい倦怠感」とでも言えばいいのか。さらに先に記した経過をたどることになるが、岸田森も谷ナオミもおもしろがって芝居をやっていて、その気分がこちらに伝わってくる。芹明香もこの女優の持ち味であるだらーんとした雰囲気も健在だ。被写体になる夫についていって「いったらあかん」を連発して岸田の「やきもち」に火をつけることになる。無関係に響いていた、愛の喪失を嘆く「終着駅」もここでつながる。
繰り返しになるが「やきもち」とそれ以前の映画の大部分を占める胡散臭い世界との断絶とつながり、これがあざやかに刻まれた佳作。それから細部。岸田と谷がセックスしたあとで、せまい廊下で、裸でローラースケートをして戯れる場面。仲良くなったしるしで、この部分も輝いている。






