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森鴎外『青年』

>森鴎外
03 /15 2020
  小泉純一は作家志望の青年で、Y県(山口県)から上京してくる。大学進学はしなかったが、地元の神父のもとでフランス語を勉強してかの国の小説をはじめとする書物をよむことができる。つまりは知識人たるべき素養を有している。しかも家庭は裕福で十分な仕送りがあるので、あくせく働く必要はなく「高等遊民」の身分でいられる。また彼は美形であり、近づいた女性に好感が持たれることが少なくない。有名作家を訪ねたりしたあと、植木屋が提供する借家に居をかまえて書き物をはじめようとするが……。
  純一をとりまく人物群のなかで大村荘之助と坂井れい子が重要人物である。大村は医学生でありながら文学・思想の造詣が深く、純一は惹かれ友人になる。作家たるもの因習を打破して思想的基盤を築かねばならないという思いの純一にとって大村の意見は大いに参考になり賛同するところが少なくない。個人の自立を確立することを優先するとともにそれが決して利己主義に陥ってはならないとする「利他的個人主義」の主張で結ばれる。親孝行も国家への忠義も盲目的であってはならず「領略」してのちに捉えなおさなければならず、そうすると情死も戦死も「利他的個人主義」の価値の一環として肯定されるという。西洋の思想家や作家について豊富に論じられてあって、教養不足のわたしにはついていけない部分があるものの、厭世主義を排する保守主義というべきか、ことさらの違和感はなかった。勿論、保守主義といっても今日的印象であり、明治という時代の自由の空気のもとで新しく考えられた「利他的個人主義」にちがいない。
  ただ大村という男、二十歳前後にしては不自然に教養がありすぎると思えるのはわたしの僻みだろうか。そうでないならばここには当時四十八歳であった作者森鴎外の知識がありったけちりばめられているのだろう。純一の先導役として不足はないのだ。
  それよりもより興味を惹きつけられたのは純一と坂井未亡人との短い間の関係だ。二人は芝居見物での劇場で隣同士の席になってすぐさま知り合いになる。翻訳劇であったので坂井未亡人が純一に説明をもとめて純一は応答することができた。それがきっかけで坂井れい子は文学全集が豊富にあるからと純一を自宅に誘い、肉体関係が成立する。和服についてはこれも知識不足で映像が浮かばないが、十本の指すべてに指輪がはめられていることひとつとっても生活の潤沢ぶりが窺える。だが純一が惹かれたのは裕福さではなく、れい子の放つ瞳の魔力で、たあいない会話や会話そのものの内容とは無関係にその瞳の暗いかがやきが純一をたえず誘うように思えたからだ。れい子の自宅においても「愛の詞(ことば)」はまったくなくくだんの瞳によってれい子のほうから唐突に関係がつくられる。
  純一は悦んだのだろうか。そうとばかりはいえない。れい子の宅を辞すときラシーヌという作家の文学全集一巻を借りてきたから返さねばならず、そうすると再び関係をもってしまいかねず、今後のれい子との関係をどうすべきか、つづけるべきか、悩む。一種の思考訓練だ。純一は恋愛を当面はしたくないと思っている。無職の身であり創作に打ち込まねばならないからという禁欲的意志だろう。れい子にも「愛の詞」がさらさらないので、そうすると色欲のみの世界になりかねず、純一がそれを望めば好都合だが、そこまで割り切ることもできない。堕落するのではないかという危惧をもつからだ。れい子という女性のフリヴォル(仏語=軽薄)も一方では気に入らず、彼女に見下され籠絡されつづけるのではないかという屈辱感もある。「ヴァニテイ」(仏=虚栄心)「ジグニテイ」(仏=尊厳。品位。正しくはディニテ。注解より)「フイエルテエ」(仏=誇り。自尊心)などという言葉が原語綴りのままふりがなを打たれて記される。自主的に作った関係ではなく、れい子の真意もわからず、魅力を感じながらも十分に好きになることはできない。それならば何も決めずにいたままのほうがむしろこちらの自由を一時的にも確保できるのではないかなどと純一はあれこれ考えてみる。だが結局は頭を悩まされ、ふりまわされることが煩わしくなって「本能の策励」(性的衝動)が思考を上回って再びれい子宅を訪れることになる。「本能の策励」は当面の関係にむかうものの純一を無意識裡にれい子にたいする独占欲を芽生えさせずにはおかないようだ。また独占欲が水泡に帰したとき、その結果が理知であらかじめ予想されてはいても、やはり嫉妬が頭をもたげずにはいられない。性的本能とはそういうものであることを教えてくれる。
  お雪さんという女性も純一に好意を寄せる。植木屋の娵(よめ)の知り合いで、裕福な家の娘さんだ。純一と同じくらいの年齢で、何回か純一の部屋で会話をする。坂井れい子と接するときよりも純一は緊張せずにはいられない。最後の逢瀬の場面では、純一はお雪さんが全くの無防備であることを悟る。

  (略)お雪さんは自分を見られることを意識しているということに気が附いた。(略)なぜかというに、この娘が人の見るに任す心持は、同時に人の為すに任す心持だと思ったからである。人の為すに任すと云っては、まだ十分でない、人の為すを待つ、人の為すを促すと云っても好さそうである。(略)
  純一はこう思うと同時に、この娘を或る破砕し易い物、こわれ物、危殆なる物として、これに保護を加えなくてはならないように感じた。今の自分の位置にいるものが自分でなかったら、お雪さんの危ういことは実に甚だしいと思ったのである。


  鴎外は、同じ出来事を純一の日記として微妙に角度をかえて分析させる。巧妙だ。

  そのとき己(おれ)は我自制力を讃美していて、丁度それと同時に我自制力の一角が破壊せられるのに心附かずにいた。一たび繋がれては断ち難い、堅靭なる索(なわ)を避けながら、己は縛せられても解き易い、脆弱なる索に対する、戒心を弛廃させた。


  お雪さんと関係をもてばおそらくは恋愛に発展するだろうし、結婚にもたどりつくかもしれず、そうは純一はなりたくないので「自制力」を発揮する。と同時に坂井れい子への自制心をゆるめる。れい子への執着のほうが強いことを自然に自覚する機会になったのだ。れい子とはいつでも別れられるという思い(=「脆弱なる索」)があるからでもある。
  畏友の大村に対して純一は男が貞操を維持するのは健康に害がありやなしやと問いかける。ここでわたしは首をかしげた。大村はちょっと方向が自然にずれて壮大な応え方をするが、純一の問いが「精神」ではなく何故「健康」でなければならないのか、坂井れい子のことをあからさまにはできないにしても「精神」の害に関してならばもっと問題に近づく応えを大村はしてくれたのではないかと思った。
  純一は冒険の要素は少しはあるにしても安全な橋を渡った。そこに懊悩はあるにせよそれほどの深刻さはなく、わたしは青春の思い出の一ページという以上の感懐を抱くことはできなかった。


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seha

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