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川田稔『昭和陸軍全史1 満州事変』(2)

  若槻礼次郎首相は、事変勃発の当初は事態不拡大と関東軍の独立国家建国運動への不関与をいちはやく決議した。満鉄沿線への軍の撤退を、つまり事変以前への回帰をできれば実現したかったようだ。だが大陸の軍隊を思うように統率できず、結局は満州地域の事変以後の占領状態を認めざるを得なくなる。独立国家運動の水面下の動きも、表向きの方針はともかく放置するしかなくなる。若槻にとってはたいへん苦しい後退劇だっただろう。だが、総辞職に追い込まれるまではみずから職を投げ出すことはなかった。軍とのせめぎ合いはまだまだつづいているという現状への感覚があったのではないか。本土陸軍中堅層の政治的攻勢の情報も当然とどいていただろう。それに若槻においては、同内閣の先に記した南陸相はじめ、幣原喜重郎外相、井上準之助蔵相らの布陣をもとめられる範囲においての最強の布陣であるという確信(自信)があったようで、内閣交代によってさらなる内閣の弱体化を懸念したとわたしは想像した。軍を統率できない首相は弱い。民政党内部も一枚岩ではなく、野党政友会も政権交代を目指さないわけもない。形式的とされるものの最高権力者の天皇をいただく宮廷も、軍にたいする抑制工作への協力には消極的だ。つまり若槻には有効な打つ手がなかったのだが、にもかかわらず、自分たちの布陣が最良であるとの自覚は持続していたようで、これがジレンマでなくてなんだろうか。
  川田稔によると、若槻礼次郎は内閣総辞職ののちにもふたたびの組閣を望んでいた。首相は憲法の規定上、天皇の任命「大命降下」によって選ばれることになっていたが、事前に元老西園寺公望らによる候補者の決定・奏薦を経なければならない決まりになっていた。しかし西園寺は若槻を有力な候補者として念頭におきながらも結局は野党政友会の犬養毅を奏薦した。その経移はやや複雑であるが、西園寺はべつに若槻の能力を疑ったのではない。陸軍や民間右翼、それに国民世論の一部から若槻が怨みを買っていることを知悉していて、若槻への「大命再降下」によって怨みが宮中にふりむけられることを怖れたようだ。川田の記述にふれると、この警戒心はけっして過剰とはいえなかった。引用された西園寺私設秘書原田熊雄の回想録『西園寺公と政局』によれば、若槻内閣がつづいた場合<もしそうなれば、すでに今までにも為にする宣伝、無理解な中傷によって[宮中]側近に対する空気がすこぶる悪くなっていた事実や、官僚出身の一部の先輩および軍部に一種の陰謀のあることなどを承知しておられる公爵としては、これと政友会とが合流して、側近攻撃、宮中に対する非難中傷が起ることは、今日の場合、すこぶる憂慮すべき結果を惹起しはしないか、という懸念が、相当強く公爵(西園寺・ブログ筆者註)の頭を支配していたわけである。……もちろん財政や外交も重要ではあるけれども、遺憾ながら、この際宮中のことのためには、何物をも犠牲に供さなければならない国情である、と考えられたのであった>
  宮中の第一義の目的とは、財政や外交の健全化の追求よりも皇室の存続そのものだとしているのだ。明治以降、京都に常住していた皇室・宮中の人々は薩長勢力よって江戸に引っ張りだされてきたのであり、暴力的な政治勢力にたいしては、その地位の不安定さ・脆さを自覚していたのかもしれない。最高権力者としての天皇の地位を謳った明治憲法にしても彼等にとっては盤石には映らなかった。それに、事変の真っ最中に明らかになったクーデター未遂事件「10月事件」の発覚が衝撃をあたえた。橋本欣五郎参謀本部ロシア班長・大佐を中心とするその計画には襲撃対象として主要閣僚や宮中重臣のリストがあげられていたという。宮中にとっては、橋本らが拘束されても陸軍その他の「下剋上」の動きには敏感にならざるをえなかったのであり、若槻ではなく犬養を首相に指名したのは、目先をそらそうとしたからだ。だがわたしはこの宮中の思惑から嫌なことを思い出さずにはいられない。太平洋戦争終結・ポツダム宣言受諾にもたついたのは、連合軍側の方針としての皇室存続が確認されなかったからだという。(吉見直人『終戦史』)そのために何10万人という膨大な犠牲者をかえりみることなく、皇室の身分と引き換えにしたのだ。(ただし、昭和20年の場合は、この方針は宮中単独ではなく政府と軍の一致したものだった)
  若槻と犬養はいずれも天皇の権威を借りて軍を抑え込もうと試みたが、思うようには宮中は動いてくれなかった。事変直後の9月22日には参内した若槻にたいして、天皇は若槻内閣の「不拡大」方針を指示する旨の意見を表明し、南陸相、金谷参謀長にもつたえられた。だがこれは統帥権にもとづく命令ではなくあくまで意見表明を超える強制力はなかった。南、彼方の両者はごく短期間それを遵守したが、天皇の顔を立てたくらいの扱いでしかなかった。犬養においては<天皇への上奏によって、過激な少壮将校三〇人程度を免官処分にすることを試みようとしたようであるが、結局実現しなかった>(川田)また若槻、犬養の両者とも長老軍人や政界重鎮らに相談をもちかけるが、これまた軍の抑え込みには効果はなかった。
  永田鉄山ら陸軍中堅層はかねてより軍首脳から宇垣派排除を画策していたが、犬養内閣成立にともなって、彼等が後押ししる荒木貞夫、真崎甚三郎がそれぞれ陸相、参謀次長に就任し(参謀総長は皇族の閑院宮載仁(ことひと)で実務には不関与)彼等の軍・政界工作は実現した。犬養首相は南陸相の留任を望んだらしいが。川田はこの陸相・参謀長の人事刷新が陸軍の質的転換をもたらしたと説く。荒木・真崎は前二者とちがい国際協調重視ではなく、関東軍の占領地拡張・独立国家樹立方針により親和的であり、ひいては陸軍の好戦性を定着化するにいたるからだ。
  記すまでもないが、犬養首相は5・15一事件によって惨殺される。<犬養の軍部への対抗姿勢や満州国承認への消極的態度は、少壮軍人や極右勢力に強い反感を抱かせることとなり、……。(川田)>
(了)
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