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水上勉「小ハイ」三木卓「われらアジアの子」

  成立しなかった友情というものがある。水上勉の「小ハイ」(「ハイ」は<子亥>で一文字。註によると、ショウハイは中国語で子供、息子、娘の総称でここでは小僧っ子を指す)は作者自身がモデルの主人公が、持病が悪化し斃れてしまって病院へ運ばれ、その場に居られなくなったのでせっかく育もうとした友情が頓挫してしまうという話だ。
  主人公は運送会社社員で、奉天駅で「苦力(クーリー)と呼ばれる中国人労働者を指図して貨物を取り扱う役割を負っている。「苦力監督見習い」という地位で、担当部署においては二人の日本人の先輩がいる。彼は十九歳で赴任まもないが、先輩社員の苦力の扱いがどなりちらしたり竹刀で乱暴に床をたたいたりして追い立てるやりかたに馴染めない。しかし反抗することもできずに、しだいに先輩の指導方法に少しずつ染まっていく。とはいうものの主人公にはためらいがあり、先輩に比べれば不徹底であり、自身でも憂鬱だ。そんななかリュウという事務所の雑役係の少年が目にとまる。年齢は十四,五歳で、主人公を「澄んだ眼ざし」で見つめることが強く印象に残る。リュウはおそらくは通常の日本人とはちがったやさしさを主人公に求めるのではないかと、主人公は推察する。声を掛けてみたいが彼は中国語ができず、リュウもまた日本語の勉強の途上であるもののやはり喋れないという両者の関係だ。もどかしいのだ。また主人公の青年が苦力にたいしてしだいに乱暴さを身に着けていくにつれて、リュウは青年に無関心になってき、青年のほうでもそれが推察されて無念さとともに感覚される。だが、二人がふたたび接近するときが訪れる。休日において町ですれちがったからだ。リュウは母親らしくみえる女性と二人連れだった。青年をみてリュウは照れなのか一人女性を残して逃げ出してしまう。後日、そのときのことを青年なりに漢文を紙に書いてリュウに手渡すのだが、リュウは喜びが仄見えるものの、やはり言葉を返さない……。
  厳しい職場環境のなかで、互いにおそるおそる近づいていく。リュウのほうも青年の好意に応えたいにちがいないと青年はうすうす実感できる段階にまで達する。たとえその関係が友情として固まらなかったとしても記憶は雲散するのではなく、かえって長い年月の中で刻み込まれる。これが青春の心の記念碑でなくて何だろう。うつくしい小編だ。<リュウが生きておれば、もう五十四,五の計算になる。ぼくの暦の根雪にうまって時々、顔をもたげる人のなかで、リュウも大事な人だと思う。>
  初出は「すばる」臨時増刊号一九七九年一月。ここで描かれる中国人労働者にたいする日本人の乱暴な指導ぶりは、戦中では書けなかったのかもしれない。

  三木卓の「われらアジアの子」も子供時代を満州ですごした作者自身がモデルになっている。初めのほうは満州の広大な原野とそこを貫く満鉄の線路、あるいは主人公の少年が鶏小屋に入って餌をやる場面など、みずみずしい印象がある。作者の郷愁でもあるのだろう。だがしだいに少年の心の影の部分が拡大されてくる。中国・朝鮮人にたいする差別・優越意識であり、ときには強く噴出する嫌悪と憎悪の感情であり、また彼等への怖れだ。
  子供は大人の世界を映す鏡だろう。大人の姿勢や意見が一面的で少数者の姿が視野に入ってこなければ、子供もまた大人と同質の一面性に染められる。そして子供はそのことに無自覚だ。戦争完遂で大人が一致すれば、子供もまたそれを前提にして将来をぼんやりと覗き込むことになる。健は小学校高等科の一年生でおそらく十歳。年下の小学生をひきつれて遊んだり、「報国隊」と呼ばれる子供の自主的訓練組織のリーダーとして活動したりする。外見は子供らしい元気さがあるものの、本人は色覚異常で飛行機関連の軍への入隊を諦めなければならなかった。将来は百姓くらいしかすることがないのかと悲観したりし、それが健の影の一つだ。だが自分もまた戦争に貢献しなければならない身であり、そのために中国人と朝鮮人を指導し、まとめていかなければならないと子供なりに考えている。題名の「アジアの子」の由来がここにある。
  子供はしだいに大人の世界に近づいていく。五条という健よりも何歳か年上の少年がいる。少年航空兵をめざす浪人で、小説をよく読んでいて子供たちに話してくれて、そのほかの方面でも大人の世界に子供を橋渡ししてくれるかに見えて、子供の興味や知識欲を満たしてくれる存在だ。戦争ごっこのリーダーとして子供たちに君臨し差配するときには、いじめに類したこともやらかす。そういう子供にとっての憧れの五条ではあるが、健は彼に虚偽と見栄を見抜く。たとえばポスター公募に入選したと自慢するものの調べてみるとそうではないことを。健はこうしてしだいに冷静さを身に着ける。それでも、五条の言はまだまだ健を揺さぶるところがある。朝鮮人が同じどんぶりで排泄と食事をするという話。にわかに信じられない健であっても、その話の強烈な刺激に立ち止まらざるをえない。五条が田んぼの蛙にしてみせる残酷ないたずら。蛙の肛門に麦わらを挿入して息を吹き込み、ぱんぱんに膨らまして球状にして田んぼに放つのだ。五条という少年の異常さなのか。それもあるのだろうが、わたしはむしろ子供時代の数歳の年齢差が、子供にとって大人時代のそれよりもはるかに落差があって見えることを思い出させられた。わずかに年齢が上がることによって、後ずさりさせられるような異常な別世界が人によっては何の気おくれもなく耽溺できるということだ。それに直面した健だが、彼が五条とやがて同じような人になるという意味ではない。
  この短編で肝心なことは、健の女性への興味と欲望である。向かいの家に満州恵(ますえ)という健よりも数歳年上の女学校の生徒がいる。しとやかな身のこなしでうつくしく、頬のそばかすが印象的で、健はそんな満州恵が好きで、姿を目にすると冷静でいられなくなる。欲望を抑制し誤魔化すことも子供が自身に課さねばならない習慣だが、やがて満州恵が襲撃されたことが小さな町全体に知れわたることになる。健は震える。心がひと塊に凝集してくる……。朝鮮人の子供の女性に対する興味。健の姉が病床においてうわ言で、自分の父は朝鮮人ではないかと母に訪ねたこと、それに先に記した五条の蛙にたいするいたずら、こういうことが絡まり合って健の最後の行動に傾斜していく。大人の異民族にたいする憎しみが健のなかでさらに増幅され、満州恵への愛も増幅される。唐突だろうか、わたしは連合赤軍事件を連想してしまい、読後感はよくなかった。
  高い木にのぼって満月に照らされた満州の曠野を健が一人で一望する場面は印象に残った。遊びの舞台の自然、ときとしてうつくしかったり、厳しかったりする自然。だが自分が(人間が)居なくても自然はそこに存在するというのだ。自然は冷たく、人には結局は何も語らず、それは人間にとって寂しいことではないのか。いやだからこそ、自分一人の足で立って生きねばならないのが人間だ。強引な読み方かもしれないが、健はそういう決意に促される気がした。全体的に細部がよく書きこまれていることも記しておかなければならない。
  初出は「文学界」一九七三年六月号

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