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山本智之『主戦か講和か』(2)
2019 / 09 / 08 ( Sun )
  43年9月8日イタリア降伏。ドイツも対ソ連戦での前線後退を余儀なくされていた。陸軍がヨーロッパ戦況を注目するなか戦争指導課は「大東亜戦争終末方策」を提出する。同じ題の案が8月と9月と二つあって、後者のなかの「戦争指導方針」では8月案の同項目にあった「独伊と提携し」の文言が消えてアメリカとの単独講和が目指される。「帝国は昭和十九年夏秋の候を期し主敵米に対し必勝不敗の戦略態勢を確立し政戦略の諸施策を統合して自主的に戦争終末の機を捕捉するに努む、……」この後、終末の時期を遅くとも昭和二十一年を目途とするとつづくが、「必勝不敗の戦略態勢を確立し」たうえで講和を目指す「一撃講和論」そのものであり、威勢がよすぎるもののアメリカとの単独講和が案として外部化されたのは画期的といえるだろう。さらに9月16日の「終末方策」では二種類の「対米英講和条件」が記されて具体化される。戦況有利下での「別紙第二」と不利下での「別紙第三」があり、前者では満州、中国等の完全独立や他の占領地域にたいしても「高度な自治」を認めたりするものの資源の優先的取得権は維持するなど、アジア地域全般において戦争によって得た権益を全面的に手放そうとする体ではなかった。これに対して「別紙第三」は陸軍(日本)にとっては屈辱的とも取られかねない思い切った譲歩がなされる。本書では両方の文が引用されているが、「別紙第三」のみ引用したい。

世界終戦の為不利なる妥協をするを得さる場合の媾和の条件
一、 対米英
(イ) 無併合、無賠償
(ロ) 米の四原則の承認
(ハ) 三国同盟の廃棄
(ニ) 支那に関しては日支事変前への復帰
(ホ) 仏印以南の東亜細亜南太平洋地域の昭和十五年九月以前の状態への復帰
(ヘ) 内太平洋の非武装
(ト) 日米通商関係の資金凍結以前への復帰
二、対英米交渉に関連し対「ソ」開戦を回避する為対「ソ」譲歩を必要とする場合
(イ)満州国の非武装
(ロ)北樺太利権及漁業権の返還
(ハ)亜欧連絡の打通


  (ロ)のアメリカの4原則とは、「ハル・ノート」でアメリカが日本に要求してきた領土保全、内政不干渉、機会均等、太平洋の現状不変更を指す。二、(ハ)の亜欧連絡の打通とは、ソ連にたいするアメリカの日本・アジア方面からの援助ルートをソ連に提供するというもので、戦闘中のドイツへの背信行為に当たる。また山本によれば二(イ)の「満州国の非武装」とは満州を実質的にソ連に明け渡すことにつながる。開戦以前というよりも、領土的にはそれよりもより後退した日本の姿が提示され、主戦派の戦争構想とはあきらかに対立するものだった。
  松谷はこの「終末方策」(九月案)を杉山元参謀総長・大将をはじめ陸軍上層部に報告したが、当然の結果というべきか国策には反映されず、9月30日の御前会議では1948年末まで戦争を継続するという主戦派の主張に沿った「戦争指導大綱」が決定された。
  その後も松谷の戦争指導班は戦況の敗退的推移とともに悲観色をより加味した講和案をつくり上層部に報告するもののとりあげられることはなかった。留意しなければならないのは、松谷らの案もまた主戦派の「一撃講和論」に与していることで、戦況を有利に導いたうえでの講和交渉を開始する旨で、はじめから白旗を挙げる体のものではなかったことだ。「一撃講和論」に与するならば戦闘継続であり、その点では作戦課と何ら変わりはない。講和の時期の遅早、戦況に対する悲観か楽観かの相違が作戦課と戦争指導課にはあったが、今日から見ると微差であるかもしれない。また作戦課が大陸戦重視であるのに対し戦争指導課は太平洋戦重視であった。
  ただ1944年1月4日の戦争指導班(この頃は作戦部の作戦課と並立した組織位置から参謀総長・参謀次長の直属組織に編成変えされた。「課」から「班」へ)作成の「昭和十九年度に於ける危機克服の為採るへき戦争指導方策に関する説明」では1944年度中にソ連が参戦した場合「自主的戦争終末を獲得すること至難なるへし」「殊に十九年度に於いて一歩を誤れは国体の護持すらも真に困難に陥るへき危機」と記されたのは注目すべきだろう。のちのポツダム宣言受諾の条件として日本は唯一国体護持を「条件」として返答したのだから、その前触れにあたるのかもしれない。この文案も上層部に報告されたものの黙殺された。
  松谷らの文書提出(報告)はさらにつづくがソ連の仲介と「一撃講和」を引きずりつづけたので大同小異で、限界があった。ただ松谷は以後陸軍内の他部署に説得工作をつづけるかたわら陸軍外の「早期和平派」の人脈作りにも奔走することになる。山本は重光葵外相、松平康昌内大臣秘書官長の名を記す。また陸軍の酒井コウ(カネヘンに高)次中将は反東条的立場であり憲兵の監視下にあったが(予備役から1943年11月参謀本部付に就任)同じく反東条的立場にあった近衛文麿や側近の細川護貞との連携を形成し、やがて松谷とも連携するようになる。松谷や酒井が情報提供をし、それが近衛からさらに天皇の弟の海軍軍令部の高松宮にも伝えられた。こうしてゆるやかな「早期和平派」が形成された。
  44年6月29日松谷誠は東条英機に「清水の舞台から飛び降りるつもりで」(山本)、戦況最悪の場合は国体護持のみを条件とする終戦に向けてソ連を通じての米英との外交交渉を基礎づけねばならないという提案をした。東条はいやな顔をしながらも何も言わなかったそうだ。まもなく東条は松谷を戦争指導班から追放し、支那派遣軍参謀へ転任させ、酒井コウ次も召集解除とした。だが東条内閣が7月18日に退陣し「松谷は一一月には陸軍中央に復活、酒井も民間に下って活動を再開」(山本)する。
  ここまでが本書第二章までの概要で、第三章は松谷の杉山、阿南両陸相にたいする説得工作(無論、陸海軍中堅層にもなされるが)や、悪化する一方の戦況に呼応するかのような陸海両軍の「中間派」(日和見派)の形成が詳しく記される。中間派とは内心は戦争継続困難と思いながらも公的な会合ではそれを口に出せず相変わらず徹底抗戦を主張する姿勢の人物を指し、阿南や梅津参謀総長その他である。強硬派の暴発を未然にするため、つまりクーデターによる特に陸軍分裂を回避するためあえてそういう発言をつづけたのだろう。そして機をみて本音を切り出す。梅津は1945年6月11日天皇に「大陸の陸軍は壊滅状態」との上奏を行い,天皇はじめ漏れ伝えられた重臣層にも終戦志向へのいっそうの傾斜をもたらしたといわれる。45年6月22日、御前会議によってソ連を仲介とする終戦工作が正式に決定された。43年の松谷の案が日の目をみたのだが、いかにも遅い。そして8月9日、14日の二回にわたる「御聖断」によって終戦となる。
  梅津・阿南は御前会議において最後までポツダム宣言受諾に反対した。国体護持の確信がもてないというのが表向きの理由だが、敵の降伏勧告を軍人のトップとして受け入れられないという姿勢が芯に強固にあったのではないだろうか。梅津の長男の梅津美一の回想によると御前会議での抵抗を「『バカ、いやしくも全日本軍の作戦の総責任者として、もう戦争は出来ません、などという無責任な発言が出来ると思うか』と一笑に附された」(『最後の参謀総長梅津美治郎』)大部分の軍団の責任者が敵の降伏勧告にも関わらずに捕虜になることを拒否し、最後まで戦った。その姿勢を陸軍全体で共有しようとする思いが梅津にもあったのかもしれない。
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