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大江健三郎「性的人間」

性的人間(新潮文庫)性的人間(新潮文庫)
(2014/03/14)
大江 健三郎

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  「性的人間」は前回とりあげた「戦いの今日」から5年後の1963年の発表だそうだ。(本文庫・渡辺広士解説による)その間にも大江健三郎は多くの長・短編を書いているが、ずいぶんと変貌したものと思わざるをえない。初期においても創作性が強いが、それでも作品のなかの人物は、すべてではないにせよ現実世界に足を着いた何処にでも居そうな人々が多く描かれていたのだが、この中編には一見してそれらしい人物はみあたらない。さして重要な指摘ではないが、これは主人公Jの別荘に集まるメンバーが彫刻家、カメラマン、詩人、俳優、歌手など独立して動く人物であることからくる印象だろうか。わたしたちの日常とはかなり遠いと思った。漁村の女・子供がそれにあたるともみえるが、やはり独特にデフォルメされて主要人物らの観念に照応する側面だけが拡大して描かれている。これはJがまさに性の世界にのみ関心を抱き、没頭しようとする「性的人間」として描かれるためで、その影響下にある周辺の人々もそろって性とその秘匿性を意識している。その限定性と抽象性が放射されるからだろう。
  性にのみ関心を抱きつづける人間はいるにちがいなく、Jもまたそれらしく受け取られそうだが、じつは最初の妻の自殺に強い後ろめたさを持っていて、このことが小説を観念的に上昇させている。痴漢になったJは性の世界に没頭しつつも、同時に自己処罰の欲求をみたし妻への贖罪を完成させるという仕組みになっていて、この観念の充実ぶりを読者はみせつけられるのだ。性の限定された世界を引きずりながらもまったくの別世界が最後に書きとめられる。
  Jは、小説の書かれた年代を思わせる古い言葉づかいだが「性倒錯者」である。ホモ・セクシュアルであり、妻以外の異性と関係をもつことも平気であるようで、それを苦にされて最初の妻に自殺されてしまった。だがJはそういう性的嗜好を変えようとはしない。むしろ二番目の妻にそれを認めさせることがその後の自身の平穏さを保障してくれるものと期待する。二番目の妻は映画監督志望で、鉄鋼会社社長の息子であるJは裕福でスポンサーにはうってつけで、その理由から蜜子というその女はJと結婚した。一番大事なのは映画作りで、そのためには夫の異常性愛にも眼をつむる。また自身の不感症もオルガスムスからとおざかるためにはかえって好都合と決めてしまう女性である。だがそうあっさりと割り切れるものではない。蜜子にとってはJは不気味このうえなく、性交のたびにJの生理的欲求に覆いかぶさるような彼の絶望のようなものを覗きみざるをえない。性愛においては甘えや愛情がともなうのが当然だという前提がだれでもが無意識にもっているものだが、その前提でみるとJは気味悪い。小説はJらの一行七人が映画撮影のためにJの別荘に着いて一晩を過ごすところが前半の主な場面。Jははやくも十八歳の娘ケイコとベッドをともにし、しばらくしてから娘から蜜子に交代の呼びかけがあって蜜子は応じる。一方、蜜子もまた同行した詩人やらカメラマンやらに思慕されてセックスに流れ込みそうになってかろうじて踏みとどまるということもある。オルガスムスの予兆を敏感に感じて蜜子は動揺する。
  裕福なJにとっては妻に映画作りの資金を提供したり、詩人にそれを貸したりすることは容易で、人を寄せ集めて「自分を核とした自分流の性の小世界をつくりあげたいとねがっていた。」Jは自身の性倒錯が最初の妻を自殺に追いやったとしても、その苦しみから逃れるためにはやはり自分の嗜好に合致する「性の小世界」しか、みいだせないのだ。慰みであり、引きこもりだ。本文にはこう書かれている。

一年たってJと娘とは結婚した。それからJの遠大な根気強い陰湿な計画がすすめられはじめた。Jは自分を核とした自分流の性の小世界をつくりあげたいとねがっていた。Jはスキャンダルを懼れていた、それはかれの家族の属している社会の血みたいなものだ。それにまたJは勇敢すぎる妹とは逆にじつに敏感に恐怖に反応する臆病なウサギの心をもっていた。最初の妻の死以後かれは現実世界にたいしてなにひとつ働きかけることのできない男になっていた。しかもなおかれは自分流の性の小世界にたいしてだけはカキが岩にしがみつくみたいに固執していたのだ。それがかれの生涯のただひとつの意味への通路であると感じて。(p44)


  Jが何ゆえに性の世界にそんなにも執着するのかは、わからない。その形成過程を描くことは省略されていて、Jはそういう人だと読者は納得すればいいのだ。ただJがふりまく世界はどうあっても人間の常識的性愛には合致するものではなく、やがて破綻する運命にある。蜜子をはじめとしてだれひとりJの援助に引け目を感じつつも、その性的異常性には違和感をもたざるをえないのだ。蜜子はカメラマンと仲良くなり、それぞれの都合があるにせよ、他の人物もJからとおざかっていく。
  Jの目論見はこのように破綻し、あらためて浮上してくるのが最初の妻への引け目であり、これにJとしては立ち向かわなければならない。父からは会社の重要ポストを提示されるが、Jは「順応主義者」となることを拒否する。書いてしまったが、社会的に糾弾されるべき痴漢になってしまうのだ。これは勿論、異常性愛からの離脱や「更生」を意味するものではない。痴漢もまた異常に決まっている。だから性を断ち切るのではない。性を引きずりつつ最初に遂行すべきことが贖罪なのだ。贖罪の淡い希望をJを中心としたサロン的「性の小世界」につないだものの、それが毀れてしまったとなってはまっ先にとりかからねばならないと思うのが贖罪であり、Jなりの自己処罰だ。それを亡き妻にみてもらうことだ。
 

 ある朝、不意にJは痴漢となることに定めたのだった。そのときかれはきわめて性の世界から遠い、いわば反・性的な自己処罰の欲求にかられていた。そしてまた同時にJは激しい渇望のような、性的な昂奮の予兆にかりたてられてもいた。しかしJはその最初の回心にあたって痴漢としてのかれ自身のなかの性の双頭の怪物をはっきり意識していたのではなかった。かれはただ、不眠の夜をすごしたあげくの、ある冬のはじめの午前九時にベッドの中で、おれは痴漢になろう、と考えたのだ。(p89)


  後半部では、痴漢をみずからの本姓と決めて実行する少年と老人が登場してJに重要な示唆をあたえ、また束の間の友情をはぐくむことになるのだが、割愛する。この中編小説は性に舞台を借りた観念の展開だろうかと読み終えたときには思ったが、そうではないのかもしれない。大江にとって性は自身の奥深くに根ざした渇望であり、宿命であると自覚するようだ。人間的な愛情などよりももっと以前にある原始的な情動で、自身の中で虫が蠢くようなもので、断ち切りがたいものであるようだ。大江は主人公にそれを引き受けさせた。

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