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山本智之『主戦か講和か』(1)

政治・歴史・経済関連
09 /07 2019
  こちらの方は日本陸軍内部における終戦工作をとりあげている。開戦当初の日本には戦争終了の構想がなかった。つまりは勝利以外の事態はもともと想定外であったようだ。というよりも必勝をひたすら信じて、その類のことを考えること自体が反軍反国家的営為とみなされたのか。太平洋戦争開戦直前の1941年11月15日「大本営政府連絡会議」は次のように決定した。
 

 速に極東に於ける米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に更に積極的措置に依り蒋政権の屈伏を促進し独伊と提携して先つ英の屈伏を図り米の継戦意志を喪失せしむるに勉む「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」(『外交資料 近代日本の膨張と侵略』)(原文ではひらがな部分はカタカナ)


  専門家にはよく知られた「構想」であるようで、近々アメリカとの戦争をはじめようとする時期でありながら当のアメリカのことが日本として直接的に問題にされていないのが不思議だ。ドイツの勝利によってイギリスを敗北たらしめアメリカの「継戦意志を喪失せしむる」というのだからアメリカに対して日本単独による勝利の展望が確固として持てなかったのか、曖昧だ。あるいは戦況有利のもとでの講和を探るという思いが大っぴらにではなく軍部中枢の個々人に抱かれていたのか。ドイツの開戦当初の快進撃に軍部や政治家の一部が幻惑されたことは確かなようで、その後もドイツの戦況は彼らにとって一喜一憂をもたらした。
  わたしたちは歴史の結果を知るところなので必勝を確信し徹底抗戦を貫徹しようとする強硬派のあまりの楽観論に失笑してしまう場面に出会うが、やがては憂鬱に見舞われる。ひどいものだなと思う。著者山本智之によると「バスに乗り遅れるな」を合言葉にする開戦当初のドイツへの羨望には羨望どころか、ドイツの勝利をひそかに<心配>する心理があったという。満州や南方諸島の権益が勝利したドイツによって奪われるのではないかとの焦りだ。その前に戦に打って出なければならないとの、後ろから肩を押されるような決断でもあったのか。
  本書で主人公として擬せられるのは松谷誠(1903~1998)という人で陸軍大佐。1943年3月17日参謀本部戦争指導課(第15課)課長に就任。戦争指導課とはそれ以前からも以後においても名称や組織内部の上下関係を変えながらも、終戦まで戦争終結の研究と上部指導者への進言をつづけた組織で、山本によれば、松谷は陸軍全体から「消極論者」「悲観論者」と見なされていた。その松谷にふさわしい仕事だったのか。その年の2月にはドイツがスターリングラード戦に敗北し、以後後退戦を余儀なくされることになった。3月には天皇が複数の重臣に平和(早期講和)への関心を強く示した。また同月にはバチカンにアメリカのスペルマン・ニュウヨーク大司教、ドイツのリッペンドロップ外相の訪問や、イタリアのチアノ外相のバチカン使節任命などが報じられ、戦争指導課に大きな関心を持たれている。戦争指導課のみならず日本政軍中枢がこれらを講和への動きではないかと疑ったのだろう。独伊と英米が和平したならば日本は単独で戦わねばならないから勝利がとおざかること必至だ。山本はドイツへの疑心が開戦時とは逆方向に向き始めたと指摘する。
  3月以降、松谷らは研究案をつくりつぎつぎと省部会議(陸軍省と参謀本部の合同会議)に提出するが、ドラスチックなものではなく、「主戦派」(好戦的戦争継続派)にも受け入れられやすいものだった。山本によると、松谷らの最初の案は、独英和平、日蒋和平、独ソ和平などの「部分和平」のつぎつぎの実現によって世界戦争終末にいきつくという進捗が期待され、とりわけ独ソ和平の実現とそのための日本政府による斡旋が骨子とされた。独ソ和平やドイツの勝利を期待した陸軍軍人が多くいたので、その意向に沿ったのである。(天皇も「独ソ妥協」に期待していたP83)「終戦研究」といっても陸軍内の公然組織でのことだから反軍的要素は滲ませられないのはやむをえないのかもしれない。当時日本にとって中立国であったソ連にたいする期待はまったく虫のよいもので、独ソ和平のみならず枢軸国陣営への「取り込み」まで視野に入れていたというから驚く。逆にその裏側では陸軍「主戦派」(好戦的戦争継続派)はたえずソ連東部への侵入のチャンスを窺っていた。ソ連という大国をかってに子供扱いしていたのだ。山本によると、先に引用した「腹案」にソ連がくわわって、陸軍中央は「独ソ和解→ソ連の枢軸国陣営合流→英屈伏促進→米国内における厭戦気分蔓延」という勝利の方程式でまとまっていく。このソ連にたいする甘い見通しは何の疑いもなく終戦までずっともちこされる。戦争指導課でさえそうだったのだ。失笑すべきか、呆れるべきか。
  主戦派の牙城は参謀本部作戦部作戦課という部署であり、開戦当時の布陣は作戦部長・田中新一中将、作戦課長・服部卓四郎大佐、戦力班長・辻政信中佐、総合補佐・瀬島龍三大尉などで、田中と服部の二人はガタルカナル戦敗北という背景があって1942年12月に解任されるが、服部は43年10月に作戦課長に復帰する。そのときの作戦課長だった真田穣一郎少将が作戦部長に格上げされる人事となった。山本によると服部は主戦派のエースと目されており、東条英機にも信頼されていた。作戦課もまた終戦研究を独自に行っていたようだが、省略するが、昭和23年を目途とするという楽観的な見通しを立てていた。




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コメント

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Re: 駄目っぷり

> GGさん、
おっしゃる通りです。頭脳明晰なエリート軍人が、なぜこういう体たらくだったのか。
貴重な人命を多く犠牲にしてしまって残念でなりません。
課題として、わたしなりにもう少し追究していきたいと思います。
現在にも共通する部分があると思うので。

駄目っぷり

信ずれば必勝と、バックアッププランもなしに
ひたすら突き進む所謂エリート軍人達の馬鹿に
踊らされた国民は悲惨。
コイツラ、エリート軍人とはいえ、お勉強が
出来たから偉くなった人達なんで、チマチマした問題の解決や役人的な身過ぎは得意でも、
難事に大局観を持って当たる能力は無く、
変に狂信的だったのが更に悲惨でしたね。

seha

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