フォークナー『サンクチュアリ』
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▲ 自分の生まれ育った環境が、家族もふくめてそこに住む人々の生活様式や因習や感情が、血肉となって自分のなかに流れている。そういうことを強く意識させられることが人によってはあるのだろう。さらには、関心の対象であるという以上に、取り除かなければならない病巣がその環境の中心部にあって、それは自身にも深くつながっているのではないか、という疑念にとらえられる。病巣が自身そのものではないが共通部分がある、あるいは近接した場所に居座っている。何とか対象そのものを明確にして自身とを分離させ、その距離を最適にとらねばならない。だがその作業は容易ではない。そこに的確にメスをとどかせるには知力と体力が並外れていなければできない、生涯のほとんどを注ぎこまなければならないほどの根気が要求される、格闘そのものだ。ウィリアム・フォークナーを読むと、そんな射程の長さを感じ取らずにはいられない。彼の著作のほんの一部分をかじっただけに過ぎないが、書いておきたい。ともかくフォークナーにとっての環境(=故郷)とはなつかしさばかりのものではなかった。親しみよりも嫌悪が先に来た。
▲ フォークナーが追求したのは悪であり、それを体現した悪人である、またその悪人に翻弄されて平穏をうばわれてしまう人々、またそれとはやや隔たった位置にあって取り巻くように存在しながらも、どこかはじめから常軌をうしなった人々、群集である。そしてそれらの「多数派」を形成する人々のなかで、孤立しながらも誇りと自由とひとかけらの倫理を失うまいとする人や、社会的規範を実現しようとする人である。無論フォークナーは後者に希望を託したのだし、小説のなかであれそこに「伝統」と呼ぶべきものを定着させたいと願ったと思いたい。
▲ さて、この小説は同時に起こった殺人とレイプの事件とその後の裁判の経過、それにそこに関わった人々の劇的な体験が描かれる。悪役つまり犯人はポパイという小柄な男で、人を虫けらのように射殺したり、女なら異常な方法で犯してしまって平気な、同情の余地のない文字通り冷酷非情の悪人だ。彼は廃屋となった農家を利用して、数人のグループとともに密造酒を製造していた。一九二〇〜三〇年代の禁酒法の時代だ。そこへ無類の酒好きの青年ガワァン・スティヴンズがガールフレンドのテンプル・ドレイク(十七〜八歳の女子大生)を車に同乗させてやってくる。あちこちに酒を求めて満足な品が得られなかったためで、そのグループから以前にも買ったことがある。ところが彼はすでに酔いがまわっていて、廃屋の手前の道で事故を起こして車は運転不能になった。テンプルは単身で日没前にそこから離れようとするができず、結局は二人してそこに泊まらなければならなくなる。パーティ用のはなやかな服装をした若い女を見てほとんどの男が欲情を抱く。しかも同伴の青年は酔っぱらっている。そんなグループのなかでトミーという鈍重そうだがお人よしの男と、ルービー・ラマーというグループの食事の世話をするたったひとりの女性がテンプルを擁護する。だが彼らの心配と行動も空しく、一泊した翌日の午前にテンプルは、まぐさ小屋でポパイによって暴行を受ける。さらにテンプルの傍にいたトミーも邪魔者扱いされて銃殺されてしまうのだ。
▲ これが事件の概要だが、物語はつづく。ポパイはすっかり怖気づいてしまったテンプルを車に乗せて逃亡し、ミス・リーバという女の経営する売春組織の館に監禁する。そこでもさらにテンプルに暴行を繰り返すのだ。ミス・リーバという女も悪辣で、ポパイは彼女にとっては金離れのいい上得意客らしくて、好きなようにやらせて眼をつむる。一方、廃屋に残っていたリー・グッドウィンという男がトミー殺害容疑で逮捕される。彼には殺人の前科があった。他の仲間はすでに逃亡したあとなのか、小説では詳しくはふれられていない。グッドウィンは否認したまま裁判を待つことになる。ホレス・ベンホウという弁護士が彼の弁護を引き受けることになるが、グッドウィンは寡黙だ。目撃こそしないものの、ポパイが犯人であることは普段の凶暴と短気から見当がつきそうだが、打ち明けない。彼もまたポパイをおそれ、その復讐に縮みあがるようだ。刑務所の格子つきの窓の外からさえ、ポパイの銃口が向けられるのではないかと心配するくらいだ。
▲ フォークナーは初期にはあまり注目されない作家だったという。最初に話題になったのがこの「サンクチュアリ」で、しかもその煽情性ゆえであったという。ポパイが不能者であり、そのレイプの方法がトウモロコシの穂軸をつかってのものということが読みすすむと明らかになる。売春宿ではごろつき仲間のレッドという男にテンプルとセックスをさせて傍で見て興奮するという異常ぶりが加わる。しかもテンプルは処女で、その出血の様もほんの少しずつだが描写がある。世間の注目を引きたい思いがあったのか知らないが、あまり印象はよくない。しかしそういう要素もまたフォークナーの特色かもしれない。印象の悪さは、この小説の中心部で質を換えてさらに展開されるので、「煽情性」ははずみをつける役目を担わされたのかもしれない。
▲ テンプルはすっかり正常性を失う。病気かどうかはわからないがとにかく異常で、そのことに自身気づいていない。自身がどんなに打撃をこうむったのか正面から受け止めようとしない。あまり残酷だから目をそらすのか。そのうえポパイに対する恐怖心で一杯になったうえでセックスを教えられて、その欲情にも執着してしまう。ようやく彼女を探し当てて事件の核心部を聞き出そうとするベンホウに向かって、彼に言わせれば「いわば女性が自分は人々の注目を浴びていると気づいたときにする派手なお喋り調の独り言」をまくしたてる。そこには「誇り」や「素朴で無邪気な虚栄心」はたしかにあるものの「独り勝手な空想」でつくりあげた話だ。どうしようもなく事件の核心を避けてしまうのだ。
それからあたし言ったの、これじゃあまだ利かないわ。あたし男じゃなきゃだめだわ。それであたし年寄りになったの、長くて白いひげを生やした男にね、するとあの小柄で黒い服の男はだんだん小さくなっていって、そしてあたし、ほらごらんと言ったわ。よく見てごらん。いまあたしは男よ。あたし男になったときのことを考えて、そしてそれを考えはじめたとたんに、そうなったの。あれがね、ぽんというような音立てて出たわ、まるで細いゴム風船を裏返しにして息を吹き込んだときみたいにね。あれは冷やっこい感じだったわ、ほら、口をあけたままにしておくと、内側が冷たくなるでしょ、あの感じ。そしてあたし、いまにきっと彼がびっくりするぞと思いながら笑うまいとしてじっと寝てたわ。あたしのパンティのなかではあの手の行く先でぴくつきが走るのを感じていて、あたし、寝たままで、もう一分もすれば彼がどんなに驚いて怒るかしらと思って笑わないように我慢してた。それから急にだしぬけにあたし眠っちまったの。彼の手があそこに届くまで目をさましてさえいられなかったの。ただすうっと眠っちゃったわ。(289p以下)
▲ これは、すぐには呑み込めない世界だ。無理から事件を冗談にしてしまって笑い飛ばすポーズをとろうとするのか、童話的な世界に逃げこもうとするのか、とにかく正常ではない。強がるのか。ペニスが生えてくればいいとは、一瞬でも頭をよぎったのかもしれないが、針小棒大に語るばかり。相手の男が小さくなったなどとは、そのときは微塵も考えなかったにちがいない。「あれ」とは女性器のことで「裏返し」になったとはそれがペニスに変身したことをさすが、笑いをこらえただの、すべて捏造の世界だ。しかもこれは暴行の直前の様子を語るのではなく、その前夜の未遂におわったときのことらしい。真っ暗闇の部屋のベッドに彼女はガワァンと並んで眠った。しかもルービーが部屋の隅でこっそり見張っていたし、トミーもポパイを尾行していたのだ……。あまりに無残な体験をすると、正面からそれをふりかえることが直ちにはできないものかもしれない。私はその点では同情せざるをえないが、言葉がまるで支離滅裂で、醜い態度であることは否定できない。作家とは、否定的な人間像をも想像力でもってその対象に乗り移ろうとするものではないだろうか。また作家自身の過去にも、現在からみて否定すべき心身の体験があり、それも動員するのかもしれない。だがいつまでもその作業にとどまって入られない。フォークナーはホレスに「あの子は今夜にでも死んじまったらそのほうが身のためなんだ」と憤激と苛立ちを抱かせるが、ここまで書いてきたフォークナー自身に対する吐きすてたい気持ちも多分に反映しているのではないか。
▲ だがほんとうに絶望すべき事態は裁判において訪れる。テンプルは証言者として出廷するが、そこでグッドウィンを真犯人とする検事の主張をあっさりと肯定してしまうのだ。ここは読んでいてがっくりするところだ。たしかに彼女のポパイに対する恐怖心は察してあまりある。なにしろ目前で二人もの命がポパイによって葬られたからだ。トミー、そして彼女が逃亡のためにすがろうとしたセックスの相手のレッドだ。これはポパイ個人への恐怖もさることながら、劣悪な治安状態の小さな町全体への恐怖でもあるのだ。フォークナー書くところの架空のヨクナパトゥファ郡の郡都ジェファスン。ここでは判決後、群集がグッドウィンを刑務所から引っ張り出して焚刑にしてしまって溜飲をさげる。極端だが、アメリカの昔においては警官の数が少なすぎるのだろう。それにしてもだ。この裁判の敗北には不条理を認めざるをえない。テンプルがボディガード四人と父にかこまれて法廷から車に乗る場面は、厭味である。
▲ フォークナーがこの小説で肯定的な人物として描いたのは、ホレス・ベンホウ以外にはルービーがいる。彼女はグッドウィンの妻で、密造酒グループのときも裁判のときもグッドウィンの傍を離れない。しかも彼との間に生まれた赤ん坊も抱えているのだ。一回目の殺人事件のときも軍隊生活で海外に彼が赴任中のときも、貞操を守って帰還を待った。しかも弁護士費用を捻出するために働きつめて、それでも足りないとなると弁護士と寝て代金代わりにした。ベンホウにもそれをもちかけるがベンホウはあっさりと断る。グッドウィンという男がいかにも平凡に描かれるので、そこまでしなくてもという感情を持ってしまうが、列女といえるだろう。ルービーは多弁で、みずからの過去と現在の行動に自信をもっていることがわかる。『罪と罰』でラスコリニコフの恋人となるソーニャを思い出させる。無論、あれほどは多弁ではないが。
▲ ポパイにはまったく魅力がない。まあ、こんなやつは一刻も早く死刑にしたほうがいいという気持ちに傾いてしまう。私個人は死刑には消極的ではあるが反対の立場だが……。虚弱体質に生まれながら、物心がつくと動物虐待にはしり少年院送りとなる人物である。のちに書かれた『八月の光』のジョー・クリスマスも悪人だが、ジョーは性のなかに死を透視したという点で普遍性を獲得しているが、ポパイにはそういうものはない。全体としてみれば、この『サンクチュアリ』はアメリカ社会の混沌と無気味さを描き出すことに力点が置かれたと思う。レイプや暴力はそれをさらにいびつにして拡大したものなのか。私には、それはアメリカに根深くはびこる悪しき因習にも思えた。
イーユン・リー「千年の祈り」
これは父と娘の確執の話である。石(シー)氏は元ロケット工学者。アメリカへ渡った娘が離婚したと聞いて、心配になって娘を訪ねてきた。また、娘が子供のころは家庭内ではろくに口を利かなかった。それは彼の仕事が国家機密に属するので、家庭内でも一切仕事上のことを口にしてはならなかった。融通のきかない父は仕事のことで頭がいっぱいで、話してもいいことまで話さずじまいできてしまった。家族のコミュニケーションはなおざりにされたのだ。そのことへの後悔もあり、肉親として腹を割って娘と話したい、付き合いなおしたい、という気持ちも切実にわきあがってくる。だが娘のほうは、子供時代からのそんな父や家族の世界がうっとうしくて逃げるように渡米してきた。同じ中国人の男とは離婚にいたったが、図書館の司書の職を得て、ようやく自立へと踏み出そうとしている。父がはるばるやってきても、いまさら仲良くはなれず、冷淡な態度をつづける。
石氏は退職後、料理の腕をみがいたらしく、寄宿する娘の家であれこれつくっては食べてもらおうとする。だが娘は少ししか手をつけない。ここが両者の不仲を端的に示す場面であざやかだ。娘はまた、恋人を新たにつくっている。父が心配するほどには憔悴していない。離婚が大きな不幸をもたらすにちがいないという父の旧来的な先入見を、ごく自然にくつがえしてしまっている。そのルーマニア人の恋人との電話を、父に聞かせるようにつづける場面も印象に残る。それまでは父の前で電話をするときにはひそひそ声だった。
娘が英語を話すのに耳をそばだてる。これほどきつい声に聞こえるのは初めてだ。早口でしゃべり、何度も笑っている。言葉はわからないが、その話しぶりはもっと理解に苦しむ。やたらとけたたましくふてぶてしく、きんきんひびく声。ひどく耳障りで、ふとはずみで娘の裸を見てしまったような気分だ。いつもの娘ではなく、どこかの知らない人みたいだ。
娘は、現在の自分らしい自分を父にさらけだすことで、父の自分への認識をあらたにしてもらいたいという欲求が湧いてきたのだろう。うちとけあうにはまだまだ距離がありそうだが、読者としては第一歩にはなりうる気がした。それにここでは、外国語で話すことによる自己解放といったことが書かれている。しかも作者が自分にかさなる主人公になまなましくしゃべらせると同時に、不仲の父の目をとおしてさらにそれを客観化している。ふたつの存在がかさなりあっていて、見事なものだ。父は他人のように見えてしまうそんな娘にとまどうが、切り捨てるのではなく、どうにか思考の回路を解きほぐして肯定的に受けいれようとするのだろう。題名の「千年の祈り」とは、人と人とが会って話すには目もくらむほどの長い時間祈らなければならない、そういう中国の言い伝えにもとづいている。言い伝えを信じるかぎりは、父は娘との和解をあきらめない。
そんな父の石氏にも楽しみができる。近所の公園でイラン人の楽天的な老婦人と会話することである。会話といっても片言の英語以外は両者とも母国語で話すので、豊富につたわるのではない。自分は幸福で、アメリカがいい国だということくらいだ。ただ石氏は「マダム」の輝くばかりの「生命力」をうらやましいと思うばかりで、それだけで石氏もいい気分になってしまう。娘にはない明るさをもちあわせているように見える。コスチュームはいつもけばけばしいばかりの原色系統で、たとえば「紫の猿のプリントがついた鮮やかなオレンジ色のブラウス」だったりで、「この世を愛してうたがわない」のだ。きっと彼女は夫や家族によって「人生の辛気くさい物事から」まもられてきた、と石氏は推測する。何も書かれてはいないが、父としての自分と娘のことを引き合いに出すと、忸怩たる思いがかすめるのではないか。この老婦人に刺激されて彼もまた、相手に伝わらないにもかかわらず、母国語で身の上話をはじめるのだ。悲しい思い出だが、今まで無口で押し通してきた人が、なんのためらいもなくはじめて自分を語りだす。ここにはやはり語ることの解放感というのか、ようやくのように荷物を背から降ろすことができたときのほっとした感覚が味わえるのではないか。それも娘のけたたましい英語でのおしゃべりが、彼に何らかの影響をあたえていると見るべきではないか。
ビデオカメラが父のあとからついていくような、人の息遣いが伝わってくる好短編だ。とりあげなかった作品では「縁組」がすぐれていた。これは旧来の強引ともとれる見合い結婚にあきたりず、あくまでもみずからの恋愛の意思を貫きとおそうとする何人かの男女の話だ。既婚の男女それぞれに別の好きな人がいて、その関係をずっとつづける。またその家の養女となった少女が、現実離れしているがみずみずしい恋情を燃やす。
この第一創作集のいくつかの作品で、イーユン・リーはアメリカでの生活を鏡にして、母国中国の実情、とくにそのひずみの部分をあざやかに描き出すことに成功した。次回作はどうなるのか、アメリカはきれいなままなのか、それともその実情を生活の周りに発見することになるのか、楽しみである。
(了)
イーユン・リー「ネブラスカの姫君」
薩沙(サーシャ)は渡米の直前に陽(ヤン)という青年と関係を持ち、のちに妊娠したことを知った。薩沙は陽にアメリカへともに行くことを誘ったが断られた。薩沙からの国際電話で彼も妊娠の事実を知るが、まもなく彼は連絡を絶ってしまう。陽は元京劇の男旦(ナンダン)と呼ばれる女性専門に演じる将来性豊かな役者だったが、ゲイの行いがばれてクビになってしまった男。並外れた美青年で、薩沙には陽が「まわりの泥に触れたことのない、白い蓮の花のよう」に映った。彼女は陽のことをあきらめて中絶を決意するのだが、それをなんとか思いとどまらせようとするのが伯深(ポーシェン)という男。三十八歳の医師で、彼もゲイの傾向で、役者をクビになった陽を買春してかこったのである。伯深はまたゲイの擁護やエイズの調査などの人権活動に熱心だったため秘密警察から目をつけられ、その活動も制限された。彼は陽の「浮気相手」の女性が陽の子を身篭ったこと、その女性薩沙が渡米したことを陽から告げられる。彼も陽に二人してのアメリカ行きを持ちかけるが断られ、陽はほどなく彼の前からも姿を消す。そうして彼伯深もレズビアンの女友達と偽装結婚して渡米して、薩沙のもとに駆けつけてくるのである。彼が陽の忘れ形見を育てようとするのは、彼が陽の京劇復帰を実現するという約束を果たせなかったからで、そのせめてもの償いの意味がある。また陽に対する愛情の胎児への反映でもあるだろう。
二人の共通点は、このように陽と関係を持ったという以外にはない。薩沙は彼にとっての初めての女性で、ごく普通の恋愛をさせてあげたという面で誇りを持っている。だがきっぱりと忘れようとしている。反対に伯深のほうは、未練たっぷり。陽の復帰のため、アメリカへ来てからも在米の京劇の権威に働きかけることを考えたりする。だが陽のようなとびきりの美青年は、いくらでも相手がいるものだ。自分の地位向上のためにより役立ちそうな人間を物色することは不可能ではないのだ。薩沙にとってすでに陽は、思い出の領域に入ろうとする人だ。だが伯深は陽の子を育てることで、陽との関係を持続させたいと考えるのではないか。そして子供をめぐって向き合う二人。陽の相手であるからさぞかし見目麗しい姿ではないかとの想像を両者とも抱いていたが、お互いに裏切られてしまう。女から見て男は平凡で、真面目すぎて面白みがない、男から見て女はちっとも美人ではない。またそれ以前に胎児をどう扱うかは妊婦である薩沙が主体的に決断すべきものであるのに、そこへ見知らぬ男として伯深が割って入ってきたのだから、薩沙としてはしっくりいかないのも当然だろう。そうこうするうちにも子供はどんどん大きくなる。今しもお腹のなかで動いて知らせる。
マクドナルドで軽い食事を二人がとるところからこの短編ははじまるが、男がすすめたフィッシュサンドを女がつき返して、男のチキンサンドをえらびとる。ここが映像的で印象に残る。これだけで二人の関係の冷たさがわかろうというもの。二人は断続的に話しながら、外へ出て、クリスマス・パレードを見物することになる。薩沙はにぎわう人々が素直にうらやましい。父親の肩車に乗せられた子供。ポップコーン売りに行列を作って並ぶ人々。夕刻ともなればイルミネーションにいっせいに明かりがともる。ディズニーのフロートがやってきてミッキーマウスが乗っている。アメリカの人たちは「生まれつき自然体のままでいられる。天真らんまんで、しかもそれを幸いと思っている。」同時に薩沙が思い出さずにはいられないのが、みずからが生まれた環境と母親のことだ。母は若いときに文化大革命のあおりを受けて、懲罰的処置として都市からモンゴルへ移住させられた。そこで現地のモンゴル人男性と結婚させられて、薩沙ともう一人の子供を生んだ。文革が済んで離婚することはできたが、母はいまだにモンゴルから離れることができない身分でいる。子供だけがようやく脱け出せた。このように子の母への痛切な同情をずっと薩沙は引きずっているのだ。そのことを思い浮かべると、アメリカ人とその地が倍化して輝いてくる。
伯深が肩に腕を回したとき、薩沙は逃げなかった。知らない人から見れば、二人はごく普通の夫婦に見えるだろう。喧嘩してへそを曲げた妻を、夫が心配してなだめているというふうに。あるいはおたがい愛想づかしをした夫婦でもいい。夫はお腹の赤ん坊だけを気にかけていて、妻は胎児のこともふくめ、何に対しても心が動かなくなっている。
だが同時に赤ん坊がお腹のなかで動く。引用した部分は何気ないようでそうではない。自分たち二人が周りからどんな風に見られているか、と単に気を回すのではない。女性主人公が出産へとようやくのように心が傾きはじめた瞬間をとらえているのだと思う。肩に回した男の腕から逃げなかったのは、別に伯深に異性として好ましい感情をにわかに抱いたからではない。胎児を気にかけてくれる伯深のやさしさを受けいれたのだろう。彼は同志的存在なのかもしれない。そして薩沙は今もモンゴルに住む母を思い浮かべる。母が経験したであろう子に対する「どこまでも落下していく」「底なしの愛」を薩沙自身もまた見据えるのだ。薩沙は、母は出産を後悔しなかったことを知っている。
三十頁あまりの短編だが、主人公を取り巻く人物群、後にしてきた故国、住まおうとする新しい国、故国のなかの古さと新しさ、等々、重層的な環境が不足なく描かれている。そのなかで前向きに生きようとする薩沙の姿が胸を打つ。




