大洋ボート

ヘミングウェイ「世界の首都」

 舞台は1930年代なかばのスペインの首都マドリード。パコという少年は貧しい村の出身で、ルアルカというペンションでボーイをしている。彼は闘牛士になってみたいという夢を抱いているが、このルアルカは闘牛のシーズンともなれば「二流闘牛士」の常宿となった。安くて食事がうまい上に、闘牛士としての体面を保つにはほどよいランクだった。だが作者によれば、彼らはもはや「一流」には這い上がれない連中である。病気であったり、盛りを過ぎてしまったり、臆病であったりするためだ。そのほか、僧侶や商売人、パコの姉のメイドなどが登場する。スペイン内戦の時代ということもあって、ペンションを出入りする人々をとおしての街の活気がよく描写されている。

 ここで私がとりあげるのは「死と暴力」としての闘牛に対する少年パコと「二流闘牛士」の姿勢のちがいだ。前回紹介した「身を横たえて」の着目点に則せば、記憶と空想が見事にそれぞれの人に分裂した状態で描かれる。角に刺されて負傷したマタドール(闘牛士)は、そのときの記憶が頭からはなれず、プレー中牛の角を正視することができなくなってしまう。

 自分の輝かしき日々を、彼はまだ覚えている。それはわずか三年前のことなのだ。(略)彼は下に向けた鋭い剣の切っ先に沿って視線をすべらせ、牛の両肩のあいだの隆起の一点に的をしぼった。埃まみれの短い毛に蔽われた、黒い瘤のような肉。その下には、木の柵にぶつけて鋭くそげた二本の角が生えていた。止めを刺そうとして踏みこむと、その角はぐいっとさがった。彼は左の腕を低くさげて肩をつきだし,柄頭(つかがしら)を掌にあてて押しこんだ。すると、さながら固いバターの塊を突きさすように、なめらかに剣が沈んでいった。最初は左側にかけた体重を、彼は脚から移して下腹部にかけた。その瞬間、雄牛が頭をふりあげ、角が彼の体に突き刺さって見えなくなったのである。二回、角に突きあげられてから、ようやく人々が彼の体を引き離した。それでいまも、ごく稀に、止めの一突きをくれようと思い切って踏みこむことがあっても、彼は牛の角を正視することができないのだ。

 このときの体験が彼(臆病なマタドール)のなかにトラウマを形成した。彼にとって闘牛は、もはや輝かしい未来を象徴するものではないし、勇猛心を発揮するする場所でもない。生活を維持するための職業として、しがみつくよりほかないものなのだ。また体面であり、恐怖に対するやせ我慢なのかもしれない。だが、そうばかりでもなく。私は、彼はやはり何処かで起死回生を夢見ているように思いたくなる……。「角が彼の体に突き刺さって見えなくなったのである。」の「見えなくなった」はマタドールの視線にいつのまにか読者をひきさらっていて、迫力がある。また「牛の角を正視することができないのだ。」もトラウマを直截に反映していて不気味だ。私は闘牛のことはまったく知らないが、プロ野球では、頭部にはげしいデッドボールをくらったある選手のことは覚えている。入院して数ヶ月後に復帰したとき、彼は、以前よりもホームベースから足ひとつくらいとおのいてしか、バッターボックスに立てなかった。こわくて、ボールを最後まで見切る集中力が回復しなかったのだろうか。その例よりも、ここにとりあげた闘牛の例の方が深刻だが。

 記憶はすべての過去に平等に働くのではない。また事実のこまかい羅列でもない。とくにこの闘牛士にとっては、世界によって打撃をあたえられて引き返さざるをえなかった場面、呆けてしまって何が何だかわからなくなってしまった場面、人生から快適さをうばったそういうものを、何回もふりかえるものとしてある。人は人生をやりなおすことはできないが、やりなおしたいという願いは、ときとして切実だ。またその場面は、一種解きがたい謎としてもある。そういう人生の一場面にせめて感覚的に均衡をとりたいがために、ときとして攻勢的姿勢をとるために、記憶はある。しかも即座に呼び戻すことのできる映像としてある。激痛といった呼び戻せない、あるいは呼び戻したくない底なしの感覚は、この映像に付随してあって、引き剥がすことができないのだろう。

 このマタドールは記憶のなかにとどのつまり、何を見るのだろう。勝利の直前にまでおしすすめたときの「牛の角」ではない。彼の肉体に深く食い込んで「見えなくなった角」だ。そして、記憶のなかでもやはりそれは「見えない」、正視することがたぶんできないのだ彼は。そのことが、負傷後の競技のさなかにも「牛の角を正視することができない」ことにつながっている。痛々しい。

 だがそのことは、逆説的にではあるが、彼の誇りにもなっている。望みどおりの職業について、修羅場をくぐってきた、普通人には味わえない体験をしたという誇りだ。「臆病なマタドール」は、彼の部屋にベッドメイキングに来たメイドのパコの姉に言い寄って断られた。彼は「淫売」と彼女に吐き捨てる。引用した部分のつづきはこうなっている。

そんな自分が──と彼は思った──牛と闘う前にどんな気持を味わうものか、どこの淫売にわかるというのだ? 自分を嘲笑する連中は、いったいどれほどの体験を経てきているというのだ? 連中はみんな淫売じゃないか。淫売のことしか知らないくせに。

 これに対して、パコ少年はどうだろうか。同じペンションのキッチンで働くエンリケという少年を相手に、思い立って闘牛の訓練をはじめる。エンリケに椅子の足に包丁を二本くくりつけたものをもたせ、自分はエプロンを広げて仕草をまねるのだ。その直前にエンリケが「牛に対する恐怖心」について指摘するが、パコは自分にはそれはないと強がってみせる。

 「いや、ぼくはこわがらないよ」パコは言った。彼はもう数え切れないくらい、空想の闘牛場で牛と闘ってきたのだ。そう、もう数えきれないくらい、彼は牛の角を見てきた。牛の濡れた鼻を、ひくつく耳を見てきた。牛は頭をさげ、蹄を蹴たてて突進してくる。そのとき、彼はケープを振って、猛々しい巨体をやりすごすのだ。牛が再度突進してくると、彼はまたケープを振る。二度、三度、四度、五度。最後に得意のメディア・ベロニカを披露すると、牛は彼の周囲をぐるっとまわる。そこで彼は、肩をそびやかして引揚げるのだ。闘牛服の金の飾りには、すれすれのパスの名残りの 牛の毛がひっかかっている。牛は呆けたように突っ立っている。そして観客は万雷の拍手を送ってくれるのである。そうとも、ぼくはこわがりはしない。ほかの連中はこわがるだろうけど、ぼくはちがう。絶対にこわがりはしない。万が一こわくなったとしても、なんとかやり通せるはずだ。

 空想とはじつに単純だ。マタドールでもプロ野球選手でもいい、実際に見てあこがれる人物像に自分を置き換えればいいだけの話だ。くだんのマタドールの記憶とはちがって選択可能なものだ。それにマタドールもたぶん少年時には、まったく同じような空想に耽ったにちがいない。夢を見る、知識をえる、闘志をかきたてる、トレーニングをやってみる、そういう積み重ねが、少年に必然性を背負い込ませたと思わせるのだ。やがての実際の行動への移行によって、空想が見事に現実化されるか、現実によって浸食されるかは、だれにもわからない。

 闘牛が暴力的世界だとするならば、そこに参加したいとうずうずしている者にとっては暴力と恐怖は、ともすれば軽視される。自分の技量や暴力の方がまさると信じ込みたいがためだ。冷静な想像力を持つ者はそのうぬぼれをおそれるし、相手にする世界の暴力をもおそれる。だが「おそれ」とあこがれが、少年のなかで同居することは稀だ。あこがれによってしか、闘志も知識も鍛錬も生み出すことができないのかもしれない。私の問題意識にひきよせれば、暴力的世界への想像力は、被虐性よりも嗜虐性に、より引きつけられるのかもしれない。はじめから被虐性に想いをつめこむことは、外部的な強制力でもないかぎり、むつかしい。誰も背負いたがらないのではないか。

 パコとエンリケのトレーニングが、どうなったかについては書かない。

     新潮文庫『勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪』 高見浩訳

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