大洋ボート

青年と組織と行動(メモ)

青年が自己や世界の救済について理念的に興味を持つ、あこがれる。また同じような傾向をもつ青年がいて群れ集う。他方では、そういう青年たちを領導し、方向づけようとする指導者なり組織なりがある。いつの時代でもみられる風景だ。その昔のマルクス主義からオウムのような特異な宗派集団まで、規模の大小やら、社会体制への順応度のちがいなど、それこそ千差万別の組織が入り乱れて存在する。

そういう青年が組織に加入したとして、まず目指すのは第一には組織が喧伝する理念と論理の習得である。ここには現に生活する社会の通念や規範意識、あるいは常識とは相反する主張が、組織固有の教えとして含まれることが大いにありうる。そうすると、ここで青年において自己内確執がはじまっても当然である。思考の糸に忠実にしたがえば矛盾を解くことができず、組織からの離脱に至る場合もあるだろう。

組織に加入した青年が目指す第二は、組織が要請する行動への積極的な取り組みである。示威行動(デモ、集会、ストライキ等)や宗教的意味での修行と呼ばれるもので、自己の参加のみならず、多くの人々に呼びかけて参加を勧誘する。カンパ、お布施と呼ばれる資金集めも、行動に含まれる。組織を拡大したり維持したりするのには資金的支えが不可欠だ。ともかくも、そういうさまざまな行動形態に参加者はつき合わされる。

そうした行動のある部分において、強圧的だったり、暴力的色彩を帯びるならば、当然の如く社会の大部分は反発や非難を浴びせることになるだろう。またそれ以前から、組織のかかげる理念に批判的であった人々もいるので、これらの人々が、組織の理念とともにそのあり方に対してもさらに非難をかさねるだろう。(勿論、すべての政治や宗教的な組織が、私がここで書くような暴力的傾向にあるとはかぎらない。だが私は、私の念頭にあるモデルケースについてもう少し書いてみる)

すると、組織の側も参加者(構成員)をひるませないために、彼ら参加者に闘争心と確信を注入しようとする。思想はより単純化され、繊細さは捨てられる。洗脳である。また、敵対する組織の外の社会や別の組織に対してのみならず、参加者(構成員)に対しても暴力的強圧を加えることも少なくない。恐怖支配を作動させ、組織からの離脱の意思を封じ込める。この段階においては、もはや青年は純粋思考的に針路を選択することはできなくなっている。正しいかどうかではなく、当の組織にいつづけるかどうかの選択であり、「踏ん張れる」かどうか、なのだ。少し先の未来が見えてきてひるむこともあるだろう。極論すれば「俺はどうなってもいいんだ」という覚悟のみが、その場に青年をいさせられる。

外側からざっと眺めて、組織や青年がいかにも頽廃におちいっているように見える。だが組織や青年の内側から眺めた場合は「踏ん張る」ことは強靭さそのものとして受けとめられる。「強靭な精神」は組織が説き、かつ賞揚するものである。そして、そういう強靭さは外部的現実のなかの行動と結びつくことによってのみ実現され、はじめて「強靭」と呼ばれるものである。別角度から見れば心象のなかにある強靭さは、そういう現実的行動の照り返しである側面が大である。行動に身を呈することの連続性が強靭さを結果的に招来せしめるといえる。だから内部がいくらすり減っていようと、貧しかろうと、行動に結び付く状態がつづけられる限りは、外観的には強靭さは、かろうじて保たれることになる。

組織的行動の「正しさ」という側面はどうなるのか。行動に忙殺される青年には点検する余裕がないが、近い過去にそれを行った記憶があり、それに依存する。また個人以前に組織が「正しさ」を説く。青年はそれにも依存しゲタを預ける。当然であるが「正しさ」を頑迷に主張することも行動そのものである。
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