大洋ボート

ジョゼフ・コンラッド『ロード・ジム』(4)

  ジムは船に最後まで残りたいという最終的意志を自ら裏切ったのだが、それだけではない、何もしなかったのだ。乗客に船の危機を知らせることや隔壁につっかい棒を設置すること等だ。それも思い浮かんだが「千に一つもチャンスがあること」が必要であり、また乗客をいたずらに怯えさせることにもひるんだ。しなければならないことを必死で考えたが時間が足りなかった。もし時間があったとしてもあのとき何をすればよかったのか、いまだに正確な答えが導き出せない。こういうことを口を酸っぱくしてジムはマーロウに語る。
  裁判が念頭にあることもある。何らかの救助活動をしていれば裁判に有利に働いたのかもしれない。逆に船が危惧したとおりに沈没していたならばジムはもっと重罪に処せられたかもしれない。せめて船長がああいう体たらくでなく的確な判断をし船員に命令していたならば、当然事態の推移は変わっていた。ジムが何もしなかったのはそれほど責められるべきなのか、ジムはマーロウに問いかける。これは別の論点だ。船に残るべきだったとしても、すべきことは何もなかった、何もしないことこそが正しかったと、ジムはマーロウに向かって主張する。読者としては混乱しそうだがここはよく腑分けしなければならない。実際にパトナ号の現場にいたジム、何もできないまま結局は逃亡してしまって悔やむジム、対して後になって自分を評価し「正しい」部分もあったと主張するジム。ここではジムの二つの人格を見る必要があり、そうしてジムは後者の人格に比重を置きたがっている。しかしその人格なるもの、いかにも俄か作りで怪しい。対してマーロウはたじろぐ。マーロウは答えをもたないからだ。ジムと同等の切迫感を有しないからでもある。

  何語か言うたびに彼はせわしなく息を吸い込み、私の顔にせわしなく目をやった。苦悩に苛まれながらも、自分の言葉が及ぼす影響を見ずにいられない様子だった。彼は私に話していたのではなかった。私の前で、見えない人格と議論を戦わせていたのだ。――己の中の、自分と敵対する、しかし不可分の相棒、己の魂を等しく所有しているもうひとつの存在を相手に。(略)彼が求めていたのは同胞であり、助けてくれる人間であり、共謀者だった。私は自分が巧みに巻き込まれてしまう危険を感じた。ごまかされ、目を眩まされ、罠にかけられる、事によると恫喝されるのも同然の形で、取り憑いているすべての幻影に(正当な権利を備えたまっとうな幽霊から、独自の切迫さを備えたいかがわしい幽霊に至るまで)公平たらんとしたら判断などおよそ不可能な論争において、はっきりした役割を引き受けさせられてしまう危険を私は感じた。君たちは彼を見ていないし、彼の言葉にしても又聞きで聞くしかない。そんな君たちに、私が感じた気持ちの複雑さは説明しようがない。私は何だか、想像しえないものを把握し理解するよう求められている気がした。そのような気持ちの居心地悪さに匹敵するものを私は知らない。(p103~104)



  ジムはここでパトナ号上で何もしなかったことをやむをえなかったと弁解するのみではなく、それ以上に「正し」かったと強く主張するのだ。これにはマーロウもひるむ。裁判で有罪判決を下されるであろう被告を無罪だと擁護することに等しいからで、ジムに賛意を表明した瞬間からマーロウは、たんに傍観者や同情者という立ち位置から滑り落ちてしまう。もっと深入りしなければならなくなる。だがそれくらいのことならマーロウも覚悟はできている。ジムを援助したい気持ちはジムが有罪になっても変わらない。問題は<何もしなかった>ことが後になってやむをえなかったと結論付けられたとしても、それが現場=パトナ号上でどれだけ考え抜かれた実質のものだったかということだ。そこには「正しさ」が少しは根を下ろしていたにしても、恐怖や無力感にも裏打ちされていた、ジム自身がそう語っているので、まさにそれだからこそ<何もできなかった>ことが大部分ではないか。これを後からふりかえって全面的に「正しかった」とするのは、弁解という以上に詭弁であり、虚偽とさえいえるのではないか。別人格を前面に押し出してきて、自分の体験の実質を作り変えるのではないか。「正しさ」のひけらかしになって結果、他者の自分への理解を根本的に塗りかえる、そういう意図がジムのなかに働いているのではないか。
  ただ、裁判は裁判特有の言葉と形式で進行するので、そこで被告としてのジムが少しでも有利になろうとすれば、こういう後付の「正しさ」でもって弁論を展開することも許されるという観点はある。マーロウの年齢であれば、こういうことの理解も困難ではないはずだが、うぶなくらいに驚きを見せる、ここも押えないといけない。マーロウがジムに勝手に幻想していたのは正直さではないか。虚偽を述懐することを忌み嫌う潔癖さではないか。現にそれまでは、ジムは激しい悔いとともに、マーロウに自己を正直に語っていたので、マーロウもその内容に驚嘆しながらも得心はしていたと思われる。それがここへきて、いきなりのように見える方針転換で、しかも付け焼刃よりも力強さの印象がまさっている。この青年はいったい何だとマーロウは感じざるをえない。
マーロウを怖れさせ悩ませ、またいぶからせるのは若さの持つ傲慢さであり、図々しさだ。切迫感をみずから創りだして味噌もクソも一緒にしてしまいかねない挑戦性、攻撃性だ。ジムは自分のなかの「もう一つの存在」「助けてくれる人間」としての自分に議論していたとマーロウは言う。相手がその言葉にどういう反応を示すか気にしながらも、四の五の言わせない勢いのほとばしりがそこにはある。冷静な客観的観察においてもマーロウのこの印象は導き出せるのかもしれない。だがそれ以上にマーロウはジムに吸い込まれるように若い時代に舞い戻っているために、その時代の自分の感性に浸っている最中であるために、観察としてよりもより生理として直観するのだと思う。妖しげな若さにたいして、中年男のなかの若さが生々しく反応し、自分でもぞっとする。このあたりのジムとマーロウの掛け合いの魅力の部分だ。<若いマーロウ>にとってはジムはいわばカリスマと化しているのだ。ジムの勢いに魅せられて説得されたがっている自分がいることに気づいて逃げ出したくなる、逆にもっと傍に居つづけたいという気持ちも消えない。ジムにそこまでの意図はないだろうが、マーロウは「恫喝」された気になってしまう。理解の直前の生理的反応で、これは勿論不快だが、反面愉快でもある。若さはより強烈に見える別の若さに無意識裡に引き込まれるからで、それにともなう怯えが「恫喝」された気にさせる。
  若さといっても生理的年齢のみをさすのではない。ジムに代表される特異な若さの持つ傲慢さだ。自分ひとりの力を恃むことにおいて過剰であり、自分の「正しさ」を何処までも押し通そうとして妥協を嫌う。広げて言えば、他者とは、世界とは、自分という人間が完成体であるならばその未成熟さのあらわれの群れであり、他者を自分の意見や世界観に容易に引っ張りこめるように映る。他者にたいしてそれを為すことが世界を改変することにつながる。世界を変えることは容易であり、世界は青年にとっては小さいと挑戦的に思いこみたい。ジムにとっては「正しさ」は観念であるとともに恋情である。またそういう若さには虚偽が虚偽として意識されないまま入り込む素地が十分にある。
  マーロウにとってはせっかく暫し浸ろうとする若さであるが、ジムの言説における若さはマーロウを当惑させ、判断不能に陥らせる。ジムがパトナ号上で見聞し、考え、行動したことが今日の「正しさ」に如何につながるのか、その詳細をマーロウはたどり返すことができない。ジムが嘘吐きという疑いも残るが、裁判への戦術的対応を除くと、ジムは未来に「正しさ」を据えてそこに近づき、新たな自己を獲得しようとしていることはどうやら嘘ではなく、生真面目であるならば、そこに注目し擁護してもいいのではないか。だがジムはジムとして独立した人格にちがいない。マーロウは噛み砕くことができずに押し返される。「私は何だか、想像しえないものを把握し理解するよう求められている気がした。」若さに魅惑されるマーロウはまたその不可解さをも理解できる、若さから一歩身を引くことができる中年男でもある。この長編小説は、ジムの物語であるとともに、こうした若さとのあいだを往還し、観察し、あれこれ言葉を投げかけるマーロウの物語でもあるのだ。
  若さ全般ではなく、ジムに代表される若さにたいしてマーロウは懐疑的で恐ろしくもありながら魅惑されてもいる。ジムの「正しさ」の奪回と挑戦は虚偽や飛躍をともなわなければ成立しないものかもしれない。そういう若さをまさに自分の若い時代に突き詰めたことのないマーロウであれば、二十歳以上の年齢差のマーロウであれば、ジムの内的過程を追体験できないまま、いきなりジムの強弁をつきつけられて感動と混乱を強いられる。そうしてジムの行動力を高く買いたい思いはマーロウのなかでは消失はせずに、今後のジムを見守るべく友人になった縁を手放さずに多大な援助を差し向ける。
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