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都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』

  著者は考古学者で、弥生時代から古墳時代終末期までの日本の全体像に迫ろうとしている。一読、二読したところ、その知識は豊富で遺跡、遺構の調査も怠らない。しかも自説のみを中心にするのではなく、同じ分野の他の人の業績や主張も多くとりいれて、たいへんよくまとめられている。門外漢の印象に過ぎないのかもしれないが。
  国家像とは政治像にちがいない。だが弥生時代と呼ばれる時期においては日本全体を統括する「国家」は存在しなかった。小さなグループが集合し団結して、みずからの生活圏を形成していた。弥生時代とは都出によるとBC1000年からAD240年までの期間である。(弥生早期BC1000年~BC800年・弥生前期BC800年~BC400年・弥生中期BC400年~BC50年・弥生後期BC50年~AD180年・弥生終末期AD180年~AD240年)このなかの終末期が「魏志倭人伝」に記された卑弥呼を女王とした邪馬台国の時代にあたる。つづく古墳時代は6世紀末までとされる。仏教伝来による仏寺の建立が盛んになって古墳にとって替わった。その長い過程とは、小さな生活グループどうしが戦争をし、また和合して、しだいに大きな政治グループを形成し、大きな地域ブロックの首長が誕生し墳墓(古墳)を建てるまでの気が遠くなるような期間である。墳墓はしだいに巨大化するが、それが即倭としての統一にはつながらない。
  わたしが興味深かったのは弥生中期につくられたといわれる環濠集落だ。吉野ケ里遺跡や大阪府池上曽根遺跡がそれにあたる。環濠とは深さ2~3メートルもある人口の壕で、外的(獣や人間)からの防護のために設えられた。環濠のなかには「リーダー」の住居のほか、穀物を貯蔵する倉庫であろう高床式建物や、青銅器、ガラス製品を製造する工房、さらには「リーダー」に仕える一般農民の竪穴式住居もある。(高床式建物は神殿とも考えられるという)池上曽根遺跡では人口約500人と推定される。環濠集落の外部にも一般農民の住居は散在していた。さて墓のことだが、共同墓地として環濠の外部に存在して「リーダー」なる人の墓もそこに設営されたのだが、やがて時代の移り変わりによって「リーダー」の墓はそこから離脱して単独に造られることになり、著者の言葉によると「首長」へと権威と権力を高め、その地位を確立することになる。また同じ類いの志向と思われるが、「リーダー」の住居も環濠集落から離れて、単独になる。同じように壕に囲まれ、家来も高床式建物も備わっているが「集落」ではなくなるのだ。わたしの感想としては、特に墓の件に関しては、人間の平等志向とは微弱にすぎないのか、権力にあこがれ、すがりつき、その庇護をもとめようとするものなのかということだ。戦争状態が常態であれば、どうしても結集と統率が必要なことはわかるが。
  始点ということについて想ってみる。小さなグループのなかで才知と勇猛を兼ね備えた人が「リーダー」として選ばれる。これは自然なことで、次には「リーダー」が子供のなかから次代のそれにふさわしい人を選んでノウハウを伝授する。その過程がかさねられるとやがてその血統が祀り上げられる。死去した先代、先々代の「リーダー」の功績がしのばれるが、やがてその物語の具体性は忘れられて、血統の超越性が喧伝されることになる。死者の威力が現世にまで十二分に及ぶにちがいないという願いと確信で、先祖供養と崇拝が宗教的気分をしだいに醸成する。勿論、墳墓が大きければ大きいほど、現世の「首長」の力を誇示する視覚的効果は絶大であろう。
  戦争に勝利するためには武器の優秀さがもとめられる。それを如実にあらわした発掘調査が紹介されている。佐原真という人が香川県の紫雲出山(しうでやま)遺跡において多数の石鏃(石のやじり)を調査したところ、縄文時代から弥生前期までの期間では2グラム未満がほとんどなのに。弥生中期以降は2~10グラムのものが激増する。これは、イノシシやシカを狩るには2グラム以下で十分だが、人を殺傷するためには鋭さと重さを加えた矢が必要だったためと推論する。弥生中期以降は戦争が頻発した時代だったのか。水稲耕作の普及によって、土地や水をめぐる争いが不可避だったのか。
  弥生・古墳時代においてはその文献資料があまりに少ない。「魏志倭人伝」や7世紀に編纂された「記紀」などしかなく、どこまで事実が書かれているかもわからない。都出が「魏志倭人伝」から引用し、古墳時代の政情と結び付けた個所がある。「その国、もと男子をもって王となし、住(とど)まること七,八十年。倭国が乱れ、たがいに攻伐すること歴年、そこで(有力首長たちが)共に一女子を立てて王とした。卑弥呼という名である」(孫引き)つまりは日本でいくつかに分立していたブロックの首長が停戦をして、協議した結果、女王卑弥呼が誕生した。逆から言うと卑弥呼が戦争によって倭の全域を制圧・支配した結果ではない、つまりはゆるやかな首長連合体としての国家であった、国家が戸籍などを通じて個人を直接に支配・監視するのではなく、有力首長にそういう仕事を委ねた政治体制であったとする。それに結び付けて、都出は墳墓の形体が、円墳、方墳、前方後方墳、前方後円墳などさまざまな固有性を保ったまま5世紀後半までつづいたと指摘する。墳形とは長い時間をかけて微妙に変化していくものでありながら、固有の先祖をしのぶ祭祀の場所であるからおのずから保守的になる。その形体の外部からのいたずらな変更をきらう文化イデオロギーだとする。わたしの知識では、これをどうこう言うことはできないが、心に響いてくる主張にちがいない。
  東海地方に多く分布する前方後方墳を、他の墳形を伝統的に維持し造営する勢力とは異なる有力首長グループの造営と都出は見る。だが後方墳は「五世紀初頭以降急速に衰退」する。やがて雄略天皇が「中央政権」を樹立する五世紀後半の時代が訪れる。大和政権の文化イデオロギーである前方後円墳の造営が最大の地理的範囲にまでおよぶ。北は岩手県の角塚古墳から南は鹿児島県大隅の塚崎古墳群にまで。
  わたしのこの著作からの紹介はここまで。長年の論争のタネになっている邪馬台国の位置や、三角縁神獣鏡と呼ばれる鏡にまつわる謎、朝鮮半島との外交関係にも触れられるが、知識がなく、受け売りになりかねないからだ。だが、逐一の遺跡の新発見の興奮にとどまることなく、それらを著者の手綱さばきでまとめあげ、系統立てて、時代の移り変わりの全体像を提示することに成功していると思われる。山の表面はつぶさには見られないが、山を少しずつ動かしていく骨格や力のようなものが透視されるかのようだ。勿論、そこには文字や名前によって特定されない多くの人々が参画している。


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