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丸山健二『三角の山』
2019 / 09 / 23 ( Mon )
  4篇の中短編がおさめられていて、最初の「三角の山」が一番の秀作。家出した主人公の姉が9年ぶりに故郷に帰ってくる。そこは小さな山村で、都会で成功して一財産を築いた姉は分教場の跡地を買い取って豪邸を建てる。その日は上げ棟式で、姉に家族のなかでは唯一親近感をもたれている主人公が駅に出迎えにいき、その日一日姉に寄り添って姉やら彼女の登場によって波紋を広げる村の人々の様子が主人公の青年によって語られる。朝一番の急行列車で駅に降り立った姉の外見が印象的だ。<姉が身につけている品々の色は、すべて純白だった。しかも、動くたびに水草さながらにゆらめく、無くもがなの飾りがあちこちで光り輝いていた。ハンドバックも、靴も、全部そんなふうだった。>簡潔な文体で、姉なる人の成金趣味、辺鄙な村には違和感を起こさざるをえない挑発的な服装であることが鮮やかに伝わる。青年にとっても同じ印象で、無口で厚化粧の女がほんとうに姉なのかどうか疑うくらいである。さっそく青年は姉がくれた金によって購入したスポーツカーに彼女を乗せて建物に案内する。
  9年前、彼女は妻子ある男との肉体関係をつづけていたことがばれ、村人の囂囂たる非難の的になった。母親は半狂乱になり、彼女が村から消えてなくなることを青年もふくめて家族全員が願うようになり、彼女も絶食して何日か自室にひきこもってのち、早朝出て行った。寝たふりをして息を殺して彼女の行動を窺う様子がさもありなんという感じだ。青年もおそらくは彼女に同情し父母を軽蔑するものの、何もできない。
    姉が何のために捨てた故郷に家を建てるのか、出来上がったあとそこに住むつもりなのか、姉がほとんど語らないこともあって青年にとってはつまびらかではないが、また青年がどこまで姉によりそい守ることができるかも青年自身不安もありながら覚悟もある。少なくとも、姉には家族や村全体にたいする復讐心が根っこにあって青年もそれを知っている。
  夕刻の上げ棟式は豪勢そのもので、大工にはぜいたくな弁当や酒をふるまい、村民には餅やリング状にくくったコインを投げ与える。それまでの時間、家族や、交際相手だった男のかつて棲んでいた今はすでに全員がひきはらった開墾部落を訪れる。本気で娘を絞め殺そうとする母や半身不随の惚けたふりをするのかもしれない父の描写にもひきこまれる。荒れ果てたかつての自室を再訪し茫然としてたたずむ姉。その他、大盤振る舞いににじり寄る子供たちや出番は少ないものの一人一人の登場人物が姉に示す反応がたいへん鮮やかに描かれる。
  自然描写も簡潔でいい。その日は一日中雨で、ときには霧雨だったり、つかのまの晴れ間があったりするが、その逐一の変化が、主人公の心理を反映したりしなかったり。また地元民によって「三角の山」と呼ばれる山が雲の形の刻々の変化をともないながら、雲に隠されつづける。その山は姉にとっては唯一の汚れない故郷の象徴であり、青年もそれを知っていて気にする。また彼女の帰宅時におけるウソという籠の鳥の鳴き声の不意打ちのようなうつくしさ。このあたりの自然が心にスッと忍び込むようなうつくしさは、丸山健二の得意とするところであろう。それらの姿や音が、場面がせわしなく移動するたびに小気味よく印象に刻みつけられる。
  姉はかつて非難の嵐を浴びせた家族や村民に復讐を果たそうとするのか、それとも投げやりなのか、金の力を信じるのか信じないのか、わからない。だが青年の姉にたいする書かれたかぎりの同情と支援は本物で、彼の充実ぶりに好感を持った。以後物語をつづけようとするならばいくつもの波乱が待ち受けているにはちがいないが、丸山の意図はその日一日で十分に察せられる青年の成長を描くことにあったと思う。
  「満月の詩」は年齢を想像するに20代前半の青年が、資産家の豪華なマンションの管理を土曜の夜から朝にかけてまかされるという話。アルバイトだ。主な役目は電話番で、乱暴な調子で主人を呼び出す相手にたいして留守を告げるというだけ。大きいベッドのある部屋の壁面には同じく大きい風景画がかかっていて、満月下の湖の傍に青年と若い女、少し年上らしい女の3人が枯草の上に座ってくつろいで談笑している。彼らの乗ってきた馬車があり、馬がおり、水鳥が湖に遊ぶ。この絵に青年は魅入られ、夢とも妄想ともつかない世界に耽溺する。その一方で、隣の部屋から何回も電話がかかってきて若い男女の飲み会の参加に誘われる。青年は隣の男を知らないが、彼は青年を知っている口ぶりだ。酔っぱらって下品な口調になった女からも電話がある。どうやらセックスもクスリもできるらしい。
  青年は隣の部屋の男女を嫌っていて、絵のなかの女性に憧れる。また現実の露わなさまよりも妄想の曖昧な世界を志向するというちがい、さらにはグループと単独者の対比もある。だが女性にたいする欲情においてはほとんどちがいはなく、同一といってもいいのだ。青年はやさしくはなく、妄想では絵のなかの男を殺害する。欲情を抑え込めるはずの理性といったものが、いかに頼りないか。妄想の殺害なら許され現実の殺害なら許されない、対社会的にはそうであっても、丸山はそれだけを言いたいのではない。現実から逃れようとして妄想に没入しようとするのではないか、だがその抵抗も強固ではない。青年のなかで現実と妄想の境界が曖昧になるところに興味を惹かれた。
  「夜は真夜中」は中高生らしい少年が主人公。ここでは性にたいする興味に耐えられなくなった少年が、夜な夜な真夜中の街に出て女性を物色する。家族が寝静まってから窓から庭の樹に飛び移り塀を超えて家の近くの街路をうろつきまわる。少年は雑誌や深夜の公園でひそかに交合する男女によってしかセックスを知らず、つまり自分ではしたことがない。どうやってそれを実現するのかの確かな見取り図があるわけもなく、ただやさしい女性がばったり対面してくれて、少年の手を取って黙って公園に連れて行ってもらう。そんな虫のいい、ありそうもない映像が浮かぶばかりだ。少年は後ろめたさをもたないはずもないが、性の牽引力に打ち勝てず、また夜明けが近づくにつれて焦りも高じてくる。今夜も収穫のないまま帰宅しなければならないのか。十代において遭遇するこういう少年の性にまつわる息苦しさが簡潔にしっかりと描かれる。わたしも思い出させられた。
  「風の友」は若い時から家を出て気ままな暮らしをする青年が主人公。今は田舎の小さな町のパチンコ屋に勤める。孤独でひっそり暮らすことが青年は好きで、これは文壇のつきあいを嫌って長野県に住む作者の丸山と重なる部分があるのかもしれない。何の変哲もない川沿いの土手を散歩する青年、川の両側に延々とつづくリンゴの果樹園は暖かいとはいえ冬のさなかですっかり葉を落としていて、緑は土手の道の短い草と対岸の療養所の人工的な樹しかないという殺風景な風景。面白くないのかといえばそんなこともなく、青年は一抹の安らぎをうるのだ。丸山健二らしいさして特徴のない「普通の田舎」が淡々と描かれ、その微かではあるが心地よさがあって散文詩風だ。パチンコ屋の主人夫婦との適度の距離をおいたつきあいにも青年は満足している。
  だが橋の下で昼間から交合していた若い男女に出会い、にわかに友人めいた馴れ馴れしい同一行動が始まり、男に食事をおごってもらう。おれも寂しかったんだと、やはり友人は必要不可欠だと、彼はそれまでの人生を一転して振り返ることになる。わたしにはここから読みづらくなる。例えば、くだんの若い男女の痴話喧嘩がありふれていてつまらないのだ。
  短篇であれ、小説は「展開」が必要なのかもしれず、その一つの手段として不意の他者との出会いを用いることもあるが「夜は真夜中」にしても「風の友」にしても、いかにも継ぎ足した印象が拭えず、前半部(導入部)の単独者としての描写がいいだけに残念な気がした。毎回毎回そう完璧なものは書けないだろうということは察せられるにせよ。

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