大洋ボート

吉村昭「海軍甲事件」「八人の戦犯」「シンデモラッパヲ」

  昭和十八年四月十八日、連合艦隊司令長官山本五十六大将ら幕僚の搭乗した飛行機が米軍機に襲撃され、山本らは戦死した。場所はブーゲンビル島上空で、前線の将兵を激励するためにラバウルを出発した後のことで、これが「甲事件」とのちに呼ばれることになった。前に紹介した「乙事件」と偶然にも一致する点がある。幕僚が二機にわかれて搭乗しながら、長官の機は島に墜落して全員死亡するものの、参謀長宇垣纏(まとめ)中将の乗った機は海上に不時着し、うち三名が島に泳ぎ着いて生き延びた。長官が死亡し、参謀長が生存を保持したということが両事件で共通するのだ。だがこれはよく知られた話であるらしい。吉村昭の書きたいことは次の二点。
  山本らの二機と護衛の零式戦闘機六機は十六機のP38という戦闘機に襲撃されたが、それほどの機数のアメリカ軍機が飛行することは直近の日々では無かった。そこで長官一行の飛行を関係各方面に伝える暗号電文が解読されたのではないかとの疑念が中央(本土)や現地司令部に生じた。いやそうではなく偶然に過ぎないとの反対意見もあり、同じ形式の暗号電文を放ち、そこに書かれたとおりの飛行隊を編成して島嶼間を飛行した。だがアメリカ軍機の襲撃はなかった。その結果から暗号は見破られてはいないと判断したのだが、アメリカ軍のほうが上手で、暗号解読を終えたもののそれを察知されないために故意に襲撃を見送ったということである。「乙事件」における作戦文書の盗難も併せると、日本軍の情報保持の甘さを思わずにはいられない。もう一点は零式戦闘機の飛行士六人の長官を護れなかったという重い沈鬱の気分。こちらのほうが重要だろう。<かれらは、連日のように出撃に参加した。眼前で長官機の撃墜される光景をみたかれらは敵機と交戦して一機でも多く撃墜し、長官の後を追って死ぬことを願うような空気が濃く広がっていた。>と吉村は記す。
  この短編は当の零戦パイロットのたったひとりの生き残りの柳谷某氏への取材が中心になっている。右手の義手を操って車を運転するさまが最初に描写される。飛行記録のノートは保持していたが、戦争期のことを語り始めたのは昭和四〇年頃という。それまでは黙っていた。<「余り名誉なことでもないし、自分からすすんで表面に出るのもいやですから……」>淡々とした口吻がかえって、読者のうかがい知れない暗部を覗かせられた気になる。
  「八人の戦犯」は終戦直後、陸軍の軍法会議にかけられて判決がくだされ、連合国側に引き渡された人々の話。BC級戦犯といわれる人々はすべてが連合国によって拘束され、裁判されたのではなかったという意外性がある。<(略)吾等ノ俘虜ヲ虐待セルモノヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ>と記されたポツダム宣言第十項だが、裁判の運営主体が日米いずれかは明記されていない。そこで日本側は大急ぎで自分たちでこれをやってしまって、あわよくば既成事実化してしまおうとしたようだ。連合軍側は日本側の申し出を却下したが、それまでの一か月ほどの短い期間に日本軍が独自に軍法会議をひらいて判決をくだしていた。吉村昭が目をとおした資料によると八名の被告のうち五名が死刑、三名が有期刑となっている。吉村の配慮で実名は伏せられている。
  くわしく取り上げられるのはA氏とC氏。A氏は昭和十九年十月当時台湾軍司令部情報班長という身分で大尉。捕虜のアメリカ人パイロットを部下二人とともに取り調べに当った際、拷問に相当する行為があったとして禁錮十カ月の判決を受けた。C氏が訴追された事件は終戦後の八月二十二日仏印(フランス領インドシナ)で起きている。抗日ゲリラに加担したとしてフランス人神父と獄中にあった囚人計二人を処刑したとされた。C氏の当時の身分は「信一三〇三部隊第七中隊長」で且つ「クラチェ地区警備隊長」で階級は中尉だった。ところが、その日の早朝転属命令によってC氏はプノンペンに移動した後、夜になってC氏の部下の補助憲兵N軍曹が二人を射殺してしまう。上官の指示があるまでは処分保留のままにしておくように後任の指揮官に引き継いだにもかかわらずだ。C氏は現地の軍法会議で殺人罪に問われ、懲役十三年の判決を受ける。だが、裁判における一事不再理の原則もものかわ、戦犯裁判が連合軍側によって開始されると同じ事件がふたたび蒸し返されて、A氏には重労働三十年、C氏には終身刑の判決がくだる。軍法会議の判決よりもきびしく、A氏における落差には驚かざるをえない。二人はともに巣鴨プリズンに収容されたのち減刑や特赦によってA氏は昭和三十一年、C氏は二十八年、それぞれ出所となる。
  立派な先人をもったものだとわたしが感心したのは、二人がともに部下の罪を引き受けたことだ。これに類する軍人・兵の自己犠牲的行為はめずらしくもなかったのではないか。A氏が「死亡した」として虚偽の供述によって逃亡が可能になった二人の部下のうちの一人とは戦後も交流がある。また同じ台湾の軍事法廷で裁かれたB氏とも同様で、うつくしいと思った。不可解だったのは、仏印においては終戦による停戦がすみやかに行われなかったことで、台湾と対蹠的だ。すでにポツダム宣言受諾の海外放送に接していた仏印の司令部は、大本営に問い合わせたところ、参謀総長名で「デマ」との返電があった。八月十五日直前の日付で、当時の参謀総長は秘密主義者といわれた梅津美治郎であったから、そういう返答だったのか。国策の杓子定規によって仏印の戦闘行為はつづけられたのであり、幾多の犠牲者を生み出した。
  「シンデモラッパヲ」は日清戦争の時代の話。明治二十七年(1984)朝鮮半島成歓の戦闘において、銃弾を胸に受け血まみれになりながらも文字通りラッパを吹きつづけたという兵士がいた。名は白神源次郎で、英雄として全国的に有名になり、歌や詩がつくられた。出身地の岡山県の村では顕彰のため数年後に記念碑がつくられもした。だが翌年の戦争終結後まもなくして、この壮絶な最期を遂げたラッパ卒(一等卒)は白神ではなく木口小平という別人であることが公的に明らかになった。二人とも岡山県出身で、かつラッパ卒で同じ戦場で戦死したので誤認されたようだ。だが、白神の村の人は顕彰の行事を止めることはしなかった。木口の出身村でも同じように顕彰を行い、記念碑も建立された。
  顕彰ということだが、追悼という気持ちの姿勢でもいいのだ。人々のそういう行為は自分たちにとっては誠実さがこめられたものとして刻み込まれたのであり、それを大切にするならば中止することもないのだろう。白神氏が村でたった一人の戦死者であることは変わりがないのだから。死を悼むという営為は繰りかえすならばしだいに心は穏やかさを定着させ、やがては忘れ去られる日も訪れるかもしれないが、それでいいのだ。だが時代の進行は生々しい。以後の日露、日中、太平洋戦争において、白神源次郎の村の戦死者は激増したということである。
……
  「海軍乙事件」「海軍甲事件」「シンデモラッパヲ」が収録された単行本『海軍乙事件』は1976年7月」発表(文芸春秋社)「八人の戦犯」の初出は「文芸春秋」1979年6月号。巻末メモによる。


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