大洋ボート

山本周五郎「葦は見ていた」「おさん」

  二編とも性感覚が深い女とその女に引きずられ耽溺してしまう男の話。相思相愛が前提として確固たるものがありながら、さらに性の深淵に二人とも呑みこまれる。戸惑い、引き返そうとしながらもそのめくるめき世界への執着を容易に断ち切ることができない。愛は性によってより高められるが、愛と呼ぶべきか、あまりにも混沌とした熱に浮かされた世界だ。
  「葦は見ていた」は若い女の川での入水自殺の場面からはじまる。この女は「おひさ」という元芸妓で、直前まで藤吉計之介という武士の屋敷に身を寄せていた。計之介の家は五百三十石持ちで父は某藩の中老という身分。武士としては上級の身分に属するのだろう。計之介本人も学業、剣術ともに優れていて将来を嘱望されていた。だが、父の葬儀のために江戸におもむいた際におひさと知り合い、関係をもってから計之介の運命が暗転する。双方とも惹かれあい、逢瀬をかさねることになる。計之介が地元に帰っても、おひさはその地に来て芸妓の職をえて二人の関係はつづく。おひさは計之介の妻になろうとするのではなく、身分のちがいもあって関係を清算しようとするも計之介への執着をたちきれない。また計之助もおひさを手放そうともせず、逢瀬をかさねることによって計之助のみならず、おひさも借金まみれになってしまう。使用人に暇を出し、目ぼしい家財道具を売り払って荒れた家におひさを迎え入れる計之介。
  計之介の行状は周囲に知れわたる。友人の杉丸東次郎の妹の深江は計之介の許嫁で、当然東次郎は計之介に忠告するが、おひさを侮辱されたととった計之介は東次郎に果し合いまで申し込む。計之介は荒んだのか、愛に忠実なのか。
  おひさの自殺は性愛の絶頂に達したという肉体的自覚とともにある。これ以上の幸福はなくあとは下り坂しかない、別れしかないという見通しだろうか。当然、計之介の出世の妨げになるという自覚は最初からある。結末は異なるが、性の幸福を道連れに事件が起きるという成り行きは映画『愛のコリーダ』に似ている。だが、おひさが何も告げずに出奔したため、計之介はおひさに逃げられたと誤解するのだ。唯一売り飛ばさなかった家宝の漢鏡をもっていかれたこともおひさへの憎しみを増幅させるのかもしれない。計之介はおひさを忘れる。深江とも結婚し、藩内の出世の階段を順調にのぼっていく。「立ち直る」のだ。こういう誤解が生じるのはやむをえないことかもしれない。
  だが不可解だったのは、おひさが自殺した同じ川で釣りをしていた計之介が偶然文箱に保管されたおひさの遺書を発見する個所だ。つたない字で「けいさま」と呼びかける部分があるが(「おひさ」の字は滲んでいて読めないとある)それでも彼は気づかないのだ。こんなことってあるだろうかと、わたしは思った。過去の身を焦がした恋と女をすっかり忘れてしまうことなんてあるだろうか。(「18年後」という時間の隔たりがあるが)たとえ細部は忘れるとしてもだ。山本周五郎は過去をすっかり忘れ果てて、眼の前のさらなる出世にのみ獲物を狙うように凝視する計之介を「悪人」に仕立てたいのだろうが、別の書き方があったのではないか。
  「おさん」は「床の間大工」の参太が親方の家での飲み会に参加し酔いつぶれてしまい、気が付くと、そこで働いているおさんが傍に居てすぐさま肉体関係に発展し、やがて所帯をもつ。だがこれは過去のはじまりというべきで、現在のはじまりは、箱根あたりの宿で参太が別の「おふさ」という芸妓と同じ部屋にいる場面で、この両者が交互に進行する仕組みになっている。だが前者のほうが中心だ。
  参太がおさんと所帯を持つ気になったのは、おさんの性的感応力の深さにある。それまでの参太は女性関係が豊富であるものの「惚れた」ことがないことが自慢だったのだが、おさんを知ってからはそうではなくなった。おさんの身体の深部から発される反応に参太は夢中になり、二人は短い期間、至福の時間を共有することになる。「愛」が性によって高められるのは「葦は見ていた」の男女と同じだ。だがまもなく参太は、おさんの性的感応力の深さと隣り合わせにある異常さに直面することになる。その興奮が進行するさなか、おさんは別の男の名を叫ぶ。あわてて問い詰める参太だが、おさんは興奮状態にあるときの自分というものがまったくわからない、覚えていないだ。別の人格になるのではなく、普段の人格が消失してしまうようで、その男の名は、おさんの父や幼なじみであったりし、特定の男ではないことがわかる。だがその異常さによって参太の愛は急速に冷め、憎しみや殺意まで抱くようになる。参太は無気味になっておさんから逃げてしまう。だがそのときには参太には「逃げる」という意識はない。少し間をおいて冷静になってみよう、よく取ればそうだが、自分の都合のいいように考えてしまうのだ。おさんがいつまでも待ってくれるという参太の思い込みだ。これは男性なら落ちこみそうな罠ではないかと、わたしは思ったところだ。

仕事が終われば帰ってくるよ、とおれは繰り返した。きっとね、待ってるわよ、とおさんは云い、すぐにまた泣きだした。あんたにいなくなられたら、あたしはすぐにだめになってしまう、すぐめちゃめちゃになってしまうわ、とおさんは云った。一年か二年はなれてみよう、おれは心の中でおさんに云った。そのあいだに事情が変わるかもしれない、おさんの癖が直るかもしれないし、おれ自身がもっとおとなになって、おさんの癖に付いていけるようになるかもしれない。口には出さず、心の中でそう云った。しんじつそう思っていたからである。


  だが案の定というか、参太の思い込み(錯覚)に反しておさんは留守居に我慢しきれず、出て行ってしまい、そのあとは次々と男を作っては例の癖のために男に憎まれ、捨てられ、あげくは殺害される。おさんの男女関係は、参太との出会いのときのように、みずからを押し付けるように男にいきなり至近距離にまで行ってほとんど同時に性交を果たすというもので、それを繰りかえしたのだ。小説は上方から江戸に帰る途中から「現在」がはじまり、やがて江戸に帰っておさんとの再会を目指して探索する参太が描かれ、上記のおさんの運命を知ることになる。おさんにとって参太はおそらく特別ではなく、何人もの遍歴した男の一人に過ぎず、別れればすぐに忘れ去ってしまう存在だったのだろう。飲み屋で同じくかつておさんと同居し、暴力のためにおさんに逃げられて意気消沈する作次という男と話す場面があるが、作次が未練をもって再開を果たしたとき、おさんは「まったく縁のねえものを見る眼つきだった」と作次は言う。
  終結近くの場面はおおいに甘い。寺の無縁墓を前にして参太が空想されたおさんと語り合うが、参太はおさんを助けられなかったことを詫びるとともに、言い訳たらたら。また、空想のおさんにとっては参太が唯一愛した男であり、参太を忘れるためにつぎつぎと他の男に身を任せたのだと言う。これは実際のおさんではなく、参太の錯覚だと思われるが、性愛の甘さを追慕するには錯覚のほうを自然に択んでしまうということだろうか。わたしにも身に覚えのあるところだが、感動のはしくれくらいは受け取れるものの、この甘さには疑問符を打っておきたい。江戸へ向かう道中の宿で参太の相手をしてくれる「おふさ」はやがて女房になるらしく、つまりは「次の女」がちゃんと用意されているのも、参太の後悔の念を薄める作用としてはたらいている。本文庫中のいちばんの力作ではあるが。

初出
「葦は見ていた」(「面白倶楽部」昭和二十九年九月号)
「おさん」(「オール讀物」昭和三十六年二月号)
それぞれの編の末尾記載による


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