FC2ブログ

川田稔『木戸幸一』

政治・歴史・経済関連
05 /17 2020
  戦前戦中期における日本の最大の実力(暴力)組織といえば陸軍だった。政治家も皇室も海軍もまた経済界もそうであっただろう、その意向をおもんばからないわけにはいかなかった。だが陸軍においては、満州事変にかぎっては彼らの独断決行であったものの、それ以上の政治的独裁を希求しなかった。二・二六事件は青年将校中心の反乱であり、陸軍上層部にも彼等に親近感をもつ者も少なからず存在したようだが、積極的に後押しすることはなく、最終的に天皇にその行動の是非について判断をあおぐという青年将校の待機姿勢と同一であった。つまり天皇を拉致してまで政治体制を「刷新」しようとする意図は、青年将校にも陸軍上層部にもなく、天皇中心の明治憲法体制まで覆滅しようとはしなかった。反乱の結果は、昭和天皇の逆鱗に触れて、動員された部隊は帰隊させられて事件は短時日のうち終息し、反乱部隊の指導者の主だった者は後日処刑された。
  陸軍は近隣諸国にたいする積極的膨張侵略路線の中心推進組織であり、敗色濃厚の戦争末期においても戦争継続の旗をおろさなかったが、それは政治担当者(内閣)や皇室や天皇にその方針をあくまで大本営政府連絡会議・御前会議等、合議体制によって押し付けることができたからだ。昭和天皇は元来から英米協調主義であり、政治家のなかにも英米協調志向は多くあり、そうでなくても非戦論、消極論者はいたが、陸軍は岩盤であり、論においてその主張と立場をくつがえすことができなかった。天皇においても会議においての決定が政・軍一致の正式なものであれば裁可するしかなかった。当時の憲法体制においてはそうせざるをえなかったのだ。
  本書は内大臣の木戸幸一を媒介にして日米戦前後の経過をたどっていくのだが、天皇の政治的補佐役である木戸が一番怖れたのが皇室の崩壊であり、陸軍に対抗しうる実力組織をもたない天皇が政争の渦中に深入りすることに警戒心をもった。それゆえ、天皇の思想や心情は尊重しつつも、あからさまな陸軍批判を天皇の口から吐かせることは回避させたかった。天皇との相談のうえでおおまかな内諾をえたのだろう。また木戸自身も思想的には政治家よりも陸軍に親近感を抱いていたというが、そうでなくても不穏さを発散させる陸軍との連絡はおこたらず、最低限の融和を維持しつづけたようだ。木戸は機を見るに敏であった。英米協調傾向だった元老の西園寺公望をその晩年宮廷内の重要決定からとおざけた。とくに従来の元老中心の次期首相奏薦において、木戸は首相経験者など重臣連との会議を優先し、西園寺にたいしては事後における承認要請にまで後退させた。筆者川田稔は西園寺の不快さをにじませる。また、第三次近衛内閣が昭和十六年十月十六日総辞職し次期首相に皇族の東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)が推されそうになったとき木戸は躊躇なく反対した。木戸も近衛らと同様、日米開戦には反対だったが、皇族の政治への深入りを回避したのだ。川田は「……戦争による国民の膨大な犠牲を、皇族内閣で回避する可能性よりも、皇室の存続、皇室存在の動揺回避を優先したのである。それが木戸の基本的スタンスだった。」と記す。
  内大臣という地位は、大臣と名付けられていても内閣閣僚ではなくそのため長期間の在任が可能であり、政・軍界における安定的な位置をもとめつづけることができた。優勢勢力に近接する位置を確保しながらも、その勢力に陰りがみえはじめると離反をためらわなかった。開戦時の東条英機内閣を天皇とともに支持しつづけたが、反東条の動きが活発になるとそちらに軸足をうつした。だが政治的動きの先頭に立つのではなく、あくまでも勢力図を見極めてからの二番手、三番手としての動きだった。  
  近衛首相は総辞職以前に日米頂上会談を企図したことがあった。当時、日本の南部仏印進駐にたいしてアメリカは態度を硬化させ、対日石油全面禁輸の処置をとり、日本の燃料需給を逼迫させた。ルーズヴェルト大統領との直談判によってアメリカ側の要求をほとんど丸のみすることによって通商・友好関係を再構築させ、帰国後天皇の勅裁をへてその政治決定を有効化しようとしたものだが、これはあまりにもトリッキーで外交交渉の常道から逸脱する手法でしかなく、米側からも断られた。かねてからの中国や仏印からの撤兵や三国同盟の実質的破棄というアメリカからの過酷ともいえる要求にたいして当然陸軍は反対の立場だったから、陸軍その他の閣僚に事前相談なしに(会談の計画自体は知らせたが腹案は秘匿された)いきなりアメリカという「外圧」と天皇の威光を借りて解決しようとしたのだが、外務官僚などによる予備交渉なしのトップ会談では当然アメリカも警戒して相手にしなかった。一面、こういう奇策によってしか陸軍を抑え込むことができないのではないかという近衛の心中も察せられないこともないのだが。川田によれば日米首脳会談の不実現が確定した後の近衛は、重要会議において日米開戦反対の立場での発言をしておらず「不可解」だと記す。論による陸軍にたいする反駁を近衛は避けたのだ。
  本書でわたし個人が知ったことをあげておく。アメリカが以前に提起し、日本側も了承していた「日米了解案」(省略)と呼ばれる曖昧かつ日本側から見ると穏当な日米交渉の土台案がアメリカによって破棄され、石油禁輸処置とともにのちのハル・ノートにも通じる先に記した日本側にたいする苛烈な要求に切り替わったのは、アメリカの政策変更によるということだ。十六年八月頃、ドイツ軍はモスクワ近郊にまで迫っていてアメリカはソ連崩壊の危機を抱き、その時期に日本がドイツと呼応して北進(対ソ連戦参戦)しソ連を挟撃することを怖れた。そのために石油禁輸による日本の戦争遂行能力への打撃を図ったのだ。ソ連が降伏するとドイツの戦力はそれまで以上にイギリスに向かいその運命も危うくなる。アメリカも日米戦をできれば回避したく、石油禁輸をすれば、日本が石油をもとめて蘭印(現在のインドネシア)に侵入することが予想できたが、ソ連を助けるために日本の北進を挫くためにあえて日米開戦を覚悟したのだと。川田の記述「南部仏印進駐に対するアメリカの対日全面禁輸は、一般には日本のさらなるつまり南方進出を抑制するためだったと理解されている。だが、むしろ北方での本格的な対ソ攻撃を阻止するためだったのである。アメリカにとっては日本の「南進」よりも「北進」が問題だった。」
  できれば日米開戦を避けたいという従来のアメリカの対日方針があり、ルーズヴェルも対日石油禁輸には日本の蘭印侵出を誘発するとして否定的だったのだが、それを覚悟してまで日本の北進阻止を優先した。その狙いは見事にはまり、北進論をとなえていた陸軍の一部は計画を中止せざるをえなかった。わたしも川田の指摘する「一般」の見方をなんとなく引き継いでいたが、川田の見識は整合性があると思った。
  もうひとつ。東条英機はじめ陸軍・海軍幕僚や政治家はそろってアメリカに対して勝ち目がないことを認めていた。アメリカとの戦いの主役は陸軍ではなく海軍であり、海軍がゴーサインを出さなければ日米戦はなかったのだが、東条内閣時の嶋田繁太郎海相が戦争決意を表明し、非戦への最後の堤防が決壊した。
 



関連記事
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

seha

FC2ブログへようこそ!