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ジョゼフ・コンラッド『ロード・ジム』(6)

ロード・ジム (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)ロード・ジム (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)
(2011/03/11)
ジョゼフ・コンラッド

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  いま思うと、私は概して、彼女の姿をろくに見ていなかった。一番よく覚えているのは、むらのないオリーブ色の、血の気の薄そうな顔の色艶と、濃い藍色の髪の輝きだ。形のよい頭部の思いきり後ろにかぶった、小さな深紅の縁なし帽の下から、豊かな髪がたっぷりと流れ出ていた。しなやかな身のこなしは自信にささえられ、はにかむと頬は浅黒い赤に染まった。ジムと私が話していると、私たちの方に何度も素早く視線を向けながらそばを行ったり来たりした。彼女が通り過ぎて行ったあとには、優美さと愛らしさの印象と、いかにも抜かりなく気を配っている感触が残った。物腰には内気さと大胆さが不思議と混じりあっていた。可憐な笑みがひとつ浮かぶたび、なにか恒常的な危険を思い起こして笑顔があわてて逃げ出したかのように、無言の、不安を抑えつけた表情がすぐあとに続いた。時おり、私たちと一緒に座って、その小さな手の指関節で柔らかな頬を凹ませながら私とジムの話に耳を傾けることがあったが、そんなとき大きな澄んだ瞳は、あたかも発音された一語一語に目に見える形が備わっているかのように終始私たちの唇に向けられていた。読み書きは母親に教わっていたし、ジムから英語も相当学んでいて、ジムと同じ少年ぽい弾むような抑揚で喋る英語は何とも愛嬌があった。彼女の優しさが、翼がはためくようにジムの周りに浮かんでいた。いつもジムを見つめ、ジムを想って生きているせいで、ジムの外見の特徴までいくつか染み込んでいて、腕を伸ばす、頭を回す、眼差しを向けるといった仕種に、どこかジムを思い起こさせるところがあったりした。その油断怠らぬ愛情には、ほとんど五感で感じ取れるような烈しさがあった。愛情が現実に、周囲の空間に存在しているように思え、風変わりな芳香のようにジムを包み込み、震え気味の、抑えられた、しかし情熱を秘めた音色のように陽光の中に留まっている……そう思えた。(略)自分の力が有する自由、まさにその自由の中にジムは囚われていたのであり、彼女は、必要とあらば自分の頭を足載せ台として差し出す用意はあっても、己の征服したものを頑なに、あたかも彼を我が物に保つのが困難であるかのように頑なに見張り、護りつづけた。(p306~308)

  
  恋愛初期の甘い気分にひたされた女性の描写でもあるだろうか。その部分が私にはすぐに飛び込んでくるのだが、それはそれまでの船の難破といい戦争といい、あまりに厳しく激しい場面ばかりに読者がつきあわされてきたからだろう。ジムの暫しの幸福にここへきてほっとした思いに浸ることができる。また語り手のマーロウが中年であることが、若い女性の甘さやみずみずしさに自然に引き込まれて、引き出すことにもなるだろう。だがよく読んでみると、ジュエルには甘さよりも真摯さや峻厳さがより強く支配する気配が充満している。ジムを絶対に手放さない、傍から梃子でも動かない、さらにもっとジムに近づいて身体ごと一体になり遂せてしまいたい、ジムをもっと知りたい、学びたい、という欲求がひたむきなものであることがわかる。しかもそれによって心が不安定に傾くことはなく、うちつづく緊張状態のなかにあってかえって自信をみなぎらせている。自分の意思だけではなく、ジムから返って来るものが大いに補助して、それを作り上げている。恋愛ではあるが、甘さだけを受け取ってはならず、読者は凡百の若い女性とジュエルを同一視してはならないことを教えられ、身を引き締めなければならない。
パトゥザンの人々はすべてジムを崇め祭るが、その最たる存在がジュエルであり、ジムはそれをまさに空気のように日々感じている。マーロウのジムにたいする第一印象と同質のものをジュエルもジムに抱いたのだろうが、無論それにとどまらない。義父のいじめから救ってくれた、戦争にも鮮やかに勝利したという実績がジムにはある。つまりジムは「男の中の男」であり、そういうジムと結婚できた女は幸福にちがいないが、ジュエルは幸福に酔い痴れることはなく、ジムを屈強な護衛としても身を挺して護ろうとする。またジムの身に危険がリアルに迫っていると感じたときは、単身での島からの逃避も提案するくらいだ。つまり最も愛する人との別離も厭わない気構えで、恋のエゴからかけ離れている。ジュエルはそれまでの生のなかにあって、ジムとの二人の関係を築いたことで至福の頂点にある。ふくよかで暖かく、しかも緊張と恐怖を強いられる至福の頂点に。たぶんそういう自分自身の心身の状態が未知で不思議であるにちがいないので、ジュエルは今ある状態をもっと知ろう、理解しようともするのだ。それがまたジュエルの愛をいっそう充実させる。
  ジムを護ろうとする気構えもそれにつれて高まっていく。甘さだけ言うのではないが、ジュエルの仕種にジムと類似した点をマーロウが発見するところなど、ジム以外に眼中にない、いかにも恋愛のさなかにある女性だなと思わせてうならせる。女性とは、恋愛とはこういうものなんだなと貴重さと懐かしさを覚えずにはいられない。だが引用した個所の省略した部分で、マーロウは「若さをめぐるちょっとした印象」「醒めた印象」だとわざわざ断っている。一読して意外だが、理はとおる。ここではたいへん好ましい二人の関係を描き出して読者に「芳香」を嗅がせるものの、「芳香」の奥には別のものがある。ジュエルは幸福感にそう長くは浸れない。ジュエルの観察力はやがてマーロウの見たものと同じジムの核につきあたることになる。
  ジュエルはパトゥザンの人々と同じく「白人はやがて故郷に帰る」存在だという疑いを持つが、ジムもマーロウもそれを否定する。ジュエルはそれでも納得がいかない。すべての女性がそうではないとマーロウは断った上で、ごく一部の女性の持つ愛情に基づいた観察眼とそれにつづく一途さを称揚する。無論ジュエルが念頭にある。男女の愛情関係の理想がお互いに愛し合うことで高めあい、さらなる幸福を勝ち取ることにあるとするならば、ジュエルはついにそれを実感することができずにかえって孤独とたまらない寂しさにうちのめされる。愛情のボールをいくら投げてもジムからは満足した返球がないことを、上辺よりも奥の方で、ジュエルは痛切に感じてしまうのだ。ジュエルやパトゥザンの人々との間に築かれた平和や絶対的にもみえる相互信頼関係も、実はジムを満足させない。ジュエルはそれを知り、さらに、ジュエルは自分がジムにとって<二番目の存在>であることをついに知ることになる。ジムはパトナ号事件のことをいまだ忘れられない。恥と屈辱が焼きついていて、おそらくは「死への心の準備」を日々自分にひそかに課している。ジムはそれについては一言も語らないから、ジュエルはその概略さえ知らないままにジムの暗い核につきあたるのだ。それでもジュエルがジムから離れないのは勿論であるが。
  マーロウはパトナ号事件やジムとジュエルの関係において当事者ではないから、受容する深刻さはおのずから二人よりも下回る。それを知っているからこそ、さらに彼らの内奥を知ろうとする。その情熱の貪欲さが、対話や対面においてつかまれた印象を細大漏らさず語りつくそうとする。マーロウの「語り」は現在進行形ではなく回想にはちがいないが、即座に語らなくてはたちまち消失してしまうのではないかという焦燥に駆られるようにみえる。あわてるのだ。だからこそ、語り終えようとしたときに、これは書きすぎた、誤った印象を与えるのではないかという危惧が芽生え「若さをめぐるちょっとした印象」「醒めた印象」というように微修正する。作家が客観描写の形式で、ジムやジュエルの内部に亡霊のように入り込むのではないから、読者は彼らを直接知ったつもりにはなれない。マーロウが対面し対話しそして印象を語る、外部から見られるその表面から、読者はマーロウの助けを借りて想像力をはたらかせながら、ジムやジュエルの内奥に肉迫できる。私たちはあたかもマーロウとともにその場に居る気分に支配される。

  私は言葉を切った。パトゥザンを包む静寂はおそろしく深かった。どこか川の真ん中でオールがカヌーの船体を打つ、弱々しい乾いた音が、静寂を無限にしているように思えた。『なぜ?』彼女は呟くように言った。烈しい取っ組み合いの最中に感じる類いの憤怒を私は感じた。亡霊が私の掴んだ手からすり抜けようとしていた。『なぜ?』彼女はもう一度、もっと大きな声で言った。『教えて下さい!』。私が面食らったままでいると、彼女は甘やかされた子供みたいに脚を踏み鳴らした。『なぜ? 話してください』。『知りたいのか?』私はカッとなって言った。『はい!』彼女は叫んだ。『十分いい人間じゃないからさ』私は残酷に言った。(略)と、彼女の指が私の前腕を掴むのを感じて、私は初めて、彼女がさっきからずっとすぐそばにいたことに気づいた。声を荒げることなく、彼女はその声に、底なしの痛烈な軽蔑と、憎悪と、絶望とを投げ込んだ。
 『あの人もそう言いました……嘘つき!』
  最後の一言は、地元の方言で私めがけて叩きつけられた。『おしまいまで聞いてくれ!』私はすがるように言った。彼女は震える息を抑え、私の腕を放り投げた。『誰も、誰一人、十分いい人なんて居ないんだよ』私はこのうえない真剣さで切り出した。彼女のすすり泣き混じりの荒い息が恐ろしいほど速まるのが聞こえた。(略)(p345~346)

  
  ジュエルのジムにたいする疑いが決定的になったときのジュエルとマーロウの対話である。引用した部分の前で、マーロウは、自分はジムを白人の世界につれもどすつもりはないし、白人世界も誰一人ジムを必要とはしない、勿論ジム自身も戻るつもりはないと言明する。ジムの愛を必要とするのはあなた以外には存在しないのだと。だが、それでは答えにならない。ジュエルはジムの恐怖心とその追憶の繰りかえしについて知り、その重さによってついにジムがジュエルに全面的に心を向けないことを、まさに空気として感じてしまう。毎日が息苦しいのだ。これは善政の恩恵をこうむるパトゥザンの住民には無縁の、夫婦ならではの苦痛だ。おそらくはジュエルはジムが遠からず自分の前から姿を消すことを直感する。ジムの恐怖心とは無論パトナ号事件にあるが、ジュエルはその詳細を知りたいのではない。またジュエル自身に愛にまつわる責任があるとは金輪際思わない。ジムが何故そういう動かしがたい傾向を持つのか、ジムとはどういう人間なのか、それをジュエルはマーロウに問いただすのだ。対して『十分いい人間じゃないからさ』がマーロウの答え。憤怒をともなって思わず吐き出してしまう。マーロウにとってはジムは「いい人間」ではあるが「十分いい人間じゃない」と言うしかない。正直な、バランスを考えた物言いだろうか。そうでもなく投げやりな印象がもたらされる。ジュエルにとっても勿論、読者にとってもマーロウがジムを露骨に軽蔑する言葉をここで初めて聞かされる。ジュエルにとっては「十分いい人間じゃない」こと即ちジムは「悪い人間」となり、このことはマーロウも知り尽くすところだ。
  ジムは勝利よりも敗北に、成功よりも失敗に執着する人間である。あれこれ思い悩む恥意識の強固な青年である。ましてやパトナ号の一件から数年ほどしか経過していない時期だ。ジムに融通を利かせる能力があれば、ジュエルに対しても別の対応ができるのかもしれない。しかしそうなるとジムはジムでなくなる。裁判からも逃亡したかもしれないし、職場から突然姿を消すこともなかった。ましてやはるばるとパトゥザンにやってくることもなかったのだ。
  このあと小説は新たな展開を見せるが、概略を紹介することは控えたい。ただジムはジムの運命をみずからの手で作り上げることになり、小説としてもジムの人間像がそこで完成する。長編小説とは、その多くが意外な結末が待ち受けていてここでも十分に衝撃的であるが、ふりかってみるとジムという人間にとっては当然の成り行きであると納得できる。そしてマーロウである。ジムに対して、その強固な思いに共感する部分も多くありながらも、疑念や肯ずることができない部分もあったにちがいないが、また何人かの人にジムについて相談をもちかけることもあるが、マーロウ自身としてのジムに対する意見表明が少なすぎる気がするのだ。特にジュエルの一件などは、ジムのこだわりを一切捨てさせて二人しての逃亡を提案してみても決して不自然ではなかった。それこそジムに対するとともにジュエルに対しても親心となったはずだ。
  マーロウはみずからの若い時代は語らず、半分はその空白を埋めるかのように、あとの半分は自分の若い時代としては考えられない異物か棘のようなものとしてジムに接し、援助し、併走して生きた。若さの持つみずみずしさや切迫感と中年のもつ落ち着きと妥協、そしてできるだけ前面に出まいとする姿勢との対照性だ。若さへの共感と反発をなつかしさをときには伴ないながら感覚し、それでものめりこむことなく、単に控えめというだけでなく、一歩後ろに下がって同じ対象を眺め返すという客観的視座をマーロウは持っている。このように、特異な青年と、彼への度が過ぎるほどの興味を持ち、かつ援助を惜しまない中年男という構図であれば、現在の物語としても十分に問題を投げかける。しかし、それだけでは少数の個人同士の世界になりかねない狭さが意識されるのではないか。そんな思いもあってか、コンラッドはマーロウではなく、彼の友人を後半にやや唐突に感じさせながら登場させて意見表明させている。白人全体の有色人種(アジア、アフリカ人)に対する倫理が確立されていないのだと。ジムが孤独裡に考え決断しなければならなかったのも、そういう大きな背景があると指摘したいのだろうか。白人対非白人の問題は現在まで引きずられていそうだが、この小説が出版された1900年という時代を考えると、その頃ようやくのように白人の暴力と植民地支配の関係が、大いなる問題として、白人自身によって意識されはじめたのかもしれない。パトナ号の乗客がアジアのイスラム教徒であったことを思えば、船長のあるまじき行動をうながした一因として、そういう倫理にたいする全体的な無意識があるのかもしれない。
   (了)

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