大洋ボート

伊東乾『さよなら、サイレント・ネイビー』(3)

死者は「偉大」なのか。私たちは場面に応じてそういう考え方を取ることがある。だが、偉大になるために、するために、私たちはいたずらに自他の死を人為でもって引き寄せねばならないのだろうか。勿論、そんなことはしてはならないことだ。子供の屁理屈という以上に、それは人間界を冒涜した発想だ。死者は可哀想だと思わなければならない。大往生と呼ばれても、必ずやその人はもっともっと生きたいと願わずにはいられないだろうから。その意味で、若くして死んだ人も勿論含めて、死者はおしなべて「心ならずも」死んでしまった人達である。死者を悼むこと、祀ることは重要だ。また、死者が「偉大」というならば、逆に生者は卑小なのだろうか。「死ぬのはいやだ」という思いは、本能や弱音にすぎないものか。そうであったとしても「死ぬのはいやだ」という思いをまずは躊躇いなく肯定したい。そこからしか生命尊重の思想は生まれないからだ。これは案外、常識と言ってしまえるほどの地に足の着いたものではないのかもしれない。戦前戦中にはなく、戦後になって新しく生まれ出た思想だからだ。この思想が、私たちひとりひとりのなかでどれだけ強固に育つかが、これからの時代の針路を決めていくのだろう。ところで、この生命尊重思想とはまるで逆行する「ポア」なるイデオロギーに直面し実行に移してしまったのが、豊田亨をはじめとするオウム・サリン犯である。よく知らないが、現世の命を抹殺してより浄化された世界へその魂を移行させる、「偉大」化するという行為が「ポア」なのだそうだ。オウム入信以前の通念もあるだろうから、サリン撒布の実行犯たちも、さすがにたじろいだだろう。「ポア」に半信半疑であっただろう。だが彼等はやってしまった。

ある高名な哲学者は、人間の思考段階として本能によるもの、権威によるもの、そして自立した思考という三つをあげた。これらの段階を踏んで、人の思考は発展し、本来的な姿として形成されるというのだ。そして麻原は、みずからを権威に祭り上げるという点では、徹頭徹尾にやった。信者に性的快感を施すことによって魅了すると同時に、信者を自分のやりたい放題に引きまわした。グル(麻原)のためなら何でもする、グルのためなら死んでもかまわない、人殺しもする、というような帰依の姿勢を強圧的に浸透させた。そしてまた、信者の多くは麻原に思考や思考の結論さえも委ねてしまったのだろう。「グルがどう考えるか、それが明らかになるまでは自分で結論を早急に導き出すことはやめておこう。グルは自分よりも頭脳明晰で立派な方だから。」あるいは逆に、「グルが命じたことだから、正しく、偉大なことにちがいない。グルの説明はないが、やがて授けてくださる。時間差にこだわってはならない。」という風に信者は漠然と思ったのではないか。自立的な思考があることさえ知らなかったのかもしれない。それに性的快感の点もふくめて、教団内の生活はそれ自身で快適であったことも想像される。「自他の死」の問題さえも、さしせまったことではないと高をくくってしまったなら、考えることは苦痛ではなくなることもある。伊東が何度か書くように「局所最適、全体崩壊」なのだ。

オウム・サリン犯がずるずると麻原に引きずられてしまった、という以外には恐怖による支配もあったのであり、見逃してはならない点だ。豊田のような隔離状態に近い状態におかれたうえで厚遇された幹部は別にして、多くの幹部はサリン事件以前の教団による殺人に関わっていた。だから「明日はわが身」と思うとすくみあがってしまい、凶悪犯罪実行の指示にも逆らえなかっただろう。幹部ではない一般信者でも同じだったろう。反抗も逆に尻込みもできずに、教団と麻原に黙々としたがってしまう信者たち。何もかもが「修行」にされてしまう。「修行」の一言に信者は何と弱く、従順なことか。マスコミ報道によると、出家信者は教団施設内で、動物の死体の残虐な映像を繰り返し見させられたそうである。誰でもが吐き気をもよおしそうなそんな映像を、飽き足りないくらい見つづけて、いったい信者に何がもたらされるのだろうか。たしかに個別の写真に対する恐怖は薄らぐのかもしれないが、恐怖そのものが人間の心性から消滅することはない。恐怖に対して距離をとりながらもぼんやりと意識させること、そのことで竦みを生じさせるのが狙いなのか。オウムと麻原にたいする信者の従順さをはぐくむため。また、他者の死を受け入れやすくするという別の目的も併せてあったのか。このあたりは私が想像するだけであり、残虐写真をみせた目的の真実をさほど知りたいとも思わないのであるが……。「ゴキブリ一匹殺さない菩薩心」などと言いながら、オウムはそんなこともやっていた。

伊東乾は脳機能可視化装置「NIRS」について紹介している。島津製作所が開発研究中のもので、同じ脳機能可視化装置のCTやMRIと比べて、通常の生活をしながらの測定が可能なところに特長があるという。つまり装置のなかに被験者を拘束する必要がない。NIRSは脳内各部位への血流量を酸化ヘモグロビンの量の変化を基準にして測定する。それがディスプレイに色彩が区別されて映し出される。ニュートラルの状態が緑、活発に血流が供給されているときは赤や白、逆に不活発な場合は青や黒で示されるそうだ。伊東は知人「M君」の協力をえてNIRSの被験者になってもらい、ある残虐映像を見させて、彼と装置を観察した。2004年にイラクで誘拐され殺害された日本人青年が収録されたコンテンツで、インターネット上で公開されたものだ。知人の脳内画像は「まっ黒」になってしまった。恐怖を感じると、血流はたちまち不活発になってしまうということだ。ここで言われている「大脳皮質」「前頭前野」の活動がみるみる低下する。それは思考や知識を司る部位で、脳進化の最後に出現した「人間のもっとも人間らしい」部位にあたる。以下は研究所の助手氏とM君とのやりとり。

「人間の脳というのは、いつも100%活動しているわけではないんです。一部が活性化しているときには別の部位が不活性化します。恐怖の情動に支配されているときには、生物は、あれこれ考える前に反射的に本能行動をとったほうが、生存できる確率が高くなるわけです」
(中略)
「危険が迫っていて、恐怖に支配されているときには、大脳皮質などを使わなくても、小脳や延髄に入っている運動に関する命令だけで、危機を回避した方が賢明だということでしょう。ほら、このあたり、大脳新皮質は、計算速度がとても遅いものなので……」
「俺の脳、計算速度遅かったですか……」
「いえ、誰の脳でも同じですよ、恐怖による思考停止とか、マインドコントロールと言われる現象は、脳血流測定の観点からは、その部分の思考能力が低下したり、あるいは停止したりする、いわば、麻酔のようなものとして考えることができるでしょう」



人間は弱い生き物だ。弱さを知ったところで弱さがなくなるわけでもない。ただ、用心し、慎重になることはできるだろう。だが別の意味で、人間は弱さに惹かれもする。高慢さをへし折られたとき膿のようににじみ出た弱さのなかに、それこそ高慢ちきにも輝きのようなものを探り出そうとする。そのために、ある決定的な弱さを、心の中で何べんも吟味するし、角度を変えて別のアプローチを試みたりもする。「輝き」など容易には持ち帰れずに引き返さざるをえないことがほとんだが、それでも諦められない因果を人間はもっている。この本のいう「再発防止」という観点には、必ずしもかさならないのだが、書いてみたくなった。

豊田亨は困難の極みである。気の毒だが、死刑判決を回避することは絶望的なようだ。林郁夫が無期懲役なら、豊田にも同じ判決がくだされても不自然ではないと思うが。そのうえ、彼が伊東の「再発防止」のプログラム作りに積極的に参加するなら、「輝き」などほとんど探しだせないだろう。死と崩壊そのものの中心点としての過去を見据えつづけねばならない。死刑を待つという恐怖にさらに別の困難が加わる。悪は対象ではなく自分だ。自死に値する以外のものは見つけられないだろう。欺瞞や怠慢が入り込まないかぎりは。表題の「サイレンと・ネイビー」とは、海軍が好んだ言葉で、たとえ失敗してもつべこべ言い訳せずに、男らしく黙って責任を取る、という姿勢をよしとするのだそうだ。伊東は友情もこめて、豊田にそうであってくれるな、活発に口を開いてくれと懇願する。
                 (了)
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