大洋ボート

吉村昭『大本営が震えた日』

  太平洋戦争がはじまったのは、日本時間の昭和16年12月8日。空母6隻を主要とする大規模編成の連合艦隊がハワイ近辺に到達し、オアフ島真珠湾に停泊中の戦艦群に航空機による攻撃をくわえ大損害をあたえた。またイギリス領マレー半島にも同時に上陸作戦が開始された。東と南西方面におよぶ、日本軍としては前代未聞の大掛かりな作戦であり、しかも望外ともいえるはなばなしい戦果をえられた。緒戦の大勝利である。だが吉村昭がこの小説で滲ませようとするのは、この大規模作戦の大ばくち的な無謀さであり、情報漏えいは大きい確率で避けられなかったということだ。にもかかわらず、アメリカ・イギリスは日本軍の動きを警戒しながらも、その動きを正確には把握することができず、結果的には効果的な迎撃態勢をとることができなかった。何故か、油断があっただろう。たとえば、真珠湾は水深が浅く、航空機による魚雷攻撃が不可能と決め込んでいたのだが、日本軍は訓練によってそれを可能にしたのは有名な話だ。またイギリスはドイツとの戦闘の真っ最中で、思い切った兵力投入をアジアに向けてできなかったということがある。だがそれらにもましてアメリカ(イギリスも同じと思われる)の戦争方針の大局である。小説のネタばらしになってしまうが、歴史的事実だから記しておかなければならない。
  「米国ハ日本側カラ先ニ軍事行動ヲ起コサセルコトヲ希望シテイル」末尾近くに紹介される、アメリカ軍のスターク作戦部長という人から、アジア、太平洋両艦隊司令長官宛てに発せられた電報の一節だ。「日本軍ノ侵略行為ガ数日内ニ予期サレル」とも記される。吉村昭は「アメリカが、戦争挑発者という汚名を避けようとしたと同時に、反戦気風のあるアメリカ国民に自発的に銃をとらせようと企てたからであった。」と解説する。攻撃の直前にアメリカに届けられるはずだった宣戦布告が遅れてしまったことも、アメリカ国民の反日感情をさらに増幅させたことも知られている。
  わたしたちは、このようなアメリカの戦争方針を今日仄聞することができるが、指導的立場にある日本人は果たして知悉していたのか。ましてや、末端の兵や民間人は知ることができなかっただろう。日本の不敗神話を信じ、ついていくことしか選択の余地がなかったのか。この小説では、12月8日の大作戦に向けての機密保持のためまた作戦実行のため文字通りの命がけの戦いを強いられる場面が、吉村昭らしく取材にもとづいた事実がつらねられて進行する。個人はその力では国家の方針を覆すことなんてできない。情報を幅広く手に入れられなければ批判することも思い及ばない。必死に国家方針に食らいついて責務に忠実であることを強いられる。読んでいるうちに悲痛さが少し湧き上がってくるのは、そういう「個人」が豆粒のように小さく見えてしまうことだ。未来や事実を個人単位では知ることができないが、国家全体がそれを知れば、個人にもやがてそれがもたらされるが、そういう時代ではなかった。
  冒頭からかなりの頁が割かれるのが、民間航空機「上海号」事件。広東到着予定の時刻を過ぎても機は姿をあらわさず、航空隊は探索にとりかかる。機には暗号ではなく、平文で作成された開戦に関する命令書を持参した某少佐が搭乗している。それが敵の手に渡れば作戦全体に重大な障害となることは明らかで、軍指導者をあわてさせる。機は中国軍支配地域の山岳地帯で不時着の状態で発見されるが、はたして機に生存者はいるか、書類はどうなっているのかは不明。そこで軍は機の爆砕命令を出したり、地上部隊を機に接近させたりする……。
  海南島の三津から出港した大規模な輸送船団のために航空機が哨戒と護衛にあたるが、航空距離の短い陸軍の一式戦闘機(隼)が基地に帰還できずに何機も墜落してしまう。また作戦決行を時間厳守のもと行うために、波浪の激しさにかかわらず上陸用舟艇を輸送船から海面に降ろす前後でも、戦車などを誤って沈めたりし、人身事故も多発する。本格的な戦いに遭遇する前に命を落としてしまうという例だ。さらに開戦前日にあたる7日には、航空隊が哨戒中のイギリス軍の飛行艇に遭遇し、撃墜してしまうということも起きる。マレー国境近くのタイ領に上陸するのも強引そのもの。開戦の数時間前にタイ首相にそれを告げて、タイ領内の移動をもとめるありさま。
  わたしが思いつくまま印象に残った場面をあげてみた。読む人によっては、当然のように別の場面を紹介するだろう。

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