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古川隆久『昭和天皇』(1)

  現代史家によって昭和天皇の実像が彫琢される。著者は天皇にたいする一方的な排斥やまた真逆の擁護の観点からできるだけとおざかろうとし、おびただしい資料を駆使して客観性の定着に腐心する。だが天皇への評価や感想がまるでないのでもない。彼が平和主義者であり国際協調主義者であったことを持ち上げながらも、その追求の弱さを指摘することも忘れない。またその孤独が浮かび上がってくるし、日米戦争開始から敗戦までの期間の諦めや精彩を欠いた姿も見えてくる気がした。
  戦前戦中においては、天皇は一般国民によっては「現人神」であり且つ国家の最高指導者と見られていたのだから、その時代において国民を戦争に駆り立てた人物として見做されたことは無理ないどころか一般的だったといえるだろう。当然外国からも日本の「好戦性」の中心人物として見做されて、戦後は処刑論さえ台頭した。だがこれらは政治的な情報閉鎖のせいだ。天皇の地の声は一般国民には届けられることはなく、逆に天皇絶対主義のイデオロギーが戦争遂行の国策にともなって作られた。勿論、開戦の詔勅は天皇の名においてなされたのだから彼のいわゆる戦争責任は免れるものではないのだが。ともあれ、著者古川隆久によると昭和天皇の学術研究が本格的に始まったのは1970年以降という。それだけの時間的空白を挟まねば公開資料の充実が果たされなかった。
  創造され構築されるべき天皇像は宮廷によってすでに明治期から構想されたようで、帝王学とも呼ばれる教育によって昭和天皇にも結実させようとした。君主たる者は人格が高潔であらねばならない、質実剛健を旨とし贅沢を戒めねばならない、公平で個人的な好みで人を分け隔てしてはならない、知識豊富でなければならない、絶えず民の暮らしに気を配らねばならない、というような人物像が理想とされた。言葉はちがうが、わたしが読みなおせば記したようなことになる。主に儒教による「徳治主義」と呼ばれ、君主が高潔で立派であれば国は安寧するという見方だろう。これは、天皇という位そのものが、あらかじめ最高権力者であり、天照大神から連綿とつづく国家の最高位の神格者であるという記紀神話やそれを土台とした明治憲法の規定に逆らうものではないが、それらのみに安住して事足りるとするのではない。つまり開かずの扉の向こうに鎮座するという人物像ではない。存在だけを強固な影のように示せばよしとするのではなかった。一般民にできるだけ天皇の実像を公開することによってその威厳と権威を、また「人気」といわれる親しみを君主として広く定着させようとする意図であった。国民(当時は臣民や君民とも呼ばれた)の支持がないかぎり天皇制は存続が不安定になるという見方であった。もとよりそれを実現たらしめるだけの人格と知性を天皇が備えていなければならないという思いは天皇自身と天皇周辺に強くあったといわなければならない。
  昭和天皇は1901年(明治34)に生まれ、08年、学習院初等科に入学、1914年から21年までは東宮御学問所(高輪の東宮御所内に設置された)というところで勉学した。帝王学を学ばせんとする宮廷の配慮だろう。主な講義者は倫理学の杉浦重剛、「歴史関係」の白鳥庫吉、「法制経済」の清水澄(とおる)などであるという。さらに彼は21年3月から9月まで訪欧旅行に時間をさいたが、イギリスの「君臨すれども統治せず」という君主制度に共感を抱かされ、その親英的心情は生涯変わることはなかったという。たんに思想面での共感というよりも、イギリス王朝の人気と安定ぶり、さらにはイギリスという当時の第一級国家の繁栄ぶりも併せて、昭和天皇は羨望とともに幸福な気分を抱かされたのだろう。これらの学問や外遊によって昭和天皇の国際協調主義は、皇太子時代にはやくも錘をおろしたようだ。国際協調主義と御学問所における講義の関連性がこの著作だけではページがあまり割かれないため今一つ腑に落ちないが、またわたしはこれらの講義者の著作に触れる余裕もないが、天皇自身による確信がいちばんのウェイトを占め、彼の成長ぶりに接して宮廷の最側近の人たちも大いに意を強くしたのではないかと思えた。
  温室栽培という言葉が頭をよぎる。つまり、政治家や軍人など現役の政治・軍事に関わる人たちとは一線を画して、彼等との談論や進言を指しはませない場所で、彼の政治思想は彼の探求心もあって養成されたのだ。時の権力者である政治家や軍人(とりわけ後者)はみずからの政略的希望に合致する天皇像を願ったであろうが、土足で踏み荒らすようなことはできなかった。明治政府よりも皇室のほうがはるかに歴史が古いことは自明であるし、またその権威を憲法をつくったことにより計らずも政・軍担当者は認めざるをえなかったのか。宮廷の勢力もまたいたずらな政・軍の介入を勿論望まなかった。京都御所に政治的動乱から一歩離れてひっそりと伝統儀礼や文化の継承者としての役割を果たせば済むという時代ではなくなり、危機意識をにわかに持たされて、その結果やはり皇室・宮廷はその存続を第一義的に優先しようとしたのか、政治的には一歩も二歩も前に出る結果になるものの、やはりのその激動と混乱からは一線を画したかったのか、無知な筆者にはつまびらかにできない問題がいくつもある。
  「第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」「第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」「第一一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」「第一二条 天皇ハ陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム」大日本国憲法のこれらの条文を目にすると、天皇の権力は絶大で、誰にも逆らえない法制に映るが、実情はそうでもなかった。つまり軍人や政治家は自ら考え選択した政治的・軍事的方針を最善と少なくとも主観的には見做すので、天皇が反対意見を抱懐していて口に出したとしても容易には撤回しなかったし、そうしたとしても腹のなかではやはり自分の方針の妥当性を信じて疑わなかったのだ。
  満州事変(昭和6年(1931))満州国建国(昭和7年)五・一五事件(同年)国際連盟脱退(昭和8年)二・二六事件(昭和11年(1936))日独防共協定調印(同年)盧溝橋事件(昭和12年)ノモンハン事件(昭和14年(1939))第二次世界大戦(同年9月・ドイツのポーランド侵攻)日本軍北部仏印進駐、日独伊三国同盟調印(昭和15年)日米太平洋戦争開始(昭和16年)ポツダム宣言受諾による日本の降伏(昭和20年(1945))。
  これだけの激動と戦争の時代に昭和天皇は生きた。天皇は英米との協調を維持しようとしたので陸軍の大陸膨張に批判的であり、国際連盟脱退にも反対であったが、ことごとく押し切られた。「統治権」があるため、天皇は政府と軍の首脳に意見具申することができたが、不徹底な面もあった。古川の具体的局面での批判は筆者(わたし)の知識不足のために首肯すると受け売りになってしまうので今は書かない。言えることは、天皇側近が天皇と政・軍との激突を回避する傾向が抜きがたくあったことだ。もしも天皇が「激論」の末、押し切られることがあった場合、天皇のひいては皇室全体の威信低下を招くことが懸念されたというのだ。その恐れがあるときは、側近は、天皇を「開かずの扉」の向こうに隔離した。側近とは、宮内大臣、侍従長、侍従武官長、内大臣、元老を指し、このうち侍従武官や同長は軍からの派遣であるため、軍の意向に沿う意見具申を多く行ったようだが、それ以外の職掌の人々は天皇に概ね好意的で庇後に当ろうとした。
  1930年(昭和5)ロンドン海軍軍縮条約が締結された。日本に不利な条約で海軍は不満だったが、ときの浜口雄幸内閣は英米協調その他諸々の理由で締結を決意した。そのさいに天皇は浜口を呼び出して締結賛成の旨を述べ、浜口はそれによって気を大きくして締結への決意を最終的に固めた。(1)天皇の政府政策への具体的言及が政府の決定に影響を及ぼしたという例で、わたしは印象に残ったが、後日談ともいうべき事態が出来する。(2)ときの加藤寛治軍令部長(海軍の統帥部トップ)が天皇に二度にわたり会見を申し込むが、(3)鈴木貫太郎侍従長がこれを拒む、という動きである。加藤が何故浜口首相ではなく(浜口の加藤への説明のさいには加藤は反論しなかったと古川は記す)天皇に直截意見表明をしようとしたのかは不明だが、単なる抗議でなければあるいは天皇をみずからの手で動かそうとした、意見を変えさせようとしたのではないかという疑念が湧かないのでもない。(3)はそれを危惧した鈴木の行動か。古川はこの面会拒否を鈴木の独断であり「越権行為」と断定する。武官の皇室との面会の段取りは武官長がとりきめる規則になっていた。天皇側近のこの時代の天皇制内部からの維持存続の強引なまでの手法を見せられた気がした。(もっとも海軍内にも条約賛成派は多数いた)この条約問題では、国務側(政府)が軍部を押し切ったことになる。古川は天皇や浜口首相、それに元老西園寺の判断は正しかったと記すが、同時にのちに政府対軍の紛糾の種となる統帥権干犯問題が浮上してくるという指摘も忘れてはならないだろう。内閣が軍の方針に嘴を入れるな、という軍の主張で、帝国憲法第一一条、一二条を盾にする。大まかな国防計画は統帥部、予算措置は国務のそれぞれの専権事項と、帝国憲法では読めるようだが、軍縮条約締結がどちらの専権に属するのかが意見対立の根幹であった。統帥の関わりなしに決せられたことに海軍としては大いに不満だったのだ。


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