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川田稔『戦前日本の安全保障』(2)

  1918年(大正7年)9月、原敬政友会内閣が発足。中国北方政府への援助打ち切り、翌年には武器供与の停止を決定した。またアメリカから提起されていた米英仏日による中国への国際借款団(新4国借款団)への加入も決定し、アメリカの日本にたいする「段援政策」の抑制意図に応えた。シベリア出兵問題でも原は減兵策を決定したが、最終的に全面撤兵が果たされるのは、原の死後1922年10月になる。これらの政策遂行によって米英の日本に対する警戒心はゆるめられたといえようか。原は中国へのさらなる軍事的手段による膨張政策を放棄しようとした。中国の分裂した政治集団の一部に肩入れするのもやめるべきで、反対に中国の統一を促すべきで、そのための政治勢力同士の妥協を援助するという方向に切り替えた。そして統一がはたされた中国との本格的提携関係を築こういう構想だった。そのうえで国内産業を発展させ、中国全土をアメリカの主張どおりに門戸開放を実現し、平和的手段によって日中の通商貿易を発展せしめようと考えた。中国は大いなる市場となり、そのときにはアメリカ・イギリスその他列強は競争相手になるが、当然受け入れるべきで、非軍事面での産業分野の競争力強化で対抗可能と考えた。
  1920年国際連盟発足。日本は常任理事国となる。1921年原は東京駅で暗殺される。原は国際連盟を「世界の平和を強制する」国際機関として高く評価した。第1次世界大戦については詳しく調べる余裕がないが川田稔によると<戦死者九〇〇万人、負傷者二二〇〇万人、一般市民など非戦闘員の犠牲者も一〇〇〇万人に達した。>その他、住居、工場設備、インフラの破壊も言うに及ばずで、戦勝国といえどもその惨劇からまぬかれることはなかった。「勝利」は名ばかりであり、見合うものは何もなく、大規模な破壊を招来せしめたという以外になかった。この惨劇の防止は果たされなければならないと原は考えたのだろう。しかしながら、戦争を絶対悪としてとらえる見方は軍部や日本国民の多くにおいては、それほど堅固ではなかったのではないか。惨劇の当事者ではなく、その実相をしらなかったからだろうか。「結果」から眺めるとそう思わざるをえない。
  浜口雄幸の民政党内閣は1929年(昭和4年)発足。それまでは原敬亡き後も歴代内閣は国際協調路線を維持していた。平和と現状固定をアメリカはじめ国際社会が望んだようであり、日本もそれに同調した。満蒙利権にたいする非難も「現状固定」であるから、中国本土以外からは高まらなかった。「ワシントン体制」と呼ばれる枠組みである。ワシントン海軍軍縮条約、九ヵ国条約(中国の領土保全、門戸開放)四ヶ国条約(太平洋の平和維持)などが締結された。
  1926年7月、蒋介石の国民党・国民革命軍が北伐を開始。1927年~28年にかけて当時の田中義一内閣による2回の山東出兵。北伐とは、中国政府が中国全土の統一を目指して各地を支配する軍閥を軍事的に圧伏しようという動きであり、日本軍の山東出兵は現地居留民の保護を名目としたが、満州の軍閥張作霖を援助することと関連したともいわれる。当時野党だった民政党総裁の浜口は、対中国政策は一党一派に偏すべきではないと批判した。中国の統一は促進・歓迎すべきというのが浜口の根本方針であり、分裂を固定化すべくいたずらに策動すべきではないとの思いだった。現地の治安については、外交交渉を通じて蒋介石軍や、軍閥に委ねるべきという意見でもあった。ここで口を差しはさむと、浜口の政治的立場はともかくも、政情不安定な外国に住む日本人の安全をいかに確保するのかという問題は、現在においても悩ましいと思われる。理想的平和主義でも軍隊派遣先にありきでも、一方的な立場に固執しては誤るのではないか。かぎられた時間の中で少ない情報で判断を迫られる。また十全な解決がなしえない可能性もあるのだ。この場合の山東出兵の是非は、わたしには材料に乏しく判断できない。ただ、中国民衆の反日感情を増幅させたことは事実のようだ。
  田中義一首相は「満蒙特殊地域論」の立場だった。蒋介石の全土統一は容認するもののそれは満蒙を除外した版図でなければならず、満蒙は現地を牛耳る張作霖を援助・温存することによって日本の権益を全たからしめるという方針で、原敬と同様だった。一方、現地の関東軍は反日の気運に乗じてか、懸案事項の解決に「非協力的」な態度をとりつづける張の排除をにわかに企図した。中国政府の満蒙における主権は名目的には容認しつつも、満蒙を日本の強い政治的影響下におこうとする「満蒙分離論」が下敷きにある。1928年6月4日、関東軍による張作霖爆殺(搭乗列車の爆破)、同年、張の実権を引き継いだ息子張学良は国民政府との妥協と合流の意向を示したが、これにたいして田中政権は延期勧告をする。張と国民政府に主導権を渡すまいとしたのだが、浜口は当然批判した。もはや中国の統一は阻止することができないのであり、その中央政府との友好と提携の構築こそを以後は目指すべきとした。
  1930年5月、中国の関税自主権を承認する協約が二国間で調印。その他対中国借款問題でも浜口は融和的政策をとり、中国の対日不信をやわらげた。同年4月、ロンドン海軍軍縮条約調印。それらが浜口内閣の政治的成果とされる。またさかのぼるが、1928年には不戦条約の調印に日本も参加した。この条約は、戦争による国際紛争の解決を「不法」としたもので、それまでの戦争の正当性を否定した画期的な国際約定だった。国際連盟、九ヶ国条約、軍縮条約、不戦条約等、<平和維持に関する多層的、多重的条約網の形成(原田)>によって浜口は、日本の安全保障が堅固化されると考えた。力と力がぶつかりあうパワー・ポリティクスの時代から、世界各国の相互信頼と共存共栄にもとづく平和維持の時代へと転換しつつあると浜口は見做した。戦争が巨大化した結果、勝利の名に見合うものは何も得られず、惨劇をもたらすのみとの認識に浜口も立っていたのだ。だがその浜口においても満蒙権益は死守すべきという立場だったと川田は指摘する。
  永田鉄山は陸軍内の「統制派」と呼ばれるグループの中心人物とされる。陸軍中央では大正末期から中堅幕僚の非公式の集まりが形成されていた。「二葉会」の永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、河本大作、東条英機、板垣征四郎、土肥原賢二、山下奉文など(陸軍士官学校15期~18期)。1927年(昭和2年)結成の「木曜会」には石原莞爾はじめ陸士21期~24期の世代が参加。それぞれ20人前後の員数で、のちにこの2グループは「一夕会」として合同することになる。
  わたしの見るところでは、永田はそのグループの初期においてはリーダー的存在ではなく、意見のまとめ・集約的役割を果たしたのではないかと思う。原や浜口は戦争回避のため英米・国際協調路線を歩もうとしたが、永田らは逆に戦争不可避論の立場から軍備拡大路線に舵を切ろうとした。戦争の火種はヨーロッパにおいては残存している。国際連盟は超国家的権威をもたず、戦争を防止するに足りる組織ではない。また中国においては英米ソ日の利益が錯綜する地域であるから、国際間の戦争の影響を受けざるをえず、日本も巻き込まれざるをえない。それならば、戦争の準備をしなければならないが、第一次世界大戦にみるごとく国家総動員体制を構築しなければならない。航空機、戦車、大砲など軍需品は無論そのほか平時の工業品もふくめて全体の工業力を高めなければならない。そのためには国民挙げての人的総動員ももとめられる、さらに再生産力を維持するための資源確保も自前でしなければならない。平時における工業生産は戦争の準備のためであり、戦争への移行に即応できる体制でなければならない。そのためには国家経済全般の国家による政治的統制・計画性が確立されなければならない。よってこのような陸軍の意向を実現させるべく、政治への陸軍の影響を支配的に行使しなければならない。
  やや乱暴だが、わたしが読んだ川田稔による永田鉄山の論文の紹介のまとめである。つまりアメリカと肩を並べるほどの大国に日本はならなければならない。それは陸軍という軍隊単独の課題ではなく、まさに日本全体の国家的課題なのであり、そのためには政治に深く関与し政策決定に参加しなければならない、となる。日本のようなちっぽけな国がアメリカのような軍事大国と対等に戦えるのか、現在となっては答えは既に出てしまっているが、当時の永田ら陸軍の中堅幕僚はそれが可能だ、可能ならしめることができると大真面目に考えた。人的努力の集中によって国家間競争に打ち勝てると見做した。わたしが引用された永田論文を目にする限りでは、これらは当時の陸軍においては反対意見はあったであろうことは推察できるが、寧ろ共有しやすいものであったのではないかと想像した。主観的闘争心にもとづいた国際的膨張主義といえるだろうか。だから永田独自の構想ではなく、グループの意見集約としての大国化ではなかったかと思った。
  無論、永田も日本が工業国としていかに貧弱か知悉していた。<永田によれば、大戦休戦時、飛行機は、フランス三二〇〇機、イギリス二〇〇機などに対して、日本約一〇〇機。欧州各国と日本との格差は、二〇倍から三〇倍である。(略)戦車は、一九三二年(昭和七年)段階でも、アメリカ一〇〇〇輌、フランス一五〇〇輌、ソ連五〇〇輌にたいして、日本四〇輌とされる。>これよりも古い調査(一九一三年)によると<鋼材需要額で、日本八七万トン、アメリカ二八四〇万トン(日本の三二・五倍>となり、「遺憾の極み」と永田を嘆かせた。
  それでは重要事である資源の自前調達をどのように成し遂げようとしたのか。満蒙地域はもとより北支、中支と呼ばれる中国大陸の地域であり、その占領と支配によってそこに豊富に産出されるであろうもろもろの資源に活路を見出そうとしたのである。満州事変(1931・昭和6年)はこのような構想にもとづいて引き起こされたと、川田は述べる。首謀者は関東軍の板垣征四郎高級参謀(大佐)、石原莞爾作戦参謀(中佐)であるが、若槻礼次郎首相はじめ内閣首脳には寝耳に水だったものの、関東軍による暴走ではなく、陸軍省の永田鉄山軍事課長(大佐)、岡村寧次補任課長(大佐)、参謀本部の東条英機編成動員課長(大佐)など内地の幕僚と板垣らの「連携プレー」によるものだという。名前を挙げた人はすべて一夕会会員である。
  結論を急ぐと、日本の大国化、自給自足体制は実現しなかった。押し気味に日中戦争を遂行しながらも中国大陸においては満足な資源獲得がなしえなかった。永田をはじめとする陸軍統制派の構想に穴があったのだ。そして日米戦争に突入する。永田鉄山の理想どおりの大国化を成し遂げたうえでの戦争ではなかった。(了)
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