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シェイクスピア『ハムレット』

シェイクスピア全集 (〔23〕) (白水Uブックス (23))シェイクスピア全集 (〔23〕) (白水Uブックス (23))
(1983/01)
ウィリアム・シェイクスピア

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  ハムレットにとっては残された時間があまりにも短い。父の先王が実の弟クローディアスによって謀殺されたという疑いを、彼は払拭することができない。クローディアスが父に替わって王位に就いたばかりか母のガートルードをも奪い、王妃にしてしまったことは消しがたい屈辱だ。そしてまたハムレットは自分もまたクローディアスによって亡き者にされるのではないかという疑念と怖れも抱いている。だが疑念はあくまでも疑念であり、はたしてそれが正真正銘の真実であるかどうか、わからない。感覚として九分九厘真実であっても動かぬ証拠が欲しい。しからばその証拠を得たとしてどうするのか、王に反逆するのか、挙兵するのか、クローディアスがやったかもしれないような謀略をもちいて王クローディアスを殺すのか。しかしハムレットにはそこまでの構想はない。真実究明に忙殺される時間がほとんどである。その先のことも考えに考え、想像力をめぐらせるハムレットであるが、おそらく彼は暴力的な資質の持ち主ではなく出世欲にもとぼしく、平和的で心やさしい人である。疑念が仮に真実であったとしても、正々堂々と理由を述べた後での王クローディアスとの一対一の対決くらいが彼に思い浮かべられるほどのイメージかもしれない。だがそのことについても決断ができるのではない。迷いに迷うのだ。
  人を殺すことは自分もまた死に近づく、それどころか死を決定付けられる。ハムレットを絞めつける観念である。人殺しをして自分はだんまりを決めて生き延びることは決してできないことではないが、ハムレットにはなぜかその想像と欲望が抜けおちている。人を殺すことは自分も罪を背負うことになる。罪は当然死に値する、その覚悟がなければならない……。ハムレットはこのように肉親を殺され略奪されたことから来る怒りに支配されるだけではない。倫理的だ。クローディアスを、王位を簒奪することを目的にして謀略を用いて殺戮するというその行動を人としてはたして看過できるのか、という義憤といえるものだ。個人的な怨みつらみにとどまらず公共性に踏みこもうとする。無論ハムレットにも臆病風もあり、死にたいする恐怖もある。恭順の意を王にひたすら示せば将来は王の地位につけるのかもしれない。だがそうして生きのびようとすることが自分にとってふさわしいことか、自分のみならず人として正しいことか、遡って「正しさ」とは何か、生きるとは何か、という問いかけがハムレットを責める。
  ここまではハムレットの時間であり、せいぜい友人といわれるホレーシオを巻き込むのみだ。だが時間というものは特異な環境にないかぎりは孤独裡にはつむぎだせないものだ。多くの人の交わりのなかで時間は形成される。ハムレットも例外ではなく、ハムレットの時間はこのことによって歪まされ、また加速させられる。
  戯曲は主人公以外の人物の動きも同時並行的に描き出す。ハムレット周辺の人物群が、ハムレットが知らないところで何を考え画策しようとするのかが読者(観客)にとってわかる。クローディアスは口先では次期王位をハムレットに約束していながら、ほんとうは亡き者にしたくてうずうずしている。それをためらわせるのは王妃ガートルードの息子ハムレットにたいする愛情であり、王への懇願である。王はハムレットが何をしでかすか、警戒心と怖れを抱いていて監視をおこたらない。廷臣ポローニアスはそんな王の心配を知悉していて、ハムレットにたいしてスパイもどきの動きをする。忠誠心ともいえるが、ポローニアスの根底にあるのは、なにがなんでも生き延びてやろう、自分や一族の生き残りが最優先であり、そのためにはどんなこともやってしまおうとする身にしみこんだ処世術である。クローディアスの治世がながくつづくとにらんでいて、王クローディアスの意志を率先代行し援助することが、自分の地位の安定をもたらすとの思惑だ。自分のためには他人のことなどどうなってもいいという冷酷漢で、ハムレットは排除すべき重大な危険人物に過ぎない。そんなポローニアスをシェイクスピアはハムレットと対極的な人物像として描き出す。もしハムレットがポローニアスのような生き方をえらべば、生きながらえることができるのかもしれないが、ハムレットにはそれが迷いに迷ったとしても、結局は金輪際できないという意味で。
  ハムレットは自らの死を射程に入れている。父の亡霊に出会い、クローディアスへの復讐を依頼される。恋人でポローニアスの娘でもあるオフィーリアにつらい別れを告げる。オフィーリアはかねてから父にハムレットとの別離をうながされているので二重苦だ。さらにハムレットは役者を雇い、想像した先王の死の真相を描いた劇をクローディアスにみせつけ、その反応で王の腹中を読み取る。さらに母ガートルードを非難する場面がある。重大な場面がつづくなかで、私にとってここが峠だった。真相を知りながら先夫の弟と結婚し王妃でありつづける母へのハムレットの最大限の罵倒と失望が口酸っぱく語られ、並べられる。だがどうもそれだけではないようだと、私は思った。女性の貞操のいい加減さ、無力をなじるハムレットであるが、またそれはオフィーリアへの非難と同質であるが、これだけは自分の口から言っておかなければならないという痛切の思いも共感できるものの、その裏側では正反対といえる思いが流れているのではないか。ハムレットはやはりというべきか、女性の男性や戦乱にたいする圧倒的な無力をも知悉せざるをえないと受け取った。母への同情と愛情にそれはつながり一体となる。またかつて仲睦ましく父母と過ごした時代への懐旧にも重なる。言葉の表側のきびしさとは裏腹の愛惜をしっとりと想像させられた。この場面はハムレットを演じる俳優にとってはやりがいがあるはずだ。
  この場面のもうひとつの重要事。その語りの途中でポローニアスが帯剣したハムレットに斬殺される。壁掛けのうしろにかくれて盗み聞きしていたポローニアスであるが、ガートルードが助けを呼んだためにとびだしたところをハムレットに一撃される。「ネズミ」と呼んで歯牙にもかけないハムレット。ハムレットの語りはまだ途中で、是非とも言い終わってしまわなければならないという切迫した思いにハムレットは心を奪われている最中だからだ。母は唯一の残された家族で、つらい別れを告げることがこの時点では最重要事だとの思いにハムレットは圧倒されている。他人の命よりも家族なのだ。うならざるをえない。また私のこの場合は「読む戯曲」であるから俳優の動作は最小限の説明ですまされるからポローニアス殺害の衝撃は小さくなるのかもしれない。「観る戯曲」だとより生々しいのかもしれない。ともあれ、これによって殺人者の仲間入りをし、ポローニアスの家族にとっては「仇」となってしまったハムレットであるが、そのことに気づき自覚するのは、二人にくわえて先王の亡霊も登場するこの場面の終わり近くである。
  やがてハムレットは王クローディアスに勧められて、ポローニアスの息子レアティーズとの剣による対決を受け入れる。ここが大団円だ。レアティーズの剣には致死性の毒が塗ってある。さらには勝負の合間で喉を潤すための酒にも毒が混入されていて、この謀略はクローディアスの手になるものであり、レアティーズも了解済みだが、一方ハムレットは知らないように見える。読者(観客)は二人の共謀を先に知らされるのだから、ハムレットが絶体絶命の運命にあることも明瞭にわかる。ところが、読者(観客)は、ハムレットが謀略に感づいているのかもしれないとなぜか思わずにはいられないのだ。読者と主人公とのあいだに共鳴性がはたらくのではないか。主人公ハムレットへの同情そのものである。すぐれた戯曲がもつ効果の不可思議さだ。しかし、ハムレットが謀略に無知であったとしても、レアティーズにとっては親の仇になってしまったハムレットであるから、紳士を自負するのであればハムレットは受け入れざるをえない。また表面上は制限のある勝負で、どちらかが死ぬまでつづける決まりではないから負傷で済ませられる可能性も残されている。とはいえ、ハムレットは思ってもみない時間と条件に遭遇させられてしまった。クローディアスとの対決がかなわないままに……。やるせない。
  レアティーズは直情径行の人物で、最初は父殺しの疑惑をクローディアスに向けて、いまにも反乱を組織せんとばかりに民衆を引き連れてクローディアスの居城に押しかける。ハムレットにも同じ行動を選択する余地があったことを作者は示している。つまりレアティーズはハムレットの陰画的な人物像にちがいない。父ポローニアスがハムレットの対極的な人物像であるように。
  ハムレットは暴力的志向を身に付けようとして自己叱咤するが、闇雲ではなく、冷静さもやさしさももっている。おとなしくして生きのびようとする欲望に無縁ではない部分もある。私がはっとしたのは、クローディアスが兄殺しを告白しながら神に祈るちょうどそのときにハムレットが遭遇する場面。ハムレットは深く共感し、対決し殺害しようと決めた方針にためらいを見せる。フィクションとはいえ、こういう心の働きが自然にできる人間はざらにはいないと思わせられた。弱さではない。振幅がおおきくて、しかも中心軸を見失わない人がハムレットである。多くの人がこの作品に共感し、語り、文学芸術の標準のひとつとなったことに頷ける。

このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。
どちらが立派な生き方か、このまま心のうちに
暴虐な矢弾をじっと耐えしのぶことか、
それとも寄せくる怒濤の苦難に敢然と立ちむかい、
闘ってそれに終止符をうつことか。(p110)

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