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吉見直人『終戦史 なぜ決断できなかったのか』

  大変な労作である。著者はジャーナリストで、NHKのテレビ番組『終戦 なぜ早く決められなかったのか』(2012年8月15日放送)の制作にかかわった。その際に土台にした資料に、その後の調査と探求によって新たに得られた資料をさらに加えてこの著書はできあがった。終戦時に政府中枢を担った重臣や彼等に仕えた人々の当時の日誌やメモ、戦後の回想録、さらには近年の現代史研究者の著作やらの膨大な引用がある。さらには各国大使館・領事館の大使・領事・駐在武官からの日本本国への電報と、その暗号電文を解読したイギリス諜報機関の現在公開された資料もある。(日本側が受け取ったであろう電報は軍部によって焼却処分されたものも多数あるという)
  著者の問題意識は題名やテレビ番組題名からもわかるように、何故当時の日本は戦争遂行能力がとっくに喪われているにもかかわらず、ずるずると戦争を昭和20年(1945)8月までつづけたのか、ということで、わたしも同じ思いを抱く一人である。20年6月から8月までの3か月間で日本人死者の総形は60万人であるそうで、全期間(日中戦争も含めて)の死者数が300万人を超えるのであるから、当の3か月間の人命喪失のおびただしさがわかろうというものだ。ぞっとするしかない。当たり前だが、せめて沖縄がアメリカ軍に占領された直後に戦争終結を為しえていればそれら人命は喪われることはなかったのだ。
  戦争終結の研究は19年7月に(陸軍)参謀総長に就いた梅津美治郎(大将)のもとで始められたが、後に外務大臣となる東郷茂徳も腹案を練っていたといい、この二人が終戦工作に携わった主要人物としてとりあげられる。だが、19年末にフィリピンを喪い、20年に硫黄島、沖縄を喪っても依然として政府中枢の方針は表向きは「継戦」であった。まもなくそれは「一撃和平論」なるものに収束されていき政府と軍の上層部で公然の秘密となっていく。つまり敵(アメリカ)に打撃を与えて戦局を有利にしたうえで講和に持ち込むという構想であった。さらに東郷茂徳は当時中立国であったソ連の仲介をつうじての和平構想にもとづいた外交を担わされることになる。現在の広く知れ渡っている知識や常識からすると、愚かとしか言いようがない。戦力の著しい劣化は「一撃」など望むべくもなく、また後に参戦してくるソ連に和平を依頼するなど見当違いもはなはだしいのだが、これは軍のかなりの部分がソ連という国にたいして好意的な見方をしていたからだ。また連合国側の降伏勧告(ポツダム宣言)の受諾が遅れたのは日本側が「国体護持」(天皇制の維持存続)に固執したからで、その意味で無条件降伏ではなく有条件にこぎつけられた。雑然とした書きぶりになったが。
  終戦工作を担う組織が一本化されず、司令塔が不在だったとの吉見直人の批判は全く正しい。一つには、情報の共有がなされなかった。在外公館からの情報にしても武官からのそれは軍特有の秘密主義で国務側(主に外相や首相)に積極的には伝達されなかった。同じく、大使・領事の情報も軍には伝えられなかったようだ。例えば、有名とされる駐スウェーデン陸軍武官・小野寺信大佐の昭和20年2月の電文「ソ連はドイツ降伏より3か月を準備期間として、対日参戦する」があるが、この情報は軍においてはともかく外務省側には伝えられなかった可能性があると吉見は説く。もっともソ連の参戦への否定的な観測の電文も伝えられたので、小野寺情報が日本側で確定されたのではないらしい。また「一撃和平論」や「本土決戦」を実現しうる戦力が底をついていることを軍部は知ってはいたが、それも国務側には伝えず、東郷は「一撃和平論」をかなり遅くまで構想として抱いていて、外交の柱にしていた。一方、梅津という人は秘密主義者として徹底していた。直属の部下さえ、何を考えているのか把握しがたい人柄で、その点で部下には不評だった。そのかわりというのか、天皇への「輔弼(ほひつ)」には忠実で、軍や戦況の実情を昭和天皇に丁寧に説明することを怠らなかった。昭和天皇が「一撃和平論」からしだいに後退し、ポツダム宣言受諾に傾くのは梅津のこの輔弼による情報が大きく作用したという。しかし梅津の終戦工作が天皇への輔弼が主だったとすれば、随分と迂遠だといわざるをえない。
  吉見の批判のもう一つは、司令塔を担いうる傑出した人物が不在だったということで、これは日本的な組織の在り方にも深くかかわるという。「継戦」「一撃和平論」、これが軍や国務の支配的な思想であった。それがたてまえでありながら本音は和平であり、もしくは降伏であったかもしれない。だが戦闘意欲を挫くという心配もあって誰も言い出せなかった。戦闘意欲の旺盛さもまた敵をひるませる大きな要素とみなされたからだ。たてまえや「空気」と呼ばれる全体性、これがゆっくりと動くのを重臣が担当の役割をしこしことこなしながら仰ぎ見るように待つ、これが当時の政府中枢組織のありようだった。(海軍大臣の米内光政がわずかに降伏を口に出したことがあったそうだが、これも米内の「根回し」不足で、かえって他の重臣の反発を食らったらしく、すぐさま引っ込められたという)梅津は「中間派」と呼ばれた。これは複数の案を内包しながら全体を見て齟齬をきたさないように気配りして、ひとつの案を意見するという方法で、彼は最後まで陸軍大臣の阿南惟幾らとともに御前会議においてポツダム宣言受諾反対派だった。軍の突き上げを防ぐためといわれる。内心においては天皇の「聖断」を期待しながらトップの会議においては反対の意見を述べるという二重性。もっとも梅津は梅津のやりかたで陸軍大将にまで登りつめた人で、そのやりかたが組織の「全体」と当時としてバランスが執れていれば、その手法を今さらのように変えることはできなかったのかもしれない。老獪と呼ぶにふさわしいのか。
  東郷茂徳にしても、その外交なるものは随分とゆっくりしていた。腹積もりとしては満州や朝鮮半島、樺太、北千島からの日本の撤退や割譲を覚悟していたらしいが、大胆にそれをソ連側に切り出すことはなく、外交のセオリーなのか、ソ連の真意(参戦か否か)を探るという入り口でもたもたしていた印象がある。だが東郷もまた梅津と同じくそれまでの自分なりの方法を踏襲したといえないことはないだろう。
  個人として突出せず、全体とともに動く。国体護持と引き換えに膨大な人命を犠牲にする。これが重臣の執った行動だ。「天皇は神聖ニシテ侵スヘカラス」という旧憲法体制ならば、いたしかたない面もあったのか。しかし戦争の継続は人命軽視に容易につながるとだけは記しておこう。現在が旧憲法から脱却したのはいいことだ。

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