大洋ボート

松本清張『Dの複合』

  売れない作家伊勢忠隆が「草枕」という小さな雑誌の依頼を受けて、浦島・羽衣伝説にゆかりのある場所を訪ね行くエッセイを連載することになる。熱心に勧めたのは雑誌の編集係の浜中三夫で、民俗学の知識豊富なうえ仕事熱心で、旅行のコースも彼が企画して案内をかねて同行する。交通費も雑誌社もちで原稿料も悪くないから、伊瀬にとっては渡りに舟といったところだ。浜中は強引さをときどき見せ伊勢を閉口させることもあるが、そこはせっかく舞い込んできた仕事だから、ほとんど彼の方針どおりに動く。だが最初の訪問先から早くも不穏さが立ち上がってくる。殺人事件らしきものに遭遇するのだ。兵庫県北部の網野町というところにある網野神社近くの林に死体が埋まっているという投書があって、警察がちょうどそこを捜査する最中に出くわすことになる。結局死体はそのときは発見されなかったが、後日「第二海竜丸」という古い木札がそこから出てきたりして不可解さをつのらせ、白骨死体もやがて発見される。浜中はその出来事を連載文にも挿入するよう伊勢に要請し、伝説にまつわる辺鄙な場所をめぐる紀行文というコンセプトには不釣り合いと思って渋ったが、結局浜中の要請通りに原稿を書き上げる。そしてこれが結構読者の反響を呼ぶことになる。
  浦島・羽衣にくわえ補陀落国伝説というものも後半に出てきて、頁が随分と割かれる。それら古伝説にまつわる神社やゆかりの地が全国に存在しているというが、わたしには興味はともかくも応答するだけの知識がないので、例をあげて感想なりを書くことができない。ミステリーとしてしか読むことしかできないが、ただそれら伝説は、ロマンというよりも現実に起こりうる「淹留・抑留」として読み換えられて、ヒントとなってストーリーの中心に合流してくる。読者(この小説の)からすれば、伊勢は何者かに操られて雑誌連載をものにしているということが少しずつ見えてくる。はたしてそれが浜中なのか、それともその上司なのか、また別の人物なのかということだ。伊勢を操る人物が即網野神社にまつわる事件の犯人という可能性もある。また彼の周辺の人物がつぎつぎと被害に遭う第二、第三の殺人も起こるが、それが彼の雑誌掲載の記事の影響によるものらしいこと、犯人をあわてさせた、危機意識を植え付けさせた結果だということも朧気ながら見えてくる。勿論、伊勢自身もそういうことをうすうすは感じつづけるが、推理でもって鮮やかに解決まで自分の力でたどりつくということはない。読者に錯覚をあらかじめ与えたうえで、最後にそれをひっくり返すという類いの方法も採用されない。松本清張らしく、伊勢と浜中を全国の関連地に飛びまわらせる展開となる。つまりは、松本は随分と伊勢と読者を遠まわりさせる。読み物として長すぎるきらいがあると書いておこう。
    だが読者にとっては遠まわりさせられることに苦笑混じりに楽しみを抱かせられないこともない。最初の旅行コースがのちに北緯35度と東経135度の交差する地点付近に集中していることが明らかにされ、また関東、東海など、事件に関係する地が同じく北緯35度につらなることも発見される。ここから読者がただちに犯人にたどり着けることはないが、一種スケールの大きさは感じさせる。また中程に不意打ちのように登場する坂口みま子という「計算狂」の女性も印象的だ。伊勢のファンを自称して彼の宅に訪ねて来て、1回目と2回目の旅行距離が350キロでまったく同じだと指摘する。35という数字が前掲の経緯度の数字ともぴたり一致するのだが、坂口みま子自身はその経緯度の数字をどうやら知らないらしい。彼女の語ることが事件にどれほどの関係性をもつのか、伊勢はもとより、読者もわけのわからなさに誘われて戸惑いを抱くが、長い読み物にはこんな風に目先をにわかに変えることも効果的なのだろう。
  伊勢を操る人物(「重要参考人」としておこう、殺人犯の可能性もある)には多くの協力者がいて、これらの人々の乱れない行動が重要参考人の企みにとっては不可欠なのだが、はたして個人単位でここまで実現できるのかという疑問はのこる。



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