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川田稔『昭和陸軍全史1 満州事変』(1)

  満州事変から本格化する日中激突の時代が、日本の政治と軍部(陸軍)の中枢にたずさわる人物群の動きをとおして描かれる。関東軍の行動を世論は支持したと思われるが、個々の日本人や中国大陸の日本人居留民、また一般の中国人がどのようにその時代をとらえ生きたか等、日本の政・軍の中心人物以外の意見や動向は捨象される。本書の考察対象の範囲外ということだろう。いっこうに構わない。
  事変を引き起こしたのは関東軍であり、それを絶対的に支持し、且つ政界と軍内部における工作活動によって法的合法の枠内に押し込もうとしたのは永田鉄山らの陸軍中堅幕僚であった。一方、事変の知らせを寝耳に水として受け取りながら「事態不拡大」をめざして関東軍と陸軍を必死に抑え込もうとするのがときの若槻礼次郎民政党内閣である。そのせめぎ合いの様子が、陸軍と若槻首相の双方のアングルから時系列順にしたがって活写される。川田稔は客観性の枠内にとどまる描き方に終始するが、若槻に対する同情と共感が漏れ伝わってくる。わたしもまた若槻や次期首相の犬養毅に寄り添いつつ読んだ。旧憲法の体系下では首相の権限が制約されており、充分に軍にたいする指示命令が行きとどかないこともあらためて学ばせられた。また皇室・宮中は元来から国際協調主義であり、若槻内閣に同情的で軍部に批判的であったが、政争の中心に天皇の身を晒させることにおよび腰であった。軍における不穏な動きを宮中は嗅ぎとっていてその矛先が天皇や宮中に向かうことを警戒したからである。したがって 若槻や犬養の協力要請を全面的に受け入れることはなかった。
  1931年9月18日の事変勃発から2年足らず後の1933年3月31日塘沽(タンクー)停戦協定が締結され、日中間にとりあえずの平穏が訪れるが、4年後の1937年7月には盧溝橋事件が勃発し、日中戦争と呼ばれる戦いがまたはじまる。さらには4年後の太平洋戦争開戦から敗戦に至るまで戦争はつづく。陸軍の、のちには海軍も巻き込んだ戦争継続・膨張路線は満州事変に端を発するという見方ができるのではないか。少なくとも満州事変期においては、永田鉄山を中心とする陸軍の中堅幕僚による非公式の横断組織「一夕会」のイデオロギーが大きく働いている。それが川田稔の歴史見識だ。
  永田らは次期大戦に向けての日本の大国化を目指した。第一次世界大戦に見るごとく「大戦」と呼ばれる戦争においては兵器の広範囲にわたる機械化をはじめとして、国家規模の工業力、経済力が問われる。また「大戦」は短期間で終息するのではなく何年もの間継続するので兵器はもとより物品の再生産能力を高めておかなければならない。つまり、大戦は「総力戦」になるので、国家のありとある人材と経済力、工業活動を総動員しなければならない。そのためには工業力を量的質的に高めることは勿論、国家体制を戦争に集約されるべき組織と仕組みに組み替えておかなければならない。同時に、工業や軍事分野への潤沢な資源・材料の供給が不可欠だ。しかし日本国内においてはそれに足るだけのものが確保できない。ならば資源が豊富に眠っているであろう地を日本の支配下におくことが不可欠だ。そういう認識(あるいは野望)のもとに満州事変は計画実行された、と川田は言う。黒竜江省、吉林省、遼寧省の満州東三州以外にも北支、中支と呼ばれる地域(揚子江以南をのぞく中国の大部分であろう)には豊富な資源が眠っていると永田らは見当をつけ、それらの地の占領と支配化をめざして事変を起こしたと川田は見る。
  だが満州国建国にこぎつけたものの、またその後あらたに獲得した占領地においても、大戦を担うに足るだけの資源を日本軍は中国大陸において見つけることができなかった。とくに石油資源は有力な埋蔵地がなく、永田の構想は大風呂敷を広げたにすぎない結果になった。太平洋戦直前の南部仏印進駐はアメリカによる蒋介石援助のための物資支援ルート「援蒋ルート」を遮断するのが直接の目的だったが、蘭印(現インドネシア)の石油資源も視野に入っていたのだろう。十分な資源確保の見通しもないまま、日本はアメリカとの戦争に突入し敗れた。
  少し問題の標的がずれた。川田稔によると永田ら一夕会の構想があらかじめ根っこにあって事変は引き起こされた。関東軍単独の暴走ではなく、その行動をさらに拡大・定着させようとする本土陸軍の永田らの後押しがあって初めて開始された。世界恐慌打開のためでもなく、南満鉄道をはじめとする日本の権益擁護や日本人居留民保護のためでもなかった。それらは副次的理由であり、国民受けするのには好都合だったようだが。
  満州事変は1931年9月18日午後10時過ぎに起きた。奉天近郊の柳条湖付近で満鉄線路が爆破された。関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と作戦参謀石原莞爾中佐の指揮による謀略であったが、これを中国軍の仕業として板垣は攻撃を指示、関東軍は翌19日の午前6時半頃までには中国軍(張学良軍)の拠点の奉天城、北大営を占領、さらに奉天のみならず長春・安東・栄口・鳳凰城など南満主要都市のほとんどを19日中に占領した。中国軍側の抵抗が微々たるものだったからでもあるが、関東軍の軍事行動はいかにも電光石火ではないか。事前の準備がなくてはこれほどの素早さは実現できないのではないかと感じる。19日午前10時に閣議がひらかれ若槻首相は事態不拡大を確認。22日の閣議では朝鮮軍の独断越境が報告され、閣僚は憤ったようだが、若槻首相はあっさりこれを容認し、経費支出を決定した。このあたりの川口の解説(見識)は読みどころだ。なお、書きおくれたが板垣、石原はいずれも一夕会会員であった。
  当時の首相には軍隊を直接指揮する権限がなかった。軍の作戦・用兵をつかさどるのは陸軍においては参謀本部であり、参謀本部は天皇に直属していた。そのトップは参謀総長(満州事変当時は金谷範三大将)であったが、内閣の外の組織であるため、首相は参謀総長を監督下にはおけなかった。内閣内の陸軍組織は陸軍省であり、ここは陸軍大臣が閣内において首相らと協議して装備・編成の分野で具体的に予算措置を講じる役割を担った。臨時の経費支出も内閣の専権事項だったのだろう。朝鮮軍の越境は事前の天皇の裁可をえないままの「独断」であり「大権干犯」であったから、若槻は断罪したうえ経費の不支出を決定することも可能だった。だが若槻はあえてそれをしなかった。川田によると、経費不支出にたいする陸相や参謀総長の抗議ひいては辞任によって内閣総辞職に追い込まれることを回避するためのやむにやまれぬ選択だったという。(辞任にいたらずとも一人の閣僚が内閣の方針に反対するだけでも総辞職しなければならない決まりだった。全会一致が内閣の大原則だったから。のちに安達謙蔵内務大臣によってこれが引き起こされ若槻内閣は総辞職の事態に陥る。ただし、単独辞職を願い出ることは可能)これもまた旧憲法の制約で、首相には閣僚の任免権がなかった。また陸海軍大臣は「軍部大臣武官制」という法規があって、陸相なら陸軍が陸軍内の上位将校から選んで内閣に推薦する取り決めになっており、逆にいうと陸相候補推薦を陸軍が拒否するならば内閣は成立しえなかったのだ。
  若槻は南次郎陸相と金谷参謀総長の両者を、陸軍を抑制するための最適の布陣と見なしていた。二人はともに宇垣派とよばれる派閥に属しており、頭目の宇垣一成(満州事変発端当時は朝鮮総督、前浜口雄幸内閣では陸相)は1920年代歴代内閣の国際協調路線に寄り添う姿勢の人だったので、その影響は南・金谷の両者にも及んでいたと見られる。だが二人は内閣の不拡大方針に従いながらも若槻首相ほどの一貫性はなかった。陸軍軍人だからだろうか、一夕会をはじめとする陸軍中堅層の突き上げを食らって拡大方針に舵を切ってみたり、ふたたび関東軍の野放図な攻撃範囲拡大を制止したりと右往左往するのだが、若槻にとっては両者の起用継続は十全とはいえないにしても、それなりの結果はもたらされたと川田は見る。
  関東軍は政府や陸軍首脳の指示を無視してそののちも攻撃・占領地域を拡大していき、条約上で許されていた南満鉄道沿線の駐兵権地域(距離は本書では不記載)をはるかに逸脱するに及んだ。たとえば吉林という都市は地図でみると東に100キロほど鉄道線路から離れている。さらに10月以降、黒竜江省首都チチハルを一時的に占拠、張学寮軍の拠点の錦州を爆撃するに及んだのだが、若槻内閣は南・金谷両者の権限を以て一旦は関東軍をそれらの地から撤退させることにこぎつけた。チチハルはソ連の利権鉄道・中東鉄道を超えた場所にあり、錦州はイギリスの利権鉄道・北寧鉄道の沿線であったので、国際世論の硬化をおそれたためだ。陸軍内部にも短兵急の攻撃・占領地拡大を懸念する声があったためでもある。だが若槻のせいいっぱいの踏ん張りもここまでだった。12月11日、若槻内閣は総辞職に追い込まれる。野党政友会との協力内閣設立を模索する安達謙蔵内務大臣が、閣議を欠席したためだった。
  さかのぼって9月21日、中国政府は日本の軍事行動を「侵略行為」として国際連盟に提訴している。その主張は2年後の1933年には国連に認められ、日本軍の満州からの撤退勧告決議案が2月24日国連総会において採択されることになる。3月4日、日本は国際連盟を脱退。これは陸軍にとっては事変開始以来の想定事項だったようだ。3月1日には既に親日派中国人らによる「満州国建国宣言」が発表されている。



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