大洋ボート

川田稔『戦前日本の安全保障』(1)

  戦争を回避し平和を維持しつづけるということが安全保障の目的であり、政治の大きな課題だ。非武装中立で国家を守りきれるものならばそれに越したことはないが、そうもいかない。急迫の侵略的行動をとる外国が出現したならばという仮定にもとづいて、それにどう対処し防護するか、根本方針をあらかじめ打ち立てておかねばならない。大国と同盟を結んで防衛の重要部分を依存するか、それとも大国との戦争さえ想定されるならば、それに耐えうるだけの戦力と持久力を構築しなければならないと考えるのか。つまりみずからの国家が大国として成長しなければならないが、それがはたして可能なのかという課題がのこる。大国との同盟のみならず、国連(戦前は国際連盟が相当する)や戦争回避を標榜する諸条約に依存し、信頼するならば、軍備拡張は国民生活を圧迫するほどの規模でなくても済みそうだが、戦争、特に大国との戦争が想定されるならば軍備拡張は避けられない。太平洋戦争という最終破局にいたるまでの戦前の日本国は、その両極の選択の間を主たる政治指導者の交替ごとに揺れ動いたようだ。著者川田稔は4人の政治家と軍人、山縣有朋(1838・天保9年~1922・大正11年)原敬(1856・安政3年~1921・大正10年)浜口雄幸(1870・明治3年~1931・昭和6年)永田鉄山(1884・明治17年~1935・昭和10年)をとりあげ、その安全保障を中心とした国家構想のそれぞれの特徴と差異を明らかにしようとする。
  1905年、日露戦争の勝利によって、日本はロシアの有していた南満州鉄道や周辺鉱山の採掘権などの「満蒙利権」を、また南樺太を手に入れた。1910年には日韓併合、第一次世界大戦(1914~1918)ではイギリス・フランス・ロシアの「三国協商」側に付いてドイツに宣戦布告し、ドイツの中国大陸の拠点青島(チンタオ)を占領し、戦争終結によって山東半島のドイツ利権を獲得した。日本の帝国主義としての領土拡張の時代である。だが後々までこれらの領土・権益保全の課題が、日本国を悩ませることになる。とりわけ中国大陸において。中国では民族意識が急速に高まっていた時代であり、1911年の辛亥革命を前後して、日本は言うに及ばず、中国のかなり広い部分を占領状態にしているイギリス・フランスなど諸外国にたいする排斥運動が顕著化しつつあった。(日露戦争以前では、ロシアは遼東半島にまで達する大陸の北の大部分を占領していた。またそれ以後も、イギリスは上海・南京地域から重慶にまで達する大陸の中央部分を東西にわたって支配、フランスは広東省から現在のベトナムにいたるまでの南方地域を引きつづき支配していた)
  さらに占領地域の防衛というにとどまらず、日本国は中国大陸における経済的利益の拡大の野望を抱いていた。川田によれば、山縣有朋は日本は人口過剰で、移民・植民政策を実行しなければならず、その実現地の大きな目標のひとつを中国大陸全域に向けていた。また貿易拡大によって日本製品の輸出市場にすること、同時に資源獲得とその輸入を実現させるためにも大陸が視野に入っていた。このことは山縣にとどまらず、原、浜口、永田ともに共通する構想だったが、その実現手段のちがいが明瞭にあった。市場・権益・領土の拡大は中国大陸においては地元中国はもとより、イギリスやフランスやロシア、さらに門戸開放をもとめるアメリカとも競合することになる。山縣はときの中国政府(辛亥革命以後も内戦状態)を屈服させるためにも諸外国との競争に打ち勝つためにも軍事的手段も辞さずの構えで、ロシアとの同盟関係(「日露協約」・第1回1907~第4回1916)を基軸にしようとした。日本とロシアは互いの中国における利権を侵食せず尊重し合うことと、双方の一国が軍事的紛争に巻き込まれたときには援助するという取り決めだった。川田によれば、山縣は、平時においても日露同盟は中国・イギリス・フランス・アメリカの日本単独にたいするよりもより堅固な牽制となり安全保障に多大に資するという見方をしていた。だが1917年のロシア革命によってこの協約は水泡に帰し、山縣の構想は破綻する。
  原敬は1914年(大正3)6月、第3代立憲政友会総裁に就任、首相となり、初の本格的政党内閣といわれる原内閣が誕生するのは1918年(大正7)9月。原は確固たる対アメリカ提携論者だった。アメリカの潜在能力と将来にわたる世界的パワーを予見して、アメリカを敵に回すと、他の国は救ってくれず、大きな禍根をのこすことになると考えていた。そのため、アメリカの中国への門戸開放、市場参加要求はやがては受け入れねばならないかもしれないと見なしていた。(アメリカによって満蒙地域の閉鎖性が指摘されていた)また大隈内閣が1915年1月に提出した「対華21カ条要求」を舌鋒鋭く国会で批判した。21カ条のうちには満蒙や山東半島などの日本が獲得した利権の擁護がふくまれ、それは諸外国もしぶしぶ認めざるを得ないもので、原自身も手放す気は毛頭なかった。(第1次世界大戦終結までは、戦争による領土の変更、租借権の譲渡・設定は正当とされていた)だが、第5項には中国中央政府に日本人の政治、財政、軍事の顧問を招聘することや、地方警察の日中合同、兵器の日本からの輸入もしくは日中合弁の兵器工場の設立、さらには中華民国の領地内での未着工の鉄道路線の敷設権(つまりは第2、第3の南満州鉄道)など、日本による中国の属国化と解される内容が盛り込まれていた。これは国際的な日本の信用を貶め、日本への疑心と警戒を抱かせ、糾弾させるに十分な内容だった。これを中国政府があっさり呑むことは考えられず、実現には強制力をともなうことは明らかであったからだ。当然、中国の官民問わずの怒りを起こしてしまい「日貨排斥運動」(不買運動)が広がった。
  山縣は当時元老の地位にあり、伊藤博文亡き後の最高権力者であった。1916年には大隈重信の後継首相に寺内正毅を奏薦した。寺内内閣は1917年「段援政策」を実施。これは南北に分裂状態にあった中国政府の北方派の実力者の段キ瑞に肩入れして、日本の影響下であわよくば中国全土の統一をはかろうと画策したもので、借款や武器援助が主だった。南方派の孫文その他、中国全土においては軍閥が割拠していて、それらの勢力を軍事的に駆逐しようとするものだった。だが段が失脚することによって政策は破綻し、投入した援助金は回収されず、ドブに捨てた結果になった。<ことに西原借款とよばれる北方政府への事実上の財政援助は、合計一億七七〇〇万円(当時の国家予算の約二割)の膨大な額にのぼった。(川田)>山縣は、あくまでも野望としてではあるが、中国を支配下に置くという前提で中国との提携関係を築いて欧米列強に対抗しようとした。そこまで実現せずとも、日本の権益拡大を意図したのだ。
  1917年にはシベリア出兵問題ももちあがった。ロシア革命後に英仏がアメリカと日本にたいしてロシア極東部への出兵を打診してきた。ボルシェビキ革命政府への干渉の狙いがあった。原敬は野党党首として政府の「臨時外交調査会」に参加していたが、これに反対し、結局は見送られた。だが翌年アメリカからの要請に応じて出兵を開始。アメリカはウラジオストック限定での同数の出兵を提議したが、日本軍は独断で増派し、バイカル東部にまで範囲を広げ<結局シベリア出兵関係の総派遣兵力は(略)七万二〇〇〇人に達した。(川田)>陸軍の一部(田中義一参謀次長)にはシベリアに新日政権を樹立しようとする意図もあったという。
  第一次大戦前後のこれら日本の外交・軍事の一連の動きを眺めると領土と権益拡大の野望が諸外国に丸わかりで、当然のように強い警戒心をもたれ、悪評を買ったようだ。今日の歴史の「解答」を知っているわたしたちには当時の日本や陸軍が傲慢で、いくら真面目であったとしても身の程知らずであったと見ざるをえない。<このように、対独参戦、対華二一カ条要求、日露協約の消滅、援段政策、シベリア全面出兵などによって、ドイツ、中国、アメリカ、イギリス、ソヴィエト・ロシアなどとの関係が悪化。日本は、実質的にほとんど国際的孤立状態におちいっていく。(川田)>
  山縣有朋は英米にたいする警戒心が主で、日露協約が消滅しても当面は自主独立方針で、アメリカとの本格的な提携は考えなかったようだが、原敬は真逆だった。後の浜口雄幸も英米重視論者で、ともに国際協調路線を歩もうとした。



関連記事
スポンサーサイト
    14:23 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
Comment







(編集・削除用)


管理者にだけ表示を許可
Trackback
http://oceanic.blog70.fc2.com/tb.php/706-56babed6
プロフィール

seha

Author:seha
FC2ブログへようこそ!

カレンダー(月別)
03 ≪│2017/04│≫ 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
最新の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
月別アーカイブ
全ての記事を表示する
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
ブロとも申請フォーム
ブロとも一覧
ブログ内検索
RSSフィード
リンク