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三島由紀夫「詩を書く少年」「海と夕焼け」

  「花さかりの森」を読んでわかるように三島由紀夫はたいへん早熟な才能の持ち主であった。「詩を書く少年」はそんな彼自身をモデルにしている。少年は大量の詩を書いて充足した。言葉によってありふれた現実が詩的な美しさにたちまち変貌する。「毛虫たちは桜の葉をレエスに変え、擲(なげう)たれた小石は、明るい樫を超えて、海を見に行った。クレーンは曇り日の海の皺くちゃなシーツを引っかきまわして、その下に溺死者を探していた。」という具合に、ありふれた物を別の言葉に置きかえて飾ったり、物にありえない動きを付与した。(ただしこれは詩そのものではなく、語り手による要約である)また少年は辞書に親しみ「感情」のさまざまを生の現実において体験する以前にシミュレーションのようにして理解したつもりになった。夭折した有名詩人にあこがれ、自身も同じような運命にいざなわれるであろうとぼんやり想って自足した。また少年は自身に「粗雑な感激性」が欠けていることを自覚した。学校の生徒が参加する野球の試合に負けて、選手や応援する生徒が泣きじゃくるのを見ても、少年は同じ感情がまったく湧かず不思議な思いにとらわれた。自分は他人とはちがう性向でありあるいは孤独なのかもしれないが、それでいて寂しさや絶望に陥ることはないので、詩が絶望から生まれるということを知識としてはあっても少年には心底からの「欠乏感」はなく、詩作においてもそういう方法は執りようがなかった。
  つまりは、少年は詩作をとおして至福感を得つづけてそのままの延長が人生であるという思い込みにとらわれていた。詩作の才が秀でていることが彼を報い、自然に自信家にした。だが彼に転機が訪れる。親しくしていた学習院文芸部の先輩Rが失恋し、それを少年に打ち明ける。Rは若い人妻と恋をしたものの気づいた親に仲を引き裂かれたという。そのうちひしがれた、敗北感にまみれた、また未練たらしい様子はとても「美しい」とはいえない。文芸(詩)に描かれた恋愛とは似ても似つかないのではないか。言葉によってではなく視覚によって少年は恋愛の実相を見せつけられた。「生の現実」であり世俗といえるだろう。きわめつけは、人妻がRのおでこを美しいといって褒めてくれたとRが告白するところ。少年の眼からすればRのおでこはうつくしくもなんともない。だが少年は軽蔑や失笑に終わるのではなく、そこに「それなしには人生や恋のさなかを生きられないような滑稽な夾雑物」を発見するのだ。Rにとっては自分のおでこが美しいという見方は大真面目で疑いようがないが、少年にとっては虚偽としか映らない。この見方の相違は少年自身に還ってくる。美しいとして自画自賛する詩もまた、Rのおでこ同様、ほんとうはそうではなく思い込みに過ぎないのではないかという疑念にとらえられるのである。この瞬間から少年にとって詩作が色褪せはじめる。青春期のすこし前の小さな挫折、気づきと言えようか。だが逆に解放感を感じられないこともない。
  すみずみまできめ細やかに書かれた、しかし書きすぎてもいない完成度の高い一編。最後の一行も心地よい謎を残す。
  「海と夕焼け」は鎌倉時代にフランスから日本へ渡ってきた老いた「寺男」安里が主人公。安里は鎌倉建長寺裏の勝上ケ岳へ夕焼けのうつくしそうな日に障害のある村童をつれて登っていく。夕焼けに彩られた海を眺めながら、過去に想いをつなげるためだ。安里は子供のころフランスの田舎で羊飼いをしていた。おりしもエルサレム奪回のための何回目かの十字軍組織の噂が広まっていた。安里はイエス・キリストの幻を二回も見て、そこで十字軍への参加を勧奨される。篤い信仰心を抱く安里は子供でありながら居てもたってもいられず、実行にうつす。マルセイユに行ったならば地中海が二つに割れるというイエスのお告げを信じて。安里のみならず、フランスの多くの子供がイエスの幻像に接し、親の制止をふりきって続々とマルセイユに集結した。途上で疲労や病のため多くの子供が死に絶え、自殺する。マルセイユに到着した一行は今か今かと海の割れを待ち望んだが、ついにというかそれは顕現しなかった。安里はその後他の子供とともに人身売買にだまされて連れ去られ、奴隷になったのちインドで中国人の僧に拾われてやがてともに渡日する……。大人たちが相手にせず関心も払わない子供だけの十字軍というのが異様だ。書き物としての作り話かもしれないが、こういうことも事実として成立しえないこともないかもしれないという感懐に誘われる。信仰の圧倒力は弱小ではあるものの純粋な子供を席巻せずにはいないのか。安里は勝上ケ岳から夕日に染まる海を眺めながらふりかえる。「あの奇蹟、あの未知なるものへのギョウ望、マルセイユへ自分等を追いやった異様な力」と。さらに

 安里は自分がいつ信仰を失ったのか、思い出すことができない。ただ、今もありありと思い出すのは、いくら祈っても分れなかった夕映えの海の不思議である。奇蹟の幻影より一層不可解なその事実。何のふしぎもなく、基督の幻をうけ入れた少年の心が、決して分れようとしない夕焼けの海に直面したときのあの不思議……。


  三島が解説で指摘するように第二次世界大戦において「神風」が吹かなかったことを読者はこの短編から想起できる。しかしその歴史的範囲にかぎられるものでは本編はないだろう。信じることを放棄しても、それ以前の生にはないくらいに全身全霊でもって信じたこと、さらにそれが実現しなかったことは、記憶に刻み込まれて潰え去ることがない。断念と執着が「奇蹟の不可能性」を凝視して飽きることがない。生の折り返し点ともいえる。勿論、人生はさまざまな要求を次から次へと押し付けてきてわたしたちはその処理に追われるのだが、安里のようなすべてが終わっってしまったかに自覚せざるをえない人生もある。
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