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大江健三郎『万延元年のフットボール』(2)

考えてみればおれはいつも暴力的な人間としての自分を正当化したいという欲求と、そのような自己を処罰したいという欲求に引き裂かれて生きてきたんだよ。そのような自分が存在する以上、そのような自分のままで生き続けたいという希望を持つのは当然だろう? しかし、同時にその希望が強くなれば強くなるほど、逆に、そのようなおぞましい自分を抹消したいと願う欲求も強まって、おれはなおさら激しく引き裂かれた。安保の間、おれがわざわざ暴力の場に入りこむことを引き受けたのは、しかも学生運動家として、不当な暴力にやむなく反撃する弱者としての暴力との関わり方から、逆に暴力団に参加して、どんな意味でも不当な暴力をふるう立場に立ったりしたのは、このような自分をそのまま引き受けて生きたいと、暴力的な人間としての自分をそのまま正当化したいと望んでいたからなんだよ……(p302~303)


  これは蜜三郎が鷹四の同伴者の星男という少年から盗み聞きしていた話をうちあけられる場面だ。その時はすでに鷹四と蜜三郎の妻菜採子とは「不倫」関係にあり一緒に寝ていた二人の会話を少年が傍で聴いていたからだ。「不倫」くらいでは大江の小説においては驚くに値しないが、それはおいて、ここで語られる暴力とは、自分の死をたえず意識してその可能性を近づけるためにあるということだ。反体制暴力を実践することにおいても死の可能性はあり、その思想を希求するためにあえて死を避けることを厭わないという立場もとりうるが、鷹四はそうではない。ここでは「敵」は警官隊のみならず暴力団と一緒に学生に敵対することで反体制勢力をも「敵」に鷹四はまわしてしまう。そのことによって死はよりいっそう可能性として自らに近づく、近づかせたいということだろう。「敵」の存在に憎悪を燃やすのではなく、また「敵」を打倒して社会的ビジョンを構築しようとするのでもない。また死を自らにふさわしい到達点として意識するのは彼の罪責意識からくる。それならばあっさりとS兄さんのように「自殺」してしまえばいのではないかと突っ込みたくもなるが、やはり鷹四は死を恐れる。死に近づくために自らを駆り立てるもののやはりそこから引き返すことを繰りかえすようだ。

その時、おれは大きいグラスに一杯のウォッカを飲みたい熱望を感じて、はじめておれの頭を自己処罰の欲求が充たしていることを理解したのさ。おれは強い酒を飲んで酔っ払うと、相手の見さかいなしに撲り合いをはじめるからね。おれは、わざわざ黒人居住区の酒場に撲り込んで来たが奇怪な東洋人として、逆に撲り殺されてしまっただろう。しかし大男の給仕がおれの前に来た時、おれはジンジャー・エールを一杯、頼んだだけだった。おれは自己処罰の欲求を感じると一緒に、眼もくらむほど恐ろしかった。おれはつねづね死を恐れている、しかもそういう暴力的な死がもっとも恐ろしいんだ。それはS兄さんが撲り殺された日以来の、克服しようのないおれの属性なんだよ……(p304~305)


  星男の話のつづきで、鷹四がアメリカ滞在時に黒人居住区におもむいたさいのエピソードで、カウンターの向こう側の巨大な鏡に50人くらいの黒人が映っていて東洋人の鷹四をめずらし気に眺めたときの恐怖感を吐露している。これが鷹四の死にあこがれつつも同時に激しく恐れる「属性」である。
  鷹四はスーパーマーケット略奪騒動が終息に向かい始めたころ事件を起こす。読み終えた後だから腑に落ちるが、引用した会話をまるでなぞるかのようだ。鷹四が騒動に同伴している少女をレイプして岩で撲殺してしまったという。これ以後は大江ならではの血しぶきが現前するかのような残酷さで、秀逸な描写力で、読ませる。鷹四は村民にリンチされ殺されるのに値すると自分で言う。現に鷹四は指先2本を嚙みちぎられ顔も血にまみれた状態だ。だが即座にそれにつづく蜜三郎の推理というよりも断定が読者の理解を超えて(わたしにとっては)凄みがある。少女は事故死したに過ぎず、それを好機にして鷹四があえて自分の犯罪にすり替えたもので、いつわりの自己処罰と断ずる。安保でもアメリカでも自己処罰を目指しはしたもののお前は生きのこった。死に近接した行動に自分を投入することが自己処罰を希求したことの自己証明になってかえって生き延びる口実となる。つまりは鷹四の狡猾さだと指摘するのだ。おまえは決して死ぬことのできない人間だ。おまえだけではなく、人間だれしも罪責意識をそうそう長持ちさせることはできない。曽祖父の弟でさえも一揆の現場から逃亡したあげく平穏な生活に甘んじたではないかと、蜜三郎は自分の人間観も披瀝しながら非難するのだ。軽蔑どころか嘲弄であり罵倒であるだろう。蜜三郎は鷹四にたいして先に書いたように冷淡で鈍感であり、さらにここでは激しい憎しみを抱く。読者は鷹四が死んでしまうのではないかと危惧し、蜜三郎自身ももしかしたらという気にもなるようでもあるから少し異様である。「死んではならない」と言うのと「おまえは小心だから死ぬことなどできない」と言うのとでは天地の差があることは蜜三郎も自覚があるはずだから、あえて後者の物言いをするのが異様なのだ。だが、と留保しなければならない。蜜三郎の鷹四への罵倒は納得すべき部分があるにはある。
  蜜三郎に偽装工作を言い当てられて以上の会話が二人の間で交わされる前に鷹四は罪責意識の根っこになっている「本当の事」を告白する。十代のころ同居していた白痴の妹が自殺した原因は自分がつくったという内容で、衝撃的で、はじめて知った蜜三郎を動揺させずにはおかない。蜜三郎は別に弟鷹四に同情する必要はないどころか、激しく憎むのももっともな部分がある。くわえて妻を寝取られたこともあり、平穏な山村でスーパーマーケット略奪を組織して、あわよくば兄・蜜三郎を巻き込もうとしたこともあるが、そのときどきにおいては蜜三郎は鷹四に目立った非難はせず、「非参加」を決め込んで沈潜するかのようで無気力そのものにさえ見えるから、積りに積もった憤懣が最後になって爆発したと受け取るべきだろうか。それにしても、たとえば鷹四が規律違反をしたメンバーの青年をリンチする現場を蜜三郎が目撃する場面があるが、彼は弟に何一つ言わずに見過ごして通り過ぎる。こういう鷹四への接し方が蜜三郎の常態であるかのようなぼんやりとした認識を読者がもたされるので、最後になっての罵倒が異様に見えてしまうのだが。
  読者は蜜三郎よりも鷹四の人間像に魅力を感じて読み進む。鷹四のような騒動をたえず巻き起こす人間が身内に居座ることはだれでも御免こうむりたいと思わせるが、またそういう思いを蜜三郎に大江は背負わせ、反目し合う兄弟という設定が効果を上げて、鷹四の像は完成する。小説という虚構のなかでは暴力を実践する人間はその思想的環境をも合わせて掬いとることができたならば磁力となり、大江も本作で充分それを成し遂げたようだ。だがそれにしても、という思いは残る。死を覚悟した鷹四が「おれの眼をやるから」と隻眼の兄のためになかば懇願するように提案するが、兄・蜜三郎は電気に触れたように即座に断固拒否する。不浄を受け入れまいとするのだろうか、わからないでもないが、情愛が足りない気がする。「おまえはどうせ死ぬことはできない」と言う替わりに「絶対に死ぬな」と言えば直後の展開は変わるのかもしれない。多数派的と言いうる蜜三郎の反応だが、わたしには冷淡かつ卑小に映った。高望みだろうか。この蜜三郎の追い詰め方によって鷹四は劇的に死に急転直下して、小説としては衝撃度を増すことになったとはいえるが。蜜三郎という人物に食い足りなさを感じた次第であり、小説を効果的たらしめるために大江はあえて彼をそういう存在に貶めたのではないか。 
  作家としての大江はとびぬけて想像力豊富で鷹四のような暴力的人間を巧みに描出することができ、またそのような人間を愛惜する。だが生身の人間としての大江は鷹四のような人の画策する煽動には巻き込まれたくない。また思想者としての大江は非暴力抵抗運動を社会的に賞賛する。こういう関係が本作においてわたしには見えた気がする。だがこの3点セットに共感しえたのではない。思想者としての大江が蜜三郎を通してはじめてのように露わになるのが終章である。
  鷹四の運命が決したので本作はほとんど終わりだと思ったが、曽祖父の弟の軌跡が明らかになる。たいして重要事でもないだろうとわたしはあしらうような読み方をしていたが、書き手大江にとってはそうではなかった。彼は万延元年の一揆の後、敵味方の多数の死者・負傷者を見捨てて逃亡したのではなく現地の山村の某所に留まりつづけ、さらには明治4年に起こった「騒擾事件」において再び指導者として村民のなかに「仮面」を着けて登場する。そうして運動全体を非暴力的に推進して成功に導いた後ふたたび姿を消したという。曽祖父の弟は尊敬に値する「非転向者」だったというのだ。この推理をも交えた事実によって蜜三郎は、今さらのように鷹四の先祖を「模倣」!した行動はまちがいではなかったとふりかえるのだ。わたしは蜜三郎と鷹四の兄弟の物語のつもりで読んでいたので、最後になって余計な接ぎ木を加えられた気がした。清廉で立派な人物が先祖にいることはたしかに心が洗われて導きの光になるのかもしれないが、ある種の政治への安易な合流とも受け止められかねないという危惧を持った。先祖を頂点にして人々を合流させてゆるやかな集団的連帯意識を育もうとする気配を蜜三郎に嗅げないでもない。蜜三郎は平穏をのぞむあまりに鷹四や友人や妻など他者の苦痛を想像する努力を怠っていたと自省するが、作者によって種明かしを見せられた気になる。そういう人物像を小説のために自分をモデルにして作ったということだ。そしてそういう低空飛行する蜜三郎を安寧に導かれる気分にさせるのが曽祖父の弟の軌跡である。こちらの世界ではなく向こう側にある世界から光を投げかけられて救われた気分になるのだとしたら、ちがうのではないかとの疑念を抱いた。
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