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大江健三郎『万延元年のフットボール』(1)

万延元年のフットボール万延元年のフットボール
(1967/09/16)
大江 健三郎

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   400頁足らずの長編小説で全体が13章に区分けされているが、わたしにとって読みどころと成りえたのは1章ならびに11章以後の、語り手蜜三郎の弟鷹四の運命が急転し、やがて物語が終結にたどりつき蜜三郎によって総括される部分のみであった。その間の中盤と呼べる部分は非常に長く感じられて大江の『個人的な体験』にもまして晦渋さを加えてくる文体にも辟易させられ読みづらかった。文体にのみよるのではなく、とりあげられる事象のひとつひとつが突っ込み不足で故意に謎を残して読者を後々の展開まで引っ張って行こうとする。それはいいにしても、謎の解明の材料をその場で読者に同時に与えられるのではなく、さらに語り手の蜜三郎が「下降」志向であって眼の前の事象に深い関心を払うことを忌避しがちであり、怠惰な探偵さながらだ。また彼は夫婦関係も含めて自身の傷を凝視もしなければならならず、そのうえ謎や事象はいくつもつぎつぎと露わになっていくので、読者はそのひとつひとつを重要事かそうでないかわからないまま記憶しなければならず、終局にたどりつくまでは骨が折れ、投げ出したくなる気にもなり、退屈さは避けられなかった。
  蜜三郎は深夜から夜明けにかけて自宅の裏庭にある工事中の浄化槽の穴倉に身を置く。これが第1章である。障害を持って生まれた第一子を養護施設にあずけた。さらには英文書籍の共同翻訳者である友人が心に変調をきたして自殺した。それも顔を赤く塗って肛門に胡瓜を挿入しての縊死という異様なありさまで。この二つの出来事が蜜三郎にこのうえない憔悴をもたらし、そのような奇態な行為に走らせ、無意識の自殺衝動でもあることを彼自身気づかされることにもなる。ここにかぎっては文体の観念性が効果をあげている部分だ。蜜三郎は「熱い「期待」の感覚」をもとめて浄化槽に居つづけるがそれはかなわず、土の壁面を爪でひっかくに至る。友人の自殺の真相が探られるのではなく、以降はその事実をたえず蜜三郎がふり返らされるのみ。
  2章以降は蜜三郎と鷹四の生家である四国の小さな山村に舞台が移される。アメリカ帰りの鷹四が兄を誘って「帰郷」するのだ。生家の倉屋敷を売却するのに立ち合いを兄に要請したからであり、あわせて憔悴した兄のために故郷での「新生活」を提案し、さして気の乗らないままに蜜三郎も妻とともに同意してのことだ。鷹四は暴力的反体制運動に執着する人であり、1960年の安保反対のデモにも参加した履歴を持つ。鷹四は村の青年を組織してスーパーマーケット略奪を画策しやがて村の住民全体を巻き込むことに成功する。鷹四の念頭には万延元年(1860)に農民一揆を指導しやがて行方不明になった曽祖父の弟のことがあり、尊敬と親近感を抱いており、兄の助力も得てその足跡のさらなる詳細を探ることも宿願としている。また終戦直後の村民と朝鮮人との抗争事件において「贖罪羊」となって死亡したS次兄さんにも強い関心をもつ。(「贖罪羊」とは朝鮮人に死者と犠牲が出たために、それに釣り合わせる形で解決に導くために贖罪の意味をこめてS次兄さんみずからが死を選択する心づもりで暴力の渦に肉体を差し出したこと)鷹四のこういう関心はたとえば左翼がマルクスやレーニンの言動に強い関心と執着を払い、自らの言動の足場にしようとすることをわたしに連想させるものである。
  わたしは鷹四の人間像に興味をもって読んだ。それ以外には指摘したような退屈さでうんざりしてしまった。スーパーマーケットの略奪行動ひとつにしても、いくら雪に閉ざされ電話が不通になった小さな村といっても警官がひとりも登場しないのは首を傾げざるをえず、現実に起こりそうでない小説的寓話としか受け取れなかった。また外部への関心を積極的にもとうとしない蜜三郎が語り手であるために生々しさが排除された平板な記述にならざるをえないのだ。さて鷹四である。暴力的行動が執着の対象であるどころか、その渦中に絶えず身を置くことに彼はみずからの存在意義を見出すのは何故なのか。また彼が蜜三郎に言い出そうとしてなかなか言い出せない「本当の事」とは何かである。これは12章で明らかにされる。彼もまた痛ましいほどの罪責意識に普段から責め苛まれる青年であることが露わになり、農民一揆の指導者だった曽祖父の弟への尊敬や反体制イデオロギーのみから死に直結するかもしれない暴力に身を置くのではないことがわかる。彼がどんづまりの選択として自らに課すのは「自己処罰」としての死であるらしい。
   わたしがすぐに思い出したのは大江の『性的人間』に登場する十代後半の痴漢少年である。痴漢という犯罪行為に存在意義を措定し素裸のうえにトレンチコート一枚を着衣して電車内で大胆にやらかす。それも摘発をあらかじめ逃れうる安全な痴漢では少年の哲学からは逸脱していて、摘発されたうえ、社会的非難を一身に轟々と浴びるべき行為にかぎりなく近くなければならず、さらにそれを成し遂げてから「嵐」のような詩を書き上げることが生涯の目的だという。少年はやがて女児を誘拐して痴漢仲間のJや老人をはらはらさせながらも駅内の線路に投げ出された女児をどたん場で救助し(少年が女児を故意に投げ出したのかもしれない)自らは轢死するという流れであった。どす黒い犯罪者志願であった少年が最後に見せた救助行動で、少なからずわたしは感動を与えられたが、少年のそもそもの痴漢犯罪志願の動機が何なのか不明なことと、仲間のJや老人が少年を眩しく眺めることは当然かもしれないが、作者大江健三郎がこの少年をいかに評価するのかもわたしには今一つわからず腑に落ちなかった。作家が親近感をこめて人物像を彫琢し作品のうえに完成させるのはそれが犯罪者であっても全く自由であることはいうまでもなく、それを書いたから作家がイコール犯罪者であるなどと馬鹿なことはいわない。作品上で作家と登場人物の関係を必ず書かなければならないとも思わない。社会的衝撃をもたらすことが作家の目的の一つであってよいのだが、大江健三郎は戦後民主主義や非暴力抵抗運動を礼賛する人でもあり、生身の大江というのではなく、そういう思想者としての大江と痴漢少年や本作の鷹四との関係性を窺うことにわたしの興味は誘われた。つまりは蜜三郎は大江そのままではないにしても大江自身をモデルにした人物であるから(障害児の誕生は既知だが友人の自殺も事実であるらしい)、彼と弟鷹四との関係性が大江と鷹四との関係性にダブるのではないかと思ったからである。
   結論から言えば、鷹四の人物彫琢は十二分に成功しているのだが、そこまで物語をたどりつかせるために語り手蜜三郎を随分冷淡で鈍感な人物像にしてしまったのではないか。 

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