大洋ボート

安岡章太郎「悪い仲間」「肥った女」

質屋の女房 (新潮文庫)質屋の女房 (新潮文庫)
(1966/07/12)
安岡 章太郎

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  学生時代とは勉学の時間であるとともに「自分らしさ」を追求する時間でもある。ほぼ同じ年齢の人との出会いがあり、ふとした会話から触発されるものがある。なかば判然としないままに好奇心を抱いて付き合いつづけたいと思うようになる。「自分らしさ」の追求とは、もう一歩のところで手がとどきそうでありながら現在の自分にはいまだ所有の実感がないものへの飢えや好奇心のことだろう。それを所有していそうに見える人が「友人」候補として目の前に現れる。彼は一歩も二歩も先んじて見える。「自分らしさ」を自分ひとりで追求することもありえるが「友情」の世界そのものもまた追求の対象になる。自分にとって「彼」は秀才であったり、恵まれた家庭環境にあったり、特異な分野において蓄積があったり、あるいは物怖じしない不良であったりするが、この短編の場合は最後にあげた不良性を発揮する友に主人公が惹かれるさまが描かれる。
  舞台は昭和十六年(1941)で、「僕」は大学予科の一年生。夏休みにフランス語の講習会に顔を出すが、そこで目に付いた男が藤井高麗彦(こまひこ)で、小柄ながら図々しく見える。後日帰りの電車に乗り合わせて話し合うが、ここで「僕」は高麗彦に魅力を感じるようになる。どうやら知識豊富であるとともに聞き上手でもある。高麗彦のほうも主人公に惹かれたようだ。「僕」は家族と同居の身だが高麗彦は一人暮らしで「腐った玉ネギの臭い」を発散させる不潔さだが、生活力は旺盛だ。大人と堂々と話し合ったり、隣の家の風呂場を覗くために潜望鏡を制作したりする。つまり「僕」にある少しの躊躇いのようなものを平気で超えてしまうことが驚きであり魅力なのだ。後に明らかになることだが、何よりも若い年齢で女性とすでに性交渉を終えているらしいことが「僕」の羨望の的になる。
   二人で共謀して無銭飲食を犯す場面。「友情というものにつきまといがちな、ある架空な気分から僕らは食い逃げの相談をした。」とある。「友情」はここではいまだ形成途上で、それが本物になるかどうかはわからない。だからこそそれを決定付けようとする。既にあるものとして「友情」を見据えて、それに従順になろうとするからこその「架空の気分」という表現が出てくる。気に入った個所である。わたしの若い頃の記憶を呼び起こしてくれる。無銭飲食は大胆である。格式ばったレストランに入った二人は食べ終えてから鉢植えの棕櫚に火をつけて他の客も居る室内を混乱させた隙に逃亡するというもの。「僕」は「罪悪感の虜」になったものの高麗彦にとってはそれは「多分に実用的な価値もあるもの」であった。
  「僕」ははたして気分の高揚するままに高麗彦についていくのか。よく読んでみるとそうでもない。女性一つとっても「僕」にとっては縁遠く、うつくしい女性は妄想の対象でしかなく、裏返すと神秘の領域にある存在でありつづけた。だが女性の存在もふくめて、実際にこの世にあってやがては出合わなければならないものに「僕」はただちに出会ってその実際を知らなければならないのではないかとなかば自己強迫的に思いつめるようになる。学生の身分とは社会や生活からの猶予といえるが、そういう身分に「僕」は物足りなさを抱くにいたる。戦争の足音が近づいてくる時代であり、日常の光景においても殺気立った場面に遭遇する。たとえば映画館の前に居た人たちに向かって消防隊が「緊張が足りない」という理由で水をぶっかけられたということ。「僕」は時代にせきたてられる気分のようだ。しかし大人の世界を早く知りたいという欲求は、なにも戦争の時代にかぎったことではないとも思える。

  家へ帰ってその夜、ひと晩中、僕はそのことばかりを考えた。この夏休み  の短い期間に接した高麗彦に僕は、これまで経験したことのない強い魅力を覚えていた。しかし、そのことを悟ったのはその夜だった。彼のよく行く一膳メシ屋へ僕が入れないのは、栄養や衛生のことを気にするからではなく、その店の陰惨なジメジメしたものが端的に僕を怖れさすからなのだが、同様に売笑婦も病気や道徳の問題よりも、もっと超えにくい或るもののために僕は考えることを避けてきた。ところがいまや、そんな避けたがっていたものこそ愛さなくてはならないものだ、という風に思われるのだ。



  大人とは厭なものや恐ろしいものに否が応でも接しなければならず、そこで挫折が待っているかもしれないが、交渉をつづけることで逞しさも身につくかもしれない世界である。「僕」の眼からすれば高麗彦はそういう世界にすでに踏み込んだ人だ。
  「僕」には従来からの友人倉田がいて、秋の新学期がはじまると彼も帰省先から東京へ帰ってくる。倉田は「僕」の変貌ぶりに驚き興味津々の眼を向ける。「僕」は高麗彦に教えられたそのままに無銭飲食などの悪事に倉田を付き合わせる。当然高麗彦の存在も倉田は知ることになり三人の付き合いもはじまる。「僕」は倉田にとっては「ミニ高麗彦」であるから得意でいい気分だ。先輩格の友から教えられたことを快感の記憶そのままに後輩格の友に吹き込むときのおもしろさ、これもわたしには身に覚えのある記憶にちがいない。高麗彦も二人にとってカリスマであるという自覚がって、彼なりの乱暴さで親切を押し付けるが二人はついてくる。だが早くも転機が訪れる。高麗彦は京都の高等学校在学の身分で(ときどき東京へやってくる)詳細は不明だが、退学処分を受けたとの一報が二人に届く。おそらくは不良ぶりの度が過ぎたのだろう。「僕」はここでさらに高麗彦との付き合いをつづけることにためらいを抱くが、逆に倉田はますます高麗彦に接近する。「僕」に二人から遠ざかろう、裏切ってしまおうという欲求が芽生え、自然の成り行きでそのとおりになってしまう。倉田が「僕」よりも行動と志向において上回っていたのだ。「僕」は我にかえったのか、防御本能的嗅覚がはたらいたのか。人には限界がある。精一杯やったうえで、もうこれ以上進めないという極点がある。そこには迷いや後ろめたさもはっきり描かれて、印象深い。だが肝心なことを記しておかなくてはならない。「避けたがっていたものこそ愛さなくてはならない」という高麗彦によって触発された思いは、高麗彦ととおざかろうとも不動のものとして主人公に定着したと、わたしは思いたい。 
  「自分らしさ」という言葉で論をはじめたが、社会や生活と遊離したところでは、その実現は儚いものに終わるということだろうか。 
  「肥った女」は学生仲間三人で吉原の遊郭に出かけることから話がはじまる。三人はそれぞれに女性をあてがわれるが「僕」の女はいちばんのブスでしかも肥っている。だが「僕」は母が肥っていることもあって、毛嫌いするどころか、その体格の女性には親近感を抱くほどで、そのときも満更ではなく、後日他の二人には内緒で君太郎というその女性を再訪したくらいだ。だが君太郎が格別の思いを主人公に抱きつつあることがわかって敬遠してしまうという括りになる。君太郎につりあうほどの気持ちを最初からもたなかったことは描写が巧妙でよくわかる。それほど好きではない異性とのつきあいを辞めるのはよくあることだ。小心か、冷淡か、そういうものも人には巣食っているのかもしれない。また「悪い仲間」で描かれたのめりこみへの怖れもそこにはあるのかもしれない。だが女性の真摯さが主人公に後々の記憶につきささるように鋭く描かれている。読者にもよく眼に見えて、君太郎に一抹の同情を覚えさせる。
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