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三島由紀夫『金閣寺』

  現在の金閣寺は再建されたもので、旧金閣は昭和25年当の寺の青年僧によって放火され焼失した。三島由紀夫がその事件に触発されて書いたのが『金閣寺』である。もっとも犯人の動機や心情を忠実になぞったのではなく、三島なりの世界観を以て換骨奪胎して、作品として完成させたものである。結末はともあれ、のちに犯罪者となる主人公の変質者的世界観と行動に三島の思想の大部分が投影されている。変質者になりおおせることで作家はかえって自由になり、おのれの思想を存分に羽搏かせて、自分のことのように主人公を行動に突き動かさせる。現実に起こった事件を土台にしながらも、その行動を支えうながす思想背景には、三島由紀夫という人のそれまでの作品にはない新たに発掘した深刻さと真実味が十二分に彫琢されていると見た。それとともに、三島の最期を思い浮かべるためか、行動への並々でないあこがれと執着が書かれているようにも思えた。 
  主人公は舞鶴郊外の寺の息子として生まれた。父は金閣寺の住職と同じ寺で同時期に修業した旧友であり、父のその縁故でやがて主人公は金閣寺の僧となる。中学校時代のことで戦争の時代だ。子供のころから父は主人公に金閣ほどこの世に美しいものはないと語り、まだそのころには目にしたこともない金閣を父の言葉どおり、いやそれ以上に主人公はその美しさにあこがれを頑ななほど抱きつづけた。また彼は吃りであり、仲間からからかわれることが多く、コンプレックスを抱いていた。しかし金閣寺で修業し、学業にも真面目に取り組めばやがて住職になることも夢ではなかった。つまりは彼の十代以降の人生コースは周囲によって決められていた。幸運と言えたのかもしれず、あとは主人公の実践の具合にかかわっていたということになるが、彼は優等生ではなかった。吃りのためか、世界への復讐を、悪をたえず心に空想する人だった。それをただちに具体的に実行するのではなく、なかばぼんやりと過ごしたのだった。地元の中学時代に有為子(ういこ)という片思いの女性が脱走兵によって無理心中させられて死んだことも彼に影を落とす。
  父に伴われて金閣をおとずれて、主人公はそれまで写真や図版でしか知らなかった金閣をはじめて目にすることになる。それは「古い黒ずんだ小っぽけな三階建にすぎなかった」と彼を落胆させる。だが空想によって育まれ肥大化した金閣へのそれまでの思いは霧散することはなく、やがて現実の金閣を毎日のように目にし接し、精細に観察することで現実の建築そのものの金閣の美しさにふたたびうたれる。それ以上に彼の思いは金閣=美とは何か、という問題意識に没頭することになる。それは世界のあらゆるものを凌駕し、君臨するものらしい。またその頂点といえるものに如何に自分は接近し、あわよくば一体となり所有さえすることができるかと、哲学めいた空想に耽る。とりとめはない。ことあるごとに金閣の美麗を主人公は語るのだが、唯一幸福を体感できた時期があった。戦争末期のことで、多くの人々と同じように彼も死を予感し、それを怖れなかった。金閣もまた空襲によって灰塵に帰すと思われた。つまり彼と金閣は心中するのであり、その幸福を彼は疑うことを知らなかった。死という運命が彼と金閣とを同格、同心一体としたのである。
  だが敗戦により主人公は生きのこった。金閣も消失をまぬかれた。まるで一塊の建築物が永遠の生を取り戻したかのようで、両者の関係は以前のように疎遠に復した。敗戦とは「断じて解放ではなかった」と彼に言わしめるのだ。
やがて彼は仏教系の大学・大谷大学に進学し、そこで柏木という内飜足という障害を持った青年と友人になる。彼が語る哲学的独白は難解だが、要は自分と世界とは敵対していて和解は訪れない。俺は世界を愛さないし、世界も(他人も)俺を愛することは絶対にありえない。何故なら俺は内飜足であり、それがおれの存在理由であるから内飜足を他人が愛することはありえないからだ。世界と自分との対立関係は永遠に解消されない。だからといって諦めるたり引きこもったりするのではなく、世界の打倒をめざして内飜足を中心に据えて争闘を持続させなければならない。「かくて不具は不治なのだ」と。具体的には偽善的行動を得意に主人公に見せびらかす柏木である。内飜足を拝み倒すと極楽往生ができるといって老婆をたぶらかすのだ。美しい女性の同情を買うすべも知っている。この柏木の非妥協的な哲学が主人公にも伝播するようだが、むしろ主人公のなかに眠っていたものが目覚めさせられたのではないか。
  ダブルデートの場面がある。柏木と彼が知り合いになった裕福な家の令嬢とその女中の二人と主人公。やがて京都嵐山付近の亀山公園で主人公と女中は二人きりになり女中は初対面にもかかわらず彼に身をまかせる。花影に腰をおろして「永い接吻」をして彼の欲望は高じてくる。性や恋愛は人生の「関門」というべきもので誰にとってもくぐりぬけなければならないという思いを持たせるのであろう、彼もそう思う。だがその瞬間に金閣の映像(<立体>と呼んでもいい)が出現して彼を包み込んでしまうのだ。生き物のように、また自在な亡霊のように金閣が立ち現われてくる。一種彼にとっては感動そのものであり、金閣ともっとも近づいた、というよりも一体感をまったく自然にえた瞬間である。と同時に人生の「関門」は当然とおのく。幸福なのか不幸なのか。気後れしたように見える彼を娘は当然蔑む。この作品の白眉の一場面であろう。「美の永遠的な存在が、真にわれわれの人生を阻み、生を毒するのはまさにこのときである」この前後の一連の文体は、三島が「変質者」という仮面を被ることによってかえってそこに自在感を見出して、感動と冷静過ぎるほどの分析を合金ように同在化させた秀逸さがあらわれている。同質の場面がもういちどある。奇跡のように再会できた女性が感動のあまり乳房をあらわに主人公の前にさらすが、またもや金閣が顕現する。
  次に主人公が宿直の役を申し出て受け入れられ、究竟頂(くきょうちょう)と呼ばれる金閣の三階に居続ける場面。金閣を一夜なりとも独占できて喜ぶ主人公だが、摩訶不思議というか不可解というか。


  寺が寝静まる。私は金閣に一人になる。月のさし入らぬところにいると、金閣の重い豪奢な闇が私を包んでいるという思いに恍惚となった。この現実の感覚は徐々に深く私を涵し、それがそのまま幻覚のようになった。気がついたとき、亀山公園で人生から私を隔てたあの幻影の裡に、今私は如実にいるのを知った。
   私はただ孤りおり、絶対的な金閣は私を包んでいた。私が金閣を所有しているのだと云おうか、所有されているのだと云おうか。それとも稀な均衡がそこに生じて、私が金閣であり、金閣が私であるような状態が、可能になろうとしているのであろうか。


  彼は幸福と呼べる状態なのだろう。滅多に実現されない金閣との一体感の描写、まさに「稀な均衡」だからだ。冷静さを保持したままの酩酊感とでも云い換えようか。しかし一方、彼の認識にとってはそれは不幸の根源でもある。大多数の人が営むであろう人生を妨害し、隔てさせるのが金閣でありその幻影であるからだ。後には金閣は無力と虚無の根源であると主人公はさらに強く断定するにいたる。柏木に関連づければ金閣は主人公の「存在理由」とはなりえないのだ。しかしまた、彼が金閣に吸い取られてしまうような衰弱感はここにはない。「認識」がそれを予感するにせよ、認識は片隅に追いやられている。
  以前にもこの小説を読んだことがあるが、このあたりまでが山場で、最後の凶行におよぶまでの主人公の行動の描写はやや平板で退屈な印象がなくもなかった。しかし今読むと、そうともかぎらない。彼はいきなり金閣に火を着けるのではない。少しずつ彼が身を踏み外していく過程が丁寧に書かれている。学校も怠けがちになる。町で芸妓をつれた住職を発見して、その女の写真を手に入れて住職の部屋に新聞にしのばせて入れる。凶行の前の演習とでもいうか、小さな悪の試みである。また貧しさから柏木に金を借りて寺を出奔する。日本海に接する由良川の河口の風景をみるためだ。この世の果てをそこに連想するのか、自殺者が直前にえらぶ行動にも見える。わたしはこれらの一連の彼の行動から、何気ない日常から凶行にいたるまでの実際的行動や心理を三島は重要事として書き落とすまいとしたのではないかと推し測った。また彼は遊郭を訪れ、ようやくのように童貞を捨てることになるが、つまりは「関門」を通過できるが、「適応」できたという以上の満足感はえられない。じつにあっさりしたもので、主人公の、というよりも三島という人の凡俗にたいする関心の薄さを見るような気もした。
  最後の場面も締めくくりとして読ませる。侵入口をあらかじめ見つけておき、燃えやすいものを持ち運んでいざ点火しようとするときにためらいが生じる。認識の「正しさ」や決意と実行との間には深い懸隔があるということだ。ここまで準備したのだから引き返してもいいのではないかという自分を褒めてみたくもなる自省。凶行はもはや自分から離れた「剰余物」ではないか。「何故私は敢えて私でなくなろうとするのか」このあたりも実際心理であろう。
  主人公にとって金閣は、実人生を阻み阻害する「美」にちがいなかった。美が美であるがゆえに、彼はそれと一体感を得ようとして深みに嵌りこんでしまった。だが三島由紀夫自身にとって金閣寺という固有の建築物がたとえ美であるにしても、そこまでの影響を及ぼしたとは思えない。主人公における金閣は三島にとっての何らかの暗喩であるにちがいないが、それは何かは、わたしには今のところ不明だ。「美」と定義されたものがすべからく人間的感情をこばみ、跳ね返すものなのか、冷たさをもつものなのか、そうとはいえないだろう。ただ、美とは無関係にないにしろ、そういう存在がこの世に有るということだけは三島は言いたげだ。

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