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有馬哲夫『「スイス諜報網」の日米終戦工作』(1)

  1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して降伏し戦争は終わった。同宣言には「無条件降伏」の文言が盛り込まれているものの、実際的には、天皇制の存続を日本側が条件とする有条件降伏であったことが今日における歴史研究検証の成果として結論づけられている。また15日直前の歴史的事件のスケジュールも知られているようにめまぐるしく、8月6日広島に原爆投下、9日長崎に原爆投下、同日ソ連参戦となっている。こうした一連の8月15日までにいたるまでの日程が、最終的降伏条件の内実とともに、外交折衝や日米両国における国内の政治的葛藤のなかで(ソ連も含めて)如何に決定づけられていったのかを逐次的にたどるのが本書である。つまり日米それぞれのトップの政治的決断がちがえば、戦争終結は早まった可能性があることを著者有馬哲夫は示そうとする。逆に8月15日よりももっと遠のいた可能性も。
  44年10月、レイテ沖海戦において日本海軍は壊滅的な敗北を喫し、アメリカ軍と互角に戦うことは不可能になり、絶望的な特攻攻撃をつづけるしかなくなった。翌年の5月にはドイツが降伏、6月にはアメリカ軍の沖縄占領が完了し、日本の敗北は時間の問題となった。この頃と前後して日本国家首脳において外務省、海軍の一部、天皇・皇室を中心にして和平(降伏)摸索の動きが台頭してくる。しかし一方においては陸軍を中心とする戦争継続派は依然としてその意志を貫徹すべく、妥協を排斥しつづけた。その陸軍もようやくのように降伏受け入れに傾くものの、天皇制存続とともに戦争犯罪者の裁判の自国主催やアメリカ軍の占領反対の条件をくわえ、天皇制存続のみを条件とする勢力とは真っ向対立の姿勢を最後まで崩さなかった。つまりは最終的には天皇の「御聖断」によってしかポツダム宣言は受け入れられなかった……。天皇は明治憲法下においては国家の法的根幹をなすものであり、現人神(あらひとがみ)といわれるように崇拝と信仰の対象でもあった。強制であれ自発であれ、天皇に一命を捧げるという名目のもとに死んでいった人々が多くいる。人々の死によって交換され生かされる生。その天皇の救命と制度維持をないがしろにはできないという国家首脳の当然の大前提を理解できないというのではないが。
ありえないことだが、もし「無条件降伏」を呑みこむようにそのまま受け入れていたら、戦後天皇はどういう命運に辿り着いたのかとわたしは思ってみる。今日明らかになったアメリカの占領統治計画からすれば、現在の天皇のありかたとそれほどの違いは無かった、生存と地位継続は可能ではなかったかと思えるのだが。というのも戦争における日本人死者の総計は300万人余りで、そのうちの50万人以上が45年の6月から8月にかけての3か月間に死去したといわれるのだから降伏がより早ければより多くの人命が救われたことは明らかで、天皇一人の命と地位保障が、降伏が遅くなった日数分の多数の人命と引き換えられたのだ、と記しておきたい。
  国家首脳は「無条件降伏」案をあまりにも杓子定規に解釈したのか。そうかもしれないが、彼等はその中身をより正確に知りたがった。天皇の地位に眼をつむって降伏することは国家反逆罪に相当するといっても過言ではないだろう。
  しかし、それならばそれで何故アメリカとのトップ交渉を設定しようとはせず、ソ連を仲介役とする米英との和平交渉という今日から見れば愚かしい決定をしたのか(5月14日、秘密裡の最高戦争指導会議で内定、6月8日「時局収拾ノ対策試案」で正式決定。有馬によるとこの日以降、天皇は和平を見据えるようになる)戦いの真最中のアメリカに対して日本の上位軍人か大臣クラスの人を全権として本格交渉に臨ませればよかったのではないか。アメリカとの直接の交渉が国内で弱腰にみられることを、さらには陸軍の反対や反乱を怖れたのだろうか。天皇が賛成の意思を示したこともソ連との交渉を後押ししたようだ。とにもかくにもアメリカとの直接交渉は国家首脳間で合意されなかった。しかしながら、ソ連との交渉といっても日本側から和平条件を明示せずに、もっぱら相手の腹をさぐる体で、佐藤駐ソ大使とモロゾフ外相、広田広毅とマリク駐日ソ連大使との二つの会談においても何ら成果はなかった。ソ連は対日参戦をすでに決定済みだったので冷徹に沈黙を守るしかなかったし、またソ連からのインテリジェンス収集網も日本には皆無だった。(ソ連のドイツ降伏の3カ月後に日本戦参戦の情報はヨーロッパ各国大使館からの入電があったものの、日本政府においては未確定とされた。参戦以前のソ連は「中立国」と見做されていた)それに比べると、スイス公使加瀬俊一(東郷茂徳外相の秘書とは同姓同名の別人)を中心とする国際決済銀行幹部のスウェーデン人・ヤコブソンを中継点としてのアメリカへの連絡ルートのほうがより機能したとみえる。この連絡ルートもアメリカの腹を探る体以上ではなかったものの、アメリカが当の情報網以外の手段も使って情報を小出しにしてくれたのだ。
  アメリカの腹づもりとしては大勢は天皇制存続だったようだが、それを日本側に最後まで明言することはなかった。日本側の打診は執拗で、ヤコブソンや彼との連絡網を構築中のアレン・ダレスをうんざりさせた。個人的見解でもせめて聞かせてくれと日本側は懇願したが、ダレスは勿論沈黙した。ダレスはOSS(戦略情報局・大統領直属の諜報機関)スイス支局長として42年1月10日から45年5月28日までベルンに赴任、45年7月占領地高等弁務官となりドイツのヴィースバーデンに赴任。6月の一時帰国の期間においてもヤコブソンやスイスに居住する私的秘書のゲフェルニッツと連絡を欠かさず、アメリカ国内においても国務長官代理のジョセフ・グルー(ダレスの国務省時代の上司に当たる)とも日米戦争に関して話し合いを密にしていた。
  有馬哲夫によってスイス在住の重要関連人物として挙げられているのは他に、日本側では岡本清福(とみ)陸軍少将・スイス公使館付武官、西原市郎海軍大佐・同武官、藤村義朗海軍中佐・同武官、北村孝治郎・横浜正金銀行社員でのちに国際決済銀行に出向、吉村侃・国際決済銀行社員、朝日新聞では笠信太郎、笹本駿二、田口二郎。外国人では亡命ドイツ人のフリードリッヒ・ハック、(元ナチスの武器商人でOSSエージェントでありながら日本とも協力関係にあった)亡命ドイツ人でダレスの私的秘書のゲロ・フォン・シュルツ・ゲフェルニッツ、である。
 
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