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三島由紀夫「花ざかりの森」「中世」

   空想が現実に出会うことによって空想の何たるか、また現実の何たるかを人はそれぞれの受け止め方で知ることになる。空想によって育まれた夢や希望は当然その実現を目指して現実に出ていく。空想と同質のものを現実界にもとめ、人は行動する。現実はそのさい多くは意外な貌をみせる。空想の未熟さを知らしめられるような気になって現実を受け入れ倣おうとするのか、逆に空想の価値を再認識することをえて、煩雑で厄介な現実から距離を保って空想にたゆたう環境をつくろうとするのか、さらにそれを確保したのちに眼の前の現実との対抗関係を安定あるものにしようとするのか。……ふりかえれば一人の人間のなかに両者の立場が混在することも事実であろうが、三島由紀夫は「花ざかりの森」において空想の内容と質を明瞭化しようとする。それができれば価値を付与することができれば現実や人生の長さなど問題にならず、一気に死まで到達することも可能だと見做すように思われた。三島が十六歳のときに書かれた短編で、後年の三島とはやや趣を異にする日本古典の影響を受けた女性的な文体であるが、とにかく驚くべき早熟さである。
  前半部は心惹かれない。どういう事情でかわからないが見知らぬ土地に来て時と所をえた気分が披瀝される。さらには大きい造りらしい生家のことが語られ、父、母、祖母や、電車が家の中の土地を走った夢についても記されるが、保管された先祖の日記を紐解く以後が読みどころだろう。
「その二」では戦国時代なのか、敬虔なキリシタンの城主夫人が聖夫人の幻を若菜摘みをしたこともある馴染みある土地に見出す。龕(ずし)のようになっている岩の凹みに白無垢の衣装を羽織り十字架らしい光り物をその夫人は手にしていたのである。

感動自身には歓喜もなげきもない。それは生命力のたぐいである。かの女は考えた、人間はひとときにあんなにまですべてのものを看てとって了う。それは畏ろしいことだ、またありがたくも美しいことだと。すべてをみてしまってもその意味はひとつもその瞬間(たまゆら)にはうけとれぬ。やがて心に醸されたものが、きわめておもむろに、「見たもの」のおもてに意味をにじませてくるだろう。だが夫人はおそれる、もしやその意味は真の意味とはもはやかけはなれた縁(えにし)ない意味ではないのか。次第にかの女は見ることにひたすらであったあの一瞬を悔いはじめる。ああ、はじめからわたしは瞑ってひざまずいて祈っていればよかった。そのときほんとうの意味がけがれない姿ですみずみまで映ったことであろうに。

  真に体験と呼ぶべきものは一人の人間のなかにそれほど多く有るものではない。ひとつか数えるほどで、夫人の場合は勿論たったひとつ。それはいきなり圧倒的に訪れてきて、たじろがせずにはいない。「美」と強いて呼ぶことができても酔いにたゆたえない。その瞬間が消えないうちに眼をみひらいて懸命に見ようとする。記憶に刻み込もうとする。だが反面、その懸命さが禍して信仰を忘れるというのだ。信仰という「空想」が置き去りにされる。だが空想が幻という「現実」と交わったのでもある。この瞬間以後夫人の人生はおそらくは何度もこの瞬間をふりかえることになるのだろう。語り手(三島)はこのとき夫人は地獄を見て、半年のちに身罷ったという。この終わり方にはわたしは不満がのこるが。
  「その三(上)」は平安時代、宮仕えをしたこともある女僧が幼なじみの男と駆け落ちして男のふるさとの紀州に向かうという話。そこで女ははじめて海をみて心をはげしく揺すぶられ、男への恋心が雲散してしまう。海は女に「ある量りしれぬ不可見の──『神』──『より高貴なもの』の意図するばしょへ人間をひっぱっていこうとするふしぎな『力』のはたらき」を見てとってしまった。空想と憧れが現実にうながされる形で急激に育まれて女の中に中心的に腰を下ろすということだろう。男は女の空想を刺激する具体的存在であったものが、より明瞭で最終的な海という存在が出現したことによって、急激につまらなくなってしまうのだ。
  「その三(下)」も同じく海に強いあこがれを抱く夫人の話。こちらは語り手の「祖母の叔母」にあたる人だから時代は明治になるのか、新しい。しかし印象は薄い。女僧とちがい海への憧れを幼少時から十二分に自覚する女性である。憧れが強い分、それ以外の現世的価値、とくに男性への執着がうすく死別したり二人目の夫と離婚したりだが悲しみの様子は見られない。二人目の夫との南国生活は海への憧れを充分に満たしてくれたらしい。人生の難関はない。空想と現実の幸運な合致があるといえようか。
  「中世」の正式題名は「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」と長い。書かれたのは昭和18年で三島は「戦争の只中に生き、傾きかけた大日本帝国の崩壊の予感の中にいた一少年の、暗澹としてまたきらびやかな精神世界の寓喩がびっしりと書き込まれている。」として「花ざかりの森」とはちがい、気に入っている旨自作解説に記している。ただわたしには難解であるが。
  戦争とは無差別殺傷のことだ。またいったん始まってしまうと個人の力では止めることはできない。それどころか当時のわが国にあっては誰もかれもがそれ以上はないほどに前のめりになっていたようだ。神があたえた運命であり参加することが神と同一化することだと見做されたとしても不思議ではない。我が身が明日にも消滅することが予感されたとしても怯まない。むしろ敵を無差別に殺傷するごとに至福を体感すべきではないか。このように切迫する戦争の中心にある「神」を個人のなかに人格化したものとして読んだ。「私は夢みる、大きな混沌のなかで殺人はどんなに美しいか。殺人者は造物主の裏。その偉大は共通、歓喜と憂鬱は共通である。」と三島は書く。後年の数ある長編小説にこの短編の箴言は生かされたというから、そこから逆にこの短編の理解はすすむかもしれない。戦争遂行における義と美。ヤマ勘的な言い方であるが、三島においては美が中心で義はそこに収斂される気がする。


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