吉野
03/31/2008 (Mon)
過日、法事のために母の実家を訪れた。私にとっては約三十年ぶりである。そこは吉野の山奥で、近鉄電車で最寄の駅まで行って、そこからタクシーで三,四十分ほどかかるところだ。鬱蒼とした杉の生い茂る山のたたずまいは変わることはなかったが、他の面ではおおいに変化があった。山奥にも公共事業は波及するらしく、道路はアスファルト舗装されて道幅がすこしばかり広がり、小川も護岸工事がなされて、こちらは反対に川幅がせまくなった。それにトンネルができて駅との距離がやや短縮されていた。また以前には見かけなかったレストランや宿泊施設もちらほらできていた。一方、田畑は半分以上は放棄されたようで、雑草に蔽われるに任せたり、植林がされていたりだった。大半の住民が六十歳以上で、それ以下の子供、孫の世代の人々はすべて都会やその周辺部に定着してしまったから仕様がないのかもしれない。路線バスもほぼ全廃の状態のようだ。
しかし何よりだったのは、各方面から駆けつけた叔父さんたちが元気だったことだ。七十歳代後半から八十歳代後半の人たちで、耳がとおくなったり、そのうえアルツハイマーが進行していたりだが、酒が入ると元気になり声も大きく明瞭で、傍目にはたいへん幸福そうだった。相手をするのはたいへんな様子で、久しぶりに会った従兄弟たちも手を焼いていた。私はずるいので、隅っこで酒食に向き合うのがもっぱらだったが。こんなことを書くのは気が引けるが、ボケるなら早い者勝ちかなあ、とも思った次第である。
しかし何よりだったのは、各方面から駆けつけた叔父さんたちが元気だったことだ。七十歳代後半から八十歳代後半の人たちで、耳がとおくなったり、そのうえアルツハイマーが進行していたりだが、酒が入ると元気になり声も大きく明瞭で、傍目にはたいへん幸福そうだった。相手をするのはたいへんな様子で、久しぶりに会った従兄弟たちも手を焼いていた。私はずるいので、隅っこで酒食に向き合うのがもっぱらだったが。こんなことを書くのは気が引けるが、ボケるなら早い者勝ちかなあ、とも思った次第である。
鉄腕稲尾
11/16/2007 (Fri)
稲尾和久さんが亡くなられた。元西鉄ライオンズのエースで鉄腕、神様仏様稲尾様、と称された人だった。その敬愛的ニックネームにまさにふさわしい、ものすごい活躍をした方だった。1958年の対巨人との日本シリーズでは7戦のうち6戦に登板で4勝2敗。西鉄は0勝3敗から4連勝して逆転優勝を勝ち取ったのだが、その大功労者である。なにしろ、3戦から7戦まで5連投をしてしまったのだから。また1961年には年間最多タイ勝利の42勝をあげている。
私も少年時代は稲尾ファンのはしくれだった。この人の現役時代を知る人もだんだんと少なくなるが、私もデビュー時から知っているのではなく、1960年あたりがファンとしてのはじまりだった。当時は巨人の長島茂雄が圧倒的に人気があったが、稲尾ファンも結構多かった。
並外れた力を持った投手だったが、私がそれにも増してあこがれたのは、たいへん優美な投球フォームだった。ぎくしゃくしたところがなく、流れるようだった。少年にはふさわしい表現ではないが「惚れ惚れ」してしまった。そして人間的タイプの面であるが、見た目、稲尾さんは闘志をむき出しにしたり、驕った態度をとることと無縁に見えた。ちょっと神秘的でさえあり、その面でもファンとして十分に引き込まれた。そんなこんな稲尾さんだったが、私が釘付けになっているテレビのなかで、まさに優美に、どんどん勝利を手中にしていった。
さみしかったのは稲尾さんの全盛時代の最後の年にあたる1963年の日本シリーズ。そのときの相手も巨人。第1戦と第6戦が日曜日にあたり、たっぷりとテレビで見せてもらった。その2試合はいずれも稲尾さんが登板し、完投勝利を飾った。つづく第7戦も予想どおり稲尾さんの先発だった。58年の伝説を知っていたので、きっと勝つだろうと私はたかをくくった。だが月曜日は子供は学校がある。(当時のシリーズはデーゲーム)帰宅して結果を家族に聞いて驚いた。18対5? という大量スコアで巨人がシリーズを制したのだった。稲尾さんはKOされたらしい。信じられない思いだった。
人間の体力には限界がある、超人なんていない。どうやら、そのことを私ははじめて知ったらしいのだ。叩きつけられるようで寂しかったし、つまらなかった。私は無意識に稲尾さんを「超人」視していたのだ。金田の通算勝利記録に追いつき追い越すのは稲尾さんしかいないと、少年なりにかたくなに信じていた。
それ以来、私はプロ野球にあまり心惹かれなくなった。復活し、先発ローテーションの一角で投げていた稲尾さんを見たことがあるような気がする。だが「昔」の稲尾さんではなかった。体重が増加してフォームに軽さがなかった。体がだるそうに見えて、悪い意味で力が抜けていた、球の威力もなかった。全盛時の稲尾さんをたっぷりと見てきた「贅沢」な眼には残骸でしかないように思えたのだ。これは稲尾ではない――今ふりかえると少年というものは残酷な意識をもちうる。
それはともかく、ろくな少年ではなかった私にとっては、稲尾さんはさわやかな思い出である。また単に過去にまつわる存在でもなく、これからも、あの全盛時代の優美な投球フォームをときどき思い描くことがあるだろう。今年は、同じ時代のもう一人のあこがれであった植木等さんも亡くなられた。合掌。
私も少年時代は稲尾ファンのはしくれだった。この人の現役時代を知る人もだんだんと少なくなるが、私もデビュー時から知っているのではなく、1960年あたりがファンとしてのはじまりだった。当時は巨人の長島茂雄が圧倒的に人気があったが、稲尾ファンも結構多かった。
並外れた力を持った投手だったが、私がそれにも増してあこがれたのは、たいへん優美な投球フォームだった。ぎくしゃくしたところがなく、流れるようだった。少年にはふさわしい表現ではないが「惚れ惚れ」してしまった。そして人間的タイプの面であるが、見た目、稲尾さんは闘志をむき出しにしたり、驕った態度をとることと無縁に見えた。ちょっと神秘的でさえあり、その面でもファンとして十分に引き込まれた。そんなこんな稲尾さんだったが、私が釘付けになっているテレビのなかで、まさに優美に、どんどん勝利を手中にしていった。
さみしかったのは稲尾さんの全盛時代の最後の年にあたる1963年の日本シリーズ。そのときの相手も巨人。第1戦と第6戦が日曜日にあたり、たっぷりとテレビで見せてもらった。その2試合はいずれも稲尾さんが登板し、完投勝利を飾った。つづく第7戦も予想どおり稲尾さんの先発だった。58年の伝説を知っていたので、きっと勝つだろうと私はたかをくくった。だが月曜日は子供は学校がある。(当時のシリーズはデーゲーム)帰宅して結果を家族に聞いて驚いた。18対5? という大量スコアで巨人がシリーズを制したのだった。稲尾さんはKOされたらしい。信じられない思いだった。
人間の体力には限界がある、超人なんていない。どうやら、そのことを私ははじめて知ったらしいのだ。叩きつけられるようで寂しかったし、つまらなかった。私は無意識に稲尾さんを「超人」視していたのだ。金田の通算勝利記録に追いつき追い越すのは稲尾さんしかいないと、少年なりにかたくなに信じていた。
それ以来、私はプロ野球にあまり心惹かれなくなった。復活し、先発ローテーションの一角で投げていた稲尾さんを見たことがあるような気がする。だが「昔」の稲尾さんではなかった。体重が増加してフォームに軽さがなかった。体がだるそうに見えて、悪い意味で力が抜けていた、球の威力もなかった。全盛時の稲尾さんをたっぷりと見てきた「贅沢」な眼には残骸でしかないように思えたのだ。これは稲尾ではない――今ふりかえると少年というものは残酷な意識をもちうる。
それはともかく、ろくな少年ではなかった私にとっては、稲尾さんはさわやかな思い出である。また単に過去にまつわる存在でもなく、これからも、あの全盛時代の優美な投球フォームをときどき思い描くことがあるだろう。今年は、同じ時代のもう一人のあこがれであった植木等さんも亡くなられた。合掌。
カラス
10/08/2007 (Mon)
今日は、映画に行った。「テアトル梅田」というところだが、梅田といっても大阪駅からは北東部にずいぶん離れたところにある。ロフトという大きな雑貨店のあるビルの地階である。午前の部に二十分ほど前に駆けつけたが、祝日ということもあってか、ほぼ満席状態。仕方なく二時間以上あとの次の回の切符を買って、周辺をぶらぶらして時間を消費することにした。あいにくの小雨模様で、傘を持参しなかったことを少し悔やんだが。
隣接する毎日放送のエントランスで、小雨をしのぐためにただぼんやりとつっ立っていた。さあ、これから何をしようかと、ゆっくりと考えていたところ、視界に異変が起こった。車道と歩道をわけるための低い鉄柵のところである。鉄柵も黒く塗られているのでまぎらわしかったが、烏がそんな低いところにとまっているではないか。ちょっと無気味だった。だが、さらにもう一回、私の視界に異変が起こった。色鮮やかなアオムシを口にくわえているのだ。蝶かほかの昆虫の幼虫だ。やがて烏は歩道に降りたつ。烏はアオムシのはしっこをくわえたまま、それを呑み込む気配はない。その間、アオムシは体をぴくぴく動かす。驚きだ。生き物というのはしぶとい、最後の最後まで抵抗をやめない。動きによって、烏のくちばしから体をもぎはなそうとするのだろう。規則性をもっての上下というのか、左右というのか、コマ送りを見るような動きだった。そしてその鮮やか黄緑色。私はうっとりと見入ったのだったが、やがて烏は獲物をくわえたまま、急ぐように遠方へ飛んでいった。
鉄柵に並行してケヤキ並木が植えられているが、たぶんその一本を探索しての収穫だったのだろう。私にとっても、肉眼にあたえられたちょっとした収穫だった。
そのあとは、体力を消耗させないためにできるだけゆっくり歩いて、古本屋めぐりなどをした。欲しいものがいくつかあったが、「つんどく」状態のものがあるので、それを片付けてからと、自分に言い聞かせ、買わなかった。
隣接する毎日放送のエントランスで、小雨をしのぐためにただぼんやりとつっ立っていた。さあ、これから何をしようかと、ゆっくりと考えていたところ、視界に異変が起こった。車道と歩道をわけるための低い鉄柵のところである。鉄柵も黒く塗られているのでまぎらわしかったが、烏がそんな低いところにとまっているではないか。ちょっと無気味だった。だが、さらにもう一回、私の視界に異変が起こった。色鮮やかなアオムシを口にくわえているのだ。蝶かほかの昆虫の幼虫だ。やがて烏は歩道に降りたつ。烏はアオムシのはしっこをくわえたまま、それを呑み込む気配はない。その間、アオムシは体をぴくぴく動かす。驚きだ。生き物というのはしぶとい、最後の最後まで抵抗をやめない。動きによって、烏のくちばしから体をもぎはなそうとするのだろう。規則性をもっての上下というのか、左右というのか、コマ送りを見るような動きだった。そしてその鮮やか黄緑色。私はうっとりと見入ったのだったが、やがて烏は獲物をくわえたまま、急ぐように遠方へ飛んでいった。
鉄柵に並行してケヤキ並木が植えられているが、たぶんその一本を探索しての収穫だったのだろう。私にとっても、肉眼にあたえられたちょっとした収穫だった。
そのあとは、体力を消耗させないためにできるだけゆっくり歩いて、古本屋めぐりなどをした。欲しいものがいくつかあったが、「つんどく」状態のものがあるので、それを片付けてからと、自分に言い聞かせ、買わなかった。


