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大江健三郎「セヴンティーン」

性的人間(新潮文庫)性的人間(新潮文庫)
(2014/03/14)
大江 健三郎

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  十七歳の高校生の主人公が、急進的な右翼政党に入党するまでの心の軌跡が描かれる。まるで自分のことが書かれているかのような気分で読んだ。というのもわたしも高校生のとき左翼過激派に属した活動家だったからである。右も左も関係なく、その主観的な上昇の気分はほとんど同じである。もっとも大江健三郎は多分に主人公に軽薄さと少年らしい有頂天の気分を付与し、冷静さを奪っている。右でも左でも、たとえ過激派であっても、もっと冷静沈着な人物はいたにちがいないが、わたしはふりかえってみてお世辞にもそれに値する人間ではなかったので、主人公に身近さを感じた。大江はそれまでにも「他人の足」「人間の羊」等で、政治的オルガナイザーの熱情と欺瞞をたくみに描いたが、この「セヴンティーン」の主人公はそれらの前例をはるかに幼稚にし、また急進化し、暴力志向的につくりなおされたものである。大江は政治的に上昇しようとする人間の内心の不満や苛立ちや見栄を若い時代から見抜いていたのだろうが、逆にそういう人間への文学的な親近感もまた距離をとりつつも溢れかえっているようにも思える。渡辺広士の解説によると、発表は1961年1月である。
  十七歳の誕生日を迎えた時点から本編ははじまるが、なんと主人公は風呂場で「自涜」(マスターベーション)に励む。これはそれ以外にのめりこむことを見つけられずに、本人は恥ずかしさと後ろめたさを自覚しつつもやめられない常習的悪癖。これが劣等感の根っこにある。さらには家族や進学校の同級生にたいする劣等感がある。父はアメリカ的自由主義を自認し、子供にたいしては放任主義の立場だが、息子からみると冷淡に映る。主人公はそのときはどちらかというと左翼に漠然とした親近感を抱くが、自衛隊の病院で看護士をする姉の自衛隊擁護論を言い負かすことができない。学校にあっては勉強で秀才たちにどんどんおいてきぼりにされる……。家族のことはともかくも、勉強での劣等感はわたしにもあった。いくら勉強に精出してもかなわないだろうと思わせる同級生がごろごろいた。それにわたしには明確な大学進学の意志がなかったので、やる気が沸かなかったということもある。父が鉄工所を自衛していたので、いざとなればそこで働くことも視野に入っていたのかもしれない。そんなことで、わたしも主人公と同じく、高校生活は暗くて孤独な一面があったことは共通していた。
  主人公は学力テストの日に遅刻してさんざんな成績に終わる。さらにその日の午後に行われた体育テストでは、八百メートル競走で小便を垂らすという大失態をやらしてしまう。黒々とした跡を運動場に残すのだ。当然、教師や同級生の嘲笑の的になる。だが「新東宝」とあだなされる勉強も比較的できて人気者の同級生から「《右》のさくらをやらないか」と呼びかけられて、主人公に転機がおとずれる。「皇道派」代表の街頭演説に参加すると日当がもらえるというのだ。普段冗談を言ってクラスの連中を喜ばせる「新東宝」の意外な面を知るどころか、彼の真剣なへりくだった眼差しに接して、主人公は孤独感を癒される気がする。さらには「新東宝」への優越感さえ生まれてくる。これも即座に納得できる。自分が思いがけなく「個」として尊重される場面に出会うことがなにかしら貴重に思えてきて、手放したくない気にさせられるのだ。わたしも先に組織に属していた人から誘われたときには、そういう気になったものだった。
  そして主人公をうちのめすように「回心」に導くのが「皇道派」逆木原国彦の演説である。その第一印象は「ひどい」もので、だれ一人聞いていないにもかかわらず、熱狂して怒号をくりかえすというしかなかったのだが、世界にたいする「敵意と憎悪」がしだいに自分の肉体に乗り移ってくる。

いつも自分を咎めだてし弱点をつき刺し自己嫌悪で泥まみれになり自分のように憎むべき者はいないと考える自分のなかの批評家が突然おれの心にいなくなっていたのだ。おれは傷口をなめずっていたわるように全身傷だらけの自分を甘やかしていた、おれは仔犬だった、そして盲目的に優しい親犬でもあった、おれは仔犬の自分を無条件にゆるしてなめずり、また仔犬のおれに酷いことをする他人どもに無条件で吠えかかり咬みつこうとしていた。しかもおれは眠いようなうっとりした気持ちでそれを行っていたのだ。そのうちおれは夢のなかにいるように、おれ自身が現実世界の他人どもに投げかける悪意と憎悪の言葉を、おれ自身の耳に聴き始めた。それを実際に怒号しているのは逆木原国彦だ、しかしその演説の悪意と憎悪の形容はすべておれ自身の内心の声であった、(P166)


  このように政治的アジテーションが主人公に感銘を与え,同心一体の境地にまでひっぱりあげてしまう。ここまで一気に急上昇してしまうものなのか、多くの人に共通はしないであろうが、孤独感などの飢えを意識する少年にとってはありうる、それが感動であり快感であるということは確かな説得力がある。はじめのほうで記したが、本編は1960年の安保闘争の約半年後に発表された。その大きな渦のような混乱さめやらぬ時期であっただろう。その頃からか、政治運動は大衆化した。テレビの普及によってその行動の派手さがひろく伝えられるようになり、関心もそこにより多く注がれた。わたしも安保のデモ隊の残像が事態が終息した後もながくあった。主人公もまた右翼の演説の攻撃性に圧倒されるのだ。政治的関心といっても文献をこつこつ読み漁ってから参加するというのではなく、たとえ錯覚であったとしても最初に受けた視覚やら聴覚から流入してくる感動を起点して入っていくのだ。のちに文献にあたったとしても、その「感動」を手放すことはないから客観的視座は減殺される。
  主人公にとってはもはや勉学の遅れをとりもどす努力をかさねて親を喜ばすという選択肢はない。同級生との距離をちぢめるよりも《右》の正統性により近づくことで、劣等感を霧散させようとする。主人公に言わせれば「私心を捨てる」ことだ。その根っこにあった「自涜」でさえ、そこからとおざかろうとはせずに逆にその快感を最大の快感として、天皇に直結させることもする。有頂天で盲想のきわみであったとしても少年にとっては真実にちがいない。逆木原に勧められてトルコ風呂(ソープランド)に右翼の制服を着用したまま行って、ことに達する場面。
 

 おれの男根が日の光だった、おれの男根が花だった、おれは激烈なオルガスムの快感におそわれ、また暗黒の空にうかぶ黄金の人間を見た、ああ、おお、天皇陛下! 燦然たる太陽の天皇陛下、ああ、ああ、おお! やがてヒステリー質の視覚異常から回復したおれの眼は、娘の頬に涙のようにおれの精液がとび散って光っているのを見た、おれは自涜後の失望感どころか昂然とした喜びに浸り、再び皇道派の制服を着るまでこの奴隷の娘に一言も話しかけなかった。それは正しい態度だった。この夜のおれの得た教訓は三つだ、《右》少年おれが完全に他人どもの眼を克服したこと、《右》少年おれが弱い他人どもにたいしていかなる残虐の権利をも持つこと、そして《右》少年おれが天皇陛下の子であることだ。(p180)


  本短編は一方通行である。いくら政治的信条を堅固にし頑迷にしようとも人は弱いもので、孤独や挫折に見舞われることがほとんどではないか。折り返し点を通過してのち、ふたたび人は政治などの大きな舞台から自分を観念的にでも切り放して自分を見つめる事態に遭遇するはずだが、そこまでは描かれない。ただ、これは本編の欠点ではなく、「政治少年死す」という続編が書かれてそこに委ねられていると聞くが、発売禁止の措置がとられたままだという。

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