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三島由紀夫『仮面の告白』

  自己を知ることはそれほど容易ではない。その根幹にあるものが欲望とするならば社会的に生きるためにそれを一時的にせよ曖昧にしたり逼塞させたりすることができる。社会と妥協して生き延びるためにはそれでこと足りる。社会的面貌の裏側で欲望をひそかに生きながらえさせその実現を空想的次元であれこれと仮定してみる。つまりは社会的身分の喪失を怖れながらも、一方で欲望にたいしての媚態を捨てきれず、未練たらたらの二股ということになるが、その場合でも欲望そのものを一から疑ってみる必要には気づかないことが多い。空想の生ぬるさが上回るからだ。あえて言葉にして見せて明確化したり断定したりする必要に迫られないからだ。言葉にしなくても欲望のなかに仮定的に近づいたり同体化したりとおざかったりわたしたちは主観的に操作することができる。
  だが文学や思想においてはそういう怠惰や妥協とはそれを素地としてふくみながらも、対極的な位置から出発しなければならない。小説なら「自己」という個別性を掘り下げて行ってその事実性をふくんだ真実味を提出してさらにできれば普遍性を遠望可能なものにしなければならない。普遍性とは読者と共有可能な思想なり姿勢なりを屹立させることだ。
  『仮面の告白』の発表は昭和二四年(1949)。主人公(三島がモデル)の男色(同性愛)者としてののっぴきならない資質と行動の「告白」となっている。さらに後半部ではそれを秘匿しての同年代の女性との「疑似恋愛」が描かれる。今でこそ同性愛など耳慣れていて世界のかぎられた地域では結婚入籍さえ認められているから、社会的非難は弱まったことになるが(それでも根強く残っている)当時としては、少なくとも文学の世界では外国作家の先例があるにせよ衝撃的であったであろう。まだまだ忌避意識の強い時代だった。生誕から書きはじめられて幼年期にははやその素質が本人に自覚される。「汚穢屋──糞尿運搬人」の不潔さや社会的下層に位置するその職業にあこがれてみたり、兵隊の集団がふりまく汗の匂いに陶然となる自分を発見する。きわめつけは父が秘蔵していた画集のなかからグイド・レーニ作「聖セバスチャンの殉教」という絵に触れて思わず勃起して,自涜にいたり射精してしまうという出来事だ。セバスチャンという人は3世紀ローマ時代のキリスト教徒で、当時禁教だったその信仰が知れわたることになって処刑された人だった。その矢が裸体に突き刺さった構図の絵は数多く存在するという。(ネットで見ることができる。
lhttp://bigakukenkyujo.jp/blog-entry-100.html)素質というものはそれをもちあわせないわたしが感じるからだろうが怖ろしい。本人のあずかり知らないところから背後からやってきて鷲掴してしまう態だ。もはや素質が固着すると宿命となってしまう。主人公は、粗野で非理性的で筋肉質の肉体をもって、しかもその肉体が社会的に何の有用性ともつながらない「過剰な生命体」を体現するかのような男性を好んだ。主人公は病弱で読書を好むので、理性的世界への理解もおおいに受け付けるにもかかわらず、男性愛の世界においては対象にはまったく理性をもとめない、またそういう自己を理性で理解するのだ。また主人公の愛は自涜の世界では一方的で嗜虐的で血を好み、あからさまな刺殺を空想することによって興奮はたかめられるとある。(後年、ヒルシュフェルトという人の本を読んで男性愛者において嗜虐性が多く実在するという指摘にあたり、安心する主人公がある)
  だが男性愛であるからには当然実在する男性にもそれは向けられ、むしろそちらのほうが深刻さが増すのかもしれない。学習院中学二年のとき近江という二,三歳年長の同級生に主人公はひとかたならず惹かれることになる。(彼は何回かの落第経験があり、しかも不良行為によって寮を追い出されたとある)腋窩の豊かな毛など主人公らの年齢にはない壮年期にさしかかる肉体を有した男で、その不良性もあって憧憬の眼差しで同級生から見られていた。生徒同士のする遊びの後、二人は腕を組んで次の授業の場所へ行くという場面がある。そのとき近江は主人公の「愛」を悟ったと彼は震えるように理解したという。「世界の果てまで、こうして歩いて行きたいと私は思った。」とある。巻末の福田恒存の解説によって気づかされたが、ここには主人公の締めつけられるような寂しさが籠められていると読むべきかもしれない。その深刻さは同性愛者でなければ体感できないのかもしれない。
  前半部の締めくくりは、夏の浜辺で近江を思いながら自涜に身を任せる場面。「後年私の内部に執拗に育」った「海の蠱惑」とある。十六歳ときにに書かれた「花ざかりの森」に既にそれは大部をさいて書かれるので、回想とみればその直前になろうか。また近江についてはたんに彼を激しく想うのみならず、彼のような人になりたいという切望が記される。彼の外見に似ることによって彼が理解でき、共通の場をつくることができる。男色者としての自己を十全に肯定するばかりではない。ナルシズム的決意でありながら、その基盤に立ってさらにそこから狭いながらも少しでも広がりを獲得しようとする。これは自涜的世界に耽溺するにとどまらない、片思いのみでもない、変更ではないか。単に回想や事実(そう受け取るとして)の叙述としてではなく、もっとも創作性が露わになった個所としてわたしは読んだ。海とは還るべき場所、瓦解に見舞われようともヒントをさずけてくれて再生をもたらしてくれる幻想性に富んだ場所、まさに憧れの行き着く場所。当場面から海についてここまでは読者は読み取れないが、書きたくなった。つまりは1949年というこの小説が書かれた時点での三島由紀夫のやわらかな決意表明として読んだ。余韻ある個所である。
  この長編は性を基軸にしている。昭和十九年、二十年と敗色が濃くなる時期に舞台が移っても、後年の三島由紀夫の諸作のようには戦争や国家間については執拗には語られない。ただ主人公は周りの多くの人と同様、やがては自分も死ぬであろうとの「ありふれた想像力」を抱いていて、それは日常と溶け合ってさして魅力を感じられないもののようであった。「海と夕焼け」で書かれたような神風への期待やらその非実現は述べられない。捨象したのだろう。
  主人公は乙種合格をえて軍隊生活に移ろうとしたものの、軍医の見立てで即日帰郷を命じられ、軍需工場へ行ったり家族と合流したりという生活に追われる。やがて友人の妹の園子という女性と知り合いになって交際が始まる。園子のなかに主人公は自らへの「愛」を発見する。それは真正直で健全で、たいへん誠意のあるものである。やがて友人から結婚を勧められることになる。三島は大正十四年(1925)生まれで昭和年号が満年齢とほぼ一致するので、十九から二十歳のときだ。結婚にしては早いが、死が視野に入っていたからだろうか。ともあれ、園子の誠実さは主人公を感動させ、たじろがさせずにはいなかった。また園子の美しさも十分に認めるところで、読者にもよく伝わる。だが主人公は根っからの男色者で、女性からは「肉感」がえられない、勃起できない。それを隠して一見通常人として生きつづけるのだが、さらにはこの年齢の青年特有の性への興味も欲張って抱いている。もしかして女性とも可能ではないかと望みを抱くのだ。だがそれを園子を相手に試すようなことは控えられる。まして園子に「告白」することも。結局、結婚話は主人公が断って園子は別の男性と結ばれるが、園子の兄との交際もあって、二人の交際は数年はつづくことになる。主人公は一見、社会的常識をわきまえた一人前の男性であり、女性の誠意を尊重する人だ。そうとしか見えないだろう。本人にとっては息苦しい、平行棒の上を歩きつづけるような危うさを孕むのだが。
  本作を発表したことで三島は自己の「虚偽」から訣別し、おおいに自由をえたのではないか。卑屈さは散見されるが、年齢と資質に伴う臆病さがなせるやむにやまれぬものである。三島本人がつまらないと思った過去は書かれていないとも思った。自己を知るとは過去を創作性をふくめて再構成することだ。そのうえで他者とのつながりをもとうとすることだ。難解さがつきまとうものの、雄々しさを充分感得できたと記しておこう。


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