大洋ボート

大江健三郎『個人的な体験』

個人的な体験個人的な体験
(1994/11)
大江 健三郎

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  大江健三郎の第一子が障害を持って生まれた男性であることは大江の読者なら知るところである。そのことを題材にして生まれてからそれほどの時間を置かずにこの長編は書かれた。もっとも鳥(バード)とニックネームで呼ばれる主人公は障害児の父であるものの大江本人そのままではないことは読みすすむにつれて推測できる。障害児の親になったとしたらどうだろうか。家族にのしかかる負担はその子の人生と同じ長さの時間となるであろうから、またどんな具体的な困難が待ち受けているかもわからず、想像を絶するにちがいない。引き受けて育てなければならないという常識や義務意識は親には当然のように存在するものの、できればその子を手放したい、逃げてしまいたいという相反する意識も心のすみには、たとえ空想的であっても派生するのではないか。そのほうが楽に生きられると思えるからで、わたしも心全体のそういうありようを否定するつもりはなく、生身の大江にも子の死を願う気持ちが微細であれあったとしても不思議ではなく、非難されるべきでもないだろう。大江は子にたいする後ろめたいそういう気持ちを拡大再生産して鳥(バード)という人物に押し付け造形した。
  子の死を願うとはいったいどんなことか、また当然そこに焼き付けられるであろう罪責意識を背負わなければならず、それを傲然と確信犯的に引き受けて払拭できるのか、それともそれを引きずりながらごまかしたり緩和しようと試みるのか、鳥(バード)が選んだのは成り行き的に後者だ。子の死を願いつつ子の存在からできるだけとおざかろうとする。家族とは別のパートナーの火美子という女性とともに一時的に暮らし引きこもること、火美子との性的快楽に没入することだ。また火美子はたんに「性のエキスパート」ではなく鳥(バード)の意向を理解したうえで賛同してくれる友人として描かれ、子と家族を捨てての鳥(バード)のアフリカへの逃避行の同行も約束してくれる。主人公にとってというよりも一個人にとっての我儘を全面的に受け入れてくれる異性であり、理想という以上にこれほどの好都合はなく、架空の人物像か主人公の分身的存在であることは見抜けるのだが、それでもって小説が荒唐無稽に陥ることは決してない。これはたんに「嬰児殺し」(終わり近くではその実行に着手するところまで行きつく)という個別の出来事に限定されるのではなく、またそれが現在進行形であるか否かにもかかわらず、わたしたちが有するかもしれない罪責意識とどう向き合うか、また向き合わずにごまかずか緩和するかという普遍的命題にまで、この小説はとどいているからだろう。罪責意識をひきずりながらももしかしてそれが雲散霧消してくれるかもしれない小さな世界、この世でありながらもこの世ではない別世界がおぼろげに浮かび上がる。さみしいが甘美さもともなう、もしこういう場所があればいいなと魅了し迷わせる世界だ。
  鳥(バード)は長男誕生直後に担当医師から赤ん坊が「脳ヘルニア」であることを告げられる。脳組織の一部が頭蓋骨からはみでていて別の専門病院で手術を受けなければならず、それまでの数日間は栄養をつけて手術に備えておく必要があるが、衰弱死する可能性もある。またたとえ手術が無事成功したとしても赤ん坊は健常児ではなく「植物人間」になってしまう可能性も否定できない。そう告げられたときから鳥(バード)の苦悩と迷走がはじまる。赤ん坊は妻の手元から特別の育児室に移され、妻は子の障害の事実を知らされずに内臓検査のために子は移されたと言われて、産後の回復のためにベッドに伏している。妻に付き添う義母は障害のことをすでに知っている。鳥(バード)は必要以上に病院にはいかず、義母や医師と最小限とおもわれるやりとりをするのみだ。彼は予備校の英語の講師で、そこと病院と火美子の宅との往還の数日間。だがさらに「期待」と「予想」に反して赤ん坊は衰弱せずにすくすく育ち、これがまた鳥(バード)を悩ませる。衰弱死を願うことの後ろめたさとともに赤ん坊が生きるというこが生々しい恐怖心として彼に浸入してくる。
  性にまつわることを記さねばならない。鳥(バード)は彼の大学の同級生でありインテリっぽいところがあって鳥(バード)とリラックスして議論できる力があって、それも注目しなければならないものの、二人の性交渉のほうがより丹念により精細に大胆さをまじえて描かれる。大江健三郎は政治や社会とともに性の問題にも関心を持ちつづける作家であり、「セヴンティーン」では高校生の少年のなかで性的高揚感と政治的過激性を結びつけた。「性的人間」では原始的でアンモラルな性に着目し、それが人生の全目的であるかのような人物を造形した。これらの人物は大江その人そのままではないとしても大江の性にたいする執着をそれぞれの主題に則って拡大したものであり、この『個人的な体験』にあってもちがった主題のもとにみちびかれてそれは展開されている。ここでは男女間の親和性に性の親和性がどれほど多く資するかという主題である。もっとも火美子ははじめから鳥(バード)に親和的であるから、それは鳥(バード)にとってより切実になる。作者は鳥(バード)に託して性を解説する。性欲には大きく分けて二通りあり、ひとつは激しい反社会性をともなう。性とは異性(通常は)に惹かれて「愛」を抱くかどうかにかかわらず近づいて奪ってしまおうとする際の原動力そのもので、その距離の縮め方が一方的で暴力的であれば相手の意思は無視されるので、これはおのずから反社会性をみちびく。実践しようとしまいと心にそれは生まれ出るので誰にでもわかることで、それは政治や宗教における実践にともすれば伴いがちな反社会性を連想させるものでもある。もうひとつは少し書いたような性における親和性だ。仲良くなった男女を長く穏やかに生活させる媒介としてそれは資する。反面、性における激しさや反社会性は後退することになる。小説に書かれた言葉どおりではなく、わたしなりに引きとっての概略のつもりだ。
  ヴァギナと子宮が妊娠と赤ん坊を連想させて鳥(バード)が萎えてできないと言って弱気になると、火美子はそれなら背面からやってみてはと提案し、それが功を奏する。火美子は出血するが、鳥(バード)は反社会性を思い出すことによって攻撃的になれた。それによって鳥(バード)が回復軌道にのるとさらに通常の性交へと移行し火美子は「オルガスム」に達する。火美子にとってはオルガスムの追求が人生上の大きな目的のひとつになっている。
  「セヴンティーン」や「性的人間」は大江の性への執着という部分をさらに部分的に分割しそれを小説というフィクションのなかで拡大再生産してできた。これらは生身の大江とはかなり隔たった人物であろうから、安心して小説のなかで野放図に拡大して終結まで突っ走らせることに何のためらいもなく済んだ。ところが本作は大江の私生活と直結する主題だから、嬰児殺しを実践させるところまでは踏み込めなかったのかもしれない。家族が読むことをおそれたのだろうか。あと一歩盛り上がらずに尻切れトンボの終わり方をするので、こういうことも思ってみた。とはいえ、戦後文学の傑作のひとつであろう。最後に大江独特の文体の力が全編にみなぎっている。少し長いが、引用する。

 

 鳥(バード)は一人で車寄せに出ていった。雨は上がり、風も衰えてきていた。空に乱れ動いている雲も明るく乾いている。すでに、夜明けの薄暗がりの繭から脱け出しきった、輝く朝だ。夏のはじめらしい大気のいい匂いがし体じゅうの筋肉も臓器もぐったりする。建物のなかの夜のなごりの優しさに甘やかされていた鳥(バード)の瞳孔に、濡れた舗道面や茂りにしげった街路樹から照りかえす朝の光が霜柱みたいに硬く白っぽくおそいかかる。その光にさからってペダルを踏みつけ走りだそうとして鳥(バード)は跳躍台に立っているような気分におそわれた。確実な地面から切りはなされ孤立している眼も昏む気分。かれはクモにつかまった弱い昆虫さながらじっと痺れていた。きみはこのまま弱い昆虫さながらに自転車をかけってどこか見知らぬ土地にいたり、数百日のあいだアルコール飲料に漬かっていることもできる、といういかがわしい天啓の声を鳥(バード)は聴いた。朝の光にさらされ、いかにも不安定にかしいだ自転車の上で鳥(バード)は揺れ、次の声を待っていた。しかしその声は二度とひびきはしない。(p34~35、()内は引用者で、ふりがなの代用)


  「輝く朝」「夏のはじめらしい大気のいい匂い」が体じゅうをぐったりさせるとは、いかにも大江らしい強引な喩だが、これは病院にシステムに象徴される表向きなんの支障もなく快適そうに流れる日常社会全体への怖れと後退願望の表現だろう。夏の「朝の光」を冬をあらわす「霜柱みたい」と書くのも同じだ。さらに「いかがわしい天啓」という変な言葉づかい。読みにくいが、主人公の憂鬱さを片時も忘れずに定着させるため、降ってわいた「非日常」を描き切るために独特の文体が全軍躍動する。

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