大洋ボート

三島由紀夫「橋づくし」「憂国」

  満佐子(まさこ)という若い女性によって最終的に体現される喪失感、これがたいへん鮮やかに読者に染みとおってくるのが「橋づくし」。大きな不幸に見舞われるのではなく、やがて繰り返される日常の波にかき消えてしまう小さな不満ともいえ、満佐子自身も忘れ去るかもしれないのだが、読者にとっては忘れがたい。
  女性四人が陰暦八月十五日の深夜、七つの橋を渡るために浴衣姿で出かける。願掛けの一種で四人がそれぞれの願い事を胸に抱いて。簡単そうだが、はじまってからは同伴者同士で話してならない、他人に声をかけられても口をきいてはならないという掟がある。知り合いであってもなくても同じだ。芸妓の小弓は四二歳、かな子二二歳、かな子と同い年で友人の満佐子は料亭の「箱入り娘」、この三人にくわえて満佐子の家の新米女中みなが急遽メンバーになる。小弓は金、かな子は旦那が欲しいという願い。満佐子は自家の料亭に客として訪れ話したことがある俳優Rへの思慕の成就。この三人は旧知で親しいからそれぞれの願い事を知っているらしいことがうかがえる。みなの願い事については逆に三人ともわからない。「四人は東銀座の一丁目と二丁目の堺のところで、昭和通りを右に曲がった。」最初の橋に行き着く直前の地理である。わたしは埒外だが土地勘のあるひとも多いだろう。七つの橋とは渡る順番に三吉橋、築地橋、入船橋、暁橋、堺橋、備前橋で、最初の三吉橋が三又になっているので二つとして数える。渡りはじめとその終わりに両手をあわせて丁寧に橋に向かってお辞儀をしなければならない。
  願掛けにすぎないと言ってはならない。橋を渡り終えるごとに願い事に近づきつつあるという思い。また願い事それ自体が自分にとってはたしてどれほど切実であるかという自問。ひとりは腹痛が萌してきて我慢してまで歩行をつづけるべきかと悩まされる。満佐子は橋を渡りきるごとにRへの思いが募ってきてその願いの真実味にひたる。三人の願いが固有であっても、その切実さやそうではないかもしれないという疑念、そうしたものが三人共通のものであるこのように読み取れ、それらが満佐子に集約される。見事だ。橋の名が刻まれたプレートや橋の固有の灯りの近景。移動ごとに変化する建築物や川沿いの施設の遠景。これらも少しずつ緊迫感をましてくる。女性たちの眼をとおして、無気味とまでは言えないにしても冷たさの印象をもたらす。女性四人の深夜の歩きだからまるっきり平常とはいえないのだ。
  最後近くになって、描写の埒外におかれ三人も軽んじた存在に過ぎなかったみなに俄然焦点が当たる。女中という奉公を旨とする立場だから満佐子をひきたてても不自然ではないが、みなはそれをしない。自分の願い事にひたむきであるばかりで、身分差を小さな行事のなかではすっかり忘却する。新米女中ということもあるが三島は素朴で健康の人として描き出す。七つの橋を渡りきることができたのはみなだけになってしまう。だがその結果からだけではなく、自分を庇ってくれなかったこと(詳述は避ける)や願い事の中身を明かさないことでみなを憎らしく思うのだ。
  深読みすれば、戦後という時代にたいする三島由紀夫の喪失感さえ汲み取れるのではないかという気もする。四人とも上昇志向であるにはちがいないが、みなという女性がその意志がもっとも強固で戦後的な平等意識が根を下ろしていて、その健康さは野卑にも通じるものがある。満佐子のこうむる喪失感はみなとの距離感でもある。「陰暦八月一五日」というのも陽暦ではないものの終戦の日を容易に思い起こさせる。
  「憂国」は三島にとって彼自身が語るところによれば一番の愛着ある作品である。忙しい人が三島の作品群から一編だけ選んで読むとするならば、三島は躊躇なく「憂国」を推すという。二・二六事件外伝の体裁で、蹶起行動に誘われなかった武山という若い中尉が逆に参加した仲間への討伐隊の役割を担わされることを拒絶し、また「反乱軍」の汚名を冠せられた仲間への激しい一体感から割腹自殺を遂げ、妻も後を追うというもの。割腹当日の夫婦の行動の逐一が丹念に描かれる。昭和三六年の発表で、おそらくは以前から書きたいと願っていた作品であろう。原稿用紙に向かう以前に頭の中で何回も練られて準備万端の段階になって書かれたのだろう。書きたいことがまったく迷いなくしかも余裕をもって書かれている印象がある。三島は昭和四五年自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹して最期を遂げたが、三島の文学を最期への道程として読もうとすればこの短編は見捨てることはできない。もっともこれが書かれた段階で読者は勿論、三島自身でさえ最期を予見できていたのかどうか、わたしはそうではないと思うところだ。
  「エロスと大義との完全な融合」と三島は言う。当日の夫妻の行動と心理が細部にわたって書き込まれる。心理といっても三島は二人を理想化した人間として描き切って最期まで突っ走らせたいために説明は最小限であり、まして三島自身との落差や距離の記述は見事に省略されている。だからおのずから視覚に重心がおかれ映画を見るような感覚がある。竹山中尉は妻との最後のセックスにおいてその美しさのなかに大義の厳粛さをもはっきりと見る。生の歓びが死の狂おしい歓びに直結するような感覚にも見舞われる。そういうことが人のなかではたして生起しうるかという疑念よりも、その可能性は書かれているから読者は引っぱられる。さらに三島はみずからの腹を切り裂いて死へ赴こうとする最中の竹山中尉の「激痛」の描写も書かねばならない。残酷かつ冷徹であるが、「大義」がそこまでかろうじて維持されるであろうとの可能性も捨ててはいない。また小説としての体裁はこうでなくてはならないと見做されたのか。実際には、激痛に感覚が全的に占領されても不自然ではなく、大義にもとることもないが、死へ渾身の力をふりしぼって辿り着きたいという作者の願いがこのときはすでに小説なかに完璧に溶け込んでいて、読者のものともなっている。

  意識が戻る。刃はたしかに腹膜を貫いたと中尉は思った。呼吸が苦しく胸がひどい動悸を打ち、自分の内部とは思えない遠い遠い深部で、地が裂けて熱い溶岩が流れ出したように、怖ろしい激痛が湧き出して来るのがわかる。その激痛が怖ろしい速度でたちまち近くへ来る。中尉は思わず呻きかけたが、下唇を噛んでこらえた。


  映像の延長線上にあるものとして可能性として「激痛」が描かれる。このように意識が保たれるのかどうかは不明だが、小説としては巧緻さを目指す以上はこう書かれなければならないのだろう。三島は以後少しずつ竹山中尉との距離を狭めていったのか。

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