宮廷画家ゴヤは見た

 ハビェル・バルデムやナタリー・ポートマンは現在油の乗った俳優といえるだろう。力のこもった芝居がはまっていて、それだけに見ごたえがある。だがゴヤ役のステラン・スカルスガルドという人はどうか。これは俳優としてよりも、監督やシナリオ作者の問題である。画家という職業に対する造形の念がどこにあるのかというくらいにショボい人物像でしかない。物語の中心にたえず居つづける狂言回しという以上の存在ではない。画家や芸術家がもつであろう誇りが、よく描けていないと思った。

 十九世紀前半のスペインが舞台。ゴヤは女王の肖像画も描くが、ハビェル・バルデム(ロレンソ神父)や資産家令嬢のナタリー・ポートマン(イネス)も描く。ゴヤはことにナタリー・ポートマンを気に入って彼のほかの絵にも登場させる。だがそのナタリーがレストランで豚肉を食ったの食わなかったので隠れユダヤ教徒の疑いをかけられて教会の異端尋問にかけられる。尋問といっても実際は拷問で、ナタリーは「自供」し、長らく獄舎に閉じ込められる。ナタリーの一家は当然激怒し、親交のあるゴヤをつうじてハビェル・バルデムに解決をたのむ。教会に大金を積むことは勿論、同時にハビェルに暴力を行使して言質をとることまでする。これは拉致問題そのままで、どんな手段を使ってでも娘をとりもどしたいという親兄弟の切羽詰った姿勢はたいへん共感できる。

 だが教会に顔が利くはずのハビェルは何も成果があげられない。あげくは獄舎のナタリーに近づき、神父の特権を利用して肉体を奪うことまでする。そして彼はフランスへ逃亡。だがやがて彼は革命思想家としてスペインにもどってきて権力を振るうにいたる。ナポレオン軍の進駐によるものだ。

 このあたりのハビェル・バルデムは悪人ぶりが板についていて見させる。傲岸不遜の面構えで、憎々しい。ゴヤが解放されたナタリー・ポートマンを彼に面会させ、生んだ子供のことを告げさせてもスッとぼける。一方のナタリーは精神が壊れているが、ハビェルのことは昨日のように覚えている。そこで時間がとまっているのだ。視線がうつろで、口を歪ませたメイクが効果的だ。

 ハビェルは悪人ぶりをつづけながらも、少しずつ革命思想家としての矜持に目覚めていく。いきなりではなく、実娘(ナタリーの二役)を探し出したりの過程を経てのことだ。このおくれ具合が思想の転開とはこういう風になされるものかもしれないと、私に思わせた。それに比べるとゴヤはどうか。ハビェルと言い争う場面がある。変節漢だの、ときどきの権力者に媚びる売春婦だのと罵倒しあう。だがゴヤは反論できないのだ。ここは残念だ。私の考えでは、画家という存在は巨大なパトロン無しでは成立しない。つまりは大なり小なり体制内的存在で、そのかぎりではうしろめたさはまぬかれない。だが作品制作に打ち込むことに、いいものを作りつづけることにこそ画家としての意義が、矜持があるのではないか。そんな反論をしてもらいたかったのだが。もっとも、最初のほうにいい場面があった。女王の肖像画の顔が思いのほか不美人で、それを王夫妻に指摘される。だがゴヤは微笑をたたえてひるまない。仕上がりに自信があるからだ。これでこそ画家といえる。

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12人の怒れる男

 チェチェン人少年の義父殺しの裁判が結審し、十二人の陪審員による審議がはじまる。場所は臨時に設けられた小学校の体育館。裁判所が改築中らしい。裁判の描写は省略されているが、どうやら有罪が濃厚な雰囲気である。陪審員はそれぞれ忙しい様子で落ちつかない。手っとり早く有罪判決を出して自宅やら予定の場所やらへ行きたがっている。だがたった一人の男が無罪を主張して審議は長引くことになる。

 推理劇としては少々荒削りの印象がしないでもない。わかりやすくするならば、陪審員のなかのいくつかの有力な主張を再現ドラマにして、少年や義父や「真犯人」や目撃者を登場させればよかったのだろう。あとはそれを比較検討すればよい。だが監督ニキータ・ミハルコフの狙いはそこにはなかった。陪審員それぞれがもつ人生経験とそこから自分流にひきだされた「真実」を吐露させること、またエリツィン以来の「自由」と資本主義が押し寄せてきた新生ロシアの社会的現実(その荒廃)をあぶりだすこと、それにひところ激しかったチェチェン戦争、このあたりにあったと思われる。三者は無論関連するのだ。推理の「論理」だけならば、論議はもっと早くすすむだろうが、陪審員は自分の人生経験からえられる「真実」で肉付けしたい。そうすることでその「論理」をより強固なものに完成させたいのだ。たとえば殺害に使われたナイフは少年の所持していたナイフときわめて酷似していた。犯人が少年でないならば、何ゆえナイフは酷似していたのか、という問題だ。(少年の所持していたナイフはどこにあるのか、無くしたのか、映画中では説明がなかった)そのナイフは市場で容易に手に入れられるナイフだとしても、あまりにも偶然が過ぎるのではないか、これが少年犯人説の有力な根拠で、それを支持する陪審員も多い。だが反対者は「奇跡」は起こりうると、みずからの人生に照らし合わせて、食いつくように語る。会社社長は、現在の妻と結婚できて酒びたりのどん底生活から這い上がることができた。その出会いは「奇跡」そのものだったと。また別の男は父の「奇跡」を語る。大戦当時リトアニアに住んでいた父は、危険覚悟でナチス将校の愛人に手を出した。子ども時代にその女の写真を父に見せてもらったが、この世のものとは思えない美しさだった。父の気持ちがわかった。戦争が終わると語り手の実母と離婚までしてその女と晴れて一緒になったと。「奇跡」「偶然の一致」を肯定的に説明するのに、それぞれがここぞとばかり人生経験を引き合いにして、長々と「自分語り」をするのだ。陪審員ひとりひとりの判断が被告の少年の運命を大きく左右する。すっきりした論理だけでは後悔がのこるというのだろうか。

 さらに最後のほうになると「論理」は「信念」にまで傾いてくる。隣のビルにすむ老婆の目撃証言はずさんだった。犯行時間は夜で明かりもついていなかったので、視認はできそうにない。「殺してやる!」という少年の叫び声を耳にしたが、それも距離や騒音の関係であやしい。ところで、老婆は少年とその義父であるロシア人将校と懇意にしていた。義父がそのころ愛人をつくっていたことも知っていた。そこで老婆は自分のロシア人将校に対する嫉妬感情を少年に投影したのではないか、これがある陪審員の類推である。その主張に対してそれまで頑強に有罪説を下ろさなかったタクシー・ドライバーが、自己体験を披露する。老婆のではなくて、少年自身の嫉妬感情を大いにありうると断定する。何故なら彼の息子も父の二度目の妻に対して執拗に嫌がらせをしてなつかなかった、父を盗られたという思いがあったのか。だが随分時間が経ってから息子は父(語り手)に泣いて謝ってくれた、抱き合って私も泣いたというのだ。血のつながりのない家族であっても、時間をかければ仲良くなれるといいたいのだろう。息子と真につながりを持てた、という実感がタクシー・ドライバーにはある。さらに敷衍して彼はチェチェン人の少年もそうやすやすと義父を殺したりはしない、と自分の息子を老婆とはまったく逆の見方で少年に投影して見せる。「論理」ではなく「信念」や希望なのだ。またこのタクシー・ドライバーは最初の妻が逃げて、アメリカ人の元に走ったという新生ロシアの「洗礼」を受けている。そしてついに彼も主張を変える。

 商売上、あくどい仕掛けをして賄賂を稼ぐと告白する陪審員もいる。この言は重要で、地上げ屋の暗躍説を浮かび上がらせ、たいへん説得力をもたせることになる……。

 チェチェン戦争が、短い時間だがふり返られる。猛烈な機銃掃射、一転して戦闘が終わって戦車の上に犠牲者が横たわる、どしゃ降りの雨のなかで。さらに殺されてしまった少年の実の父母、これらの映像がなかなか効果的だ。注文をつけるとすれば、大部分が字幕の上映時間一六〇分は疲れる、ということか。(わたしは二回見た。大事なところが記憶から抜けてしまったので)それでもロシア人に対しての見方を少しばかり変えられるチャンスをもらった気がした。ロシアといえば、周辺の小国や独立志向の強い自国領土内の民族をいたずらに軍事的に踏みにじる大国のイメージが強いが、すべてのロシア人が自国家のそういうあり方に追随的ではない、批判的であることがわかる。資本主義の金儲け一辺倒の悪い面も冷静に観察できている。チェチェン人への偏見の是正もあって、ロシア人の良心を見た気がした。
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雲南の花嫁

 昨年公開された『雲南の少女 ルオマの初恋』がいい思い出を残してくれたので、同じチアン・チアルイが監督ということもあり見たが、ちょっと期待はずれだった。『少女』の主演女優リー・ミンのピュアな空気が素晴らしく、作品全体の空気までにもなっていたが、『花嫁』のチャン・チンチューはそこまでには至ってはいない。前者のリー・ミンは計算以上の効果をかもし出していた。新人女優と新進女優のちがいということか。

 この作品への不満を挙げておこう。少数民族のイ族は結婚した男女は三年間別居しなければならないというしきたりがあるのだという。チラシにもこれが書いてあったので、そういうしきたりに苦しむ若い男女の物語かなと思ったが、ちがっていた。まったく苦しみがない。というのもチャン・チンチューがお転婆ぶりをいかんなく発揮して花婿のイン・シャオティエンに会いに行くからだ。たがいの身内にもすぐに知れわたるが、「親の恥だ」と身内は嘆くだけだ。強制力を持って二人を引き剥がすことはない。その一家が村八分にあうこともないし、それを咎める地域の法規があるのでもないらしい。これは拍子抜けした。勿論そういうしきたりはないほうが若い男女にとっては自然だし、現代社会としても好ましい。だがそういうこととは別に、それではこの映画が描こうとしたしきたりとは何なのか、単に形骸化してしまったものの名残なのか、いっこうにわからない。設定の意図もわからない。

 イン・シャオティエンは十人たらずの若い女性で構成する竜舞隊の教官をしている。竜の人形をメンバーが一本ずつの竿で掲げて竜の動きを創りだす舞踊である。テレビ映像で見た人も多いだろう。チャン・チンチューはここにも押しかけていってメンバーの一員になってしまう。ここまできたらしきたりなどなんのその。彼女はリーダー的存在にまでなってしまう。さらにメンバーの一人の窮状を救うために夫には無断で、ビール会社の広告のために竜舞隊を使う。出演料をその女性の親の借金にあてるためだ。これも竜舞隊としてはしきたり違反である。夫は当然激怒するのだが、ここでも社会や地域の反応がつかめない。若い夫婦の喧嘩という以上には見えない。

 悪口ばかり書いたが、好印象をもたらしてくれた要素もある。棚田こそ出てこないが、雲南の手付かずの自然やら古い家並みやら寺院やら。それに赤を基調にした華麗な民族衣装も見どころ。雲南省はベトナムに国境をせっしているが、私には中央アジアの系統の衣装に見えた。

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