大洋ボート

ジョゼフ・コンラッド『ロード・ジム』(3)

  ジムはたんにパトナ号難破時のことを回顧して語るのではない。ジムの現在において生起した熱情や意志を持って語るので、大いにつけくわえる。痛恨の思いとともに以後の行動によってそれを雲散させたい、「正しさ」を実践することによって、恥と屈辱にまみれた自分自身に復讐を遂げたいという強い思いがある。裁判では質問に答えたり糾弾されたりするだけで、思いのありったけをぶちまけることができない。それらの思いを贔屓にしてくれるマーロウを前にして、ためらうことなく吐き出す。そこにはある種力強さがみなぎっており、正直でもあり、並外れた好青年というマーロウのジムへの第一印象を裏切らない部分がある。だがジムの性急さはマーロウをたじろがせる。ジムの熱にうなされたような言説は、マーロウからすればジムがマーロウを強引に巻き込もうとする、全面的な賛意をえようとするかのように映ってマーロウをのけぞらせる。健全さのなかの「かすかな不健全さ」(p99)というマーロウの印象は、ジムのマーロウへの依頼心が零れ出たからだ。マーロウにとってはそれは図々しく淫靡に映るのかもしれない。しかし、マーロウはジムの発言にたいして見かけ上は明白に反対することなく、発言を引き出すことにもっぱら終始する観がある。裁判はジムの船員免許剥奪という処分で終結するが、以後マーロウはジムをひとかたならず援助することを惜しまない存在になる。マーロウはジムに議論をふっかけることはせずに、ジムをできるだけジムの思い通りにさせて生かせてみたい、それを見守りたい、そのために動く、という黒子的存在だ。勿論、対話だから皮肉や質問や小さな反論はする。
  心に生起したこと、そこにおける観念や欲望が自分のなかで明確であっても実際の行動がそれを全面的に裏切ってしまうことがある。その点ではジムの語り口は正確な印象があり、読者はついていける。だが心に生起したことを回顧という以上にあまりにも強調しすぎる。そこにこそ、実際に選ばざるをえなかった行動よりもより自分らしさを見出すのみならず、自分の思想の根本があると主張する。同じ行動をとった船長らと自分をためらいなく峻別するのも傲慢に映らないでもない。後退した時点でのジムのこの熱情は私には異様に映る。力をもっとも発揮すべき時点で発揮できなかったとなれば、ああ俺は怖気づいた、自分が思うほどには自分は大した人間でもひとかどの武勇の持ち主でもなかったとふりかえるのではないか。しかも今にも沈没するという難破船上での出来事だ。さいわいにも命を拾ったことを満足する気持ちが湧いたとしても当然だ、もうあんな思いはこりごりだとふりかえるのが多くの人間ではないか。しかしジムはそれを大きいものの単なるミスだとふりかえる。もういちど死の決意を用意しようとするのだ。またその決意があまりにも早い。事件からの時の隔たりがほとんどない。
  私もふくめて多くの人間ならば、命がけで最後まで対処すべき出来事のなかでそれを為しえなかったことに対しては、俺は凡庸な人間だと自己規定しがちだ。後ろめたさにも挫折感にも浸されるだろう。そうでなくても自分が凡庸かそうでは決してないかという自問自答は、ともすれば長い時間を要するのではないか。さらに単刀直入に答えが出せないとなれば曖昧にしたまま長い時間をいたずらに浪費させ、曖昧さそのものが人生の中心部に霧のように居座ってしまいかねない。そのことと並行して、さらになお自分らしさや「正しさ」をもとめるならば、より後退した地点で比較的安全な場所でそれを実現しようとするのではないか。命がけの行動をする人を命がけということにかぎって畏敬の感情を向けたとしても、二度と直接参加する気持ちにはなれない。参加することを空想しても、空想なるがゆえ中途半端であったり甘っちょろさがともなう。ある種の自慰行為である。それでも空想の繭に閉じこもることはできるが、心を傾注させる時間をもっぱらそこに費やしてしまうと、目の前にたえずひた寄せてくる現実の要請にたいする攻撃性や支配欲はうしなわれる。私の若い時代をふりかってそう思う。

  彼はふたたび口をつぐんで、静かな、遠くを見るような、烈しい憧れに満ちた目つきで、逃した名誉に思いを馳せていた。鼻孔が一瞬膨らんで、無駄にされた機会から立ち昇る蠱惑的な香りを嗅いでいた。君たちがもし、私がそこで驚いたとかショックを受けていたとか思っているんだったら、見当違いもはなはだしいぜ! ああ、本当に想像力豊かな奴だったよ! あっさり自分をさらけ出してしまう。自分を明け渡してしまう。夜に向かってきっと投げられたその眼差しのなかに、彼の内なる存在がそっくり持ち出されているのが私には見えた。向こう見ずに勇ましい野望の作り出す空想の領域へと、真っしぐらに解き放たれるのが見えた。(略)その顔に不思議な至福の表情が広がって、私たち二人のあいだで燃えている蝋燭の光を受けて目がキラキラ輝いた。はっきり笑みさえ浮かんだ! 彼は一番奥まで――奥の奥まで――たどり着いたのだ。それは決して君たちの顔には、そして私の顔にも浮かぶことのない恍惚の笑みだった。彼を引き戻そうとして、私は言った。『つまり、船から逃げなかったらということ!』
  彼はさっと私の方を向いた。目に突然の驚きが浮かび、痛みがみなぎり、まるで星から転げ落ちたみたいに顔にとまどいとショックと苦悩が広がった。君たちも私も、誰かのことをあんな目つきで見ることは絶対にあるまい。冷たい指先に心臓を触られたかのように、彼はぶるっと大きく身を震わせた。そして最後にため息をついた。(p92~93)

  できなかったことをジムは近い未来においてやりとげようと決意をみなぎらせる。パトナ号事件にならえば船に最後まで残ること、そして死を受け入れることだ。パトナ号に限定せずとも、敷衍して死がもっともふさわしい責任の背負い方ならば真正面からそれを引き受けること、それが自分にとって望みやり遂げるべき身の処し方であり、自己解放であり、欲望と義務観念を合致させることだ。言ってみれば神にかぎりなく近づくことになる。後になってジムはそのことを発見し、歓びに震えるのだ。
    対してマーロウである。彼は若い時代を曖昧なままやりすごしてきたという思いがあり、それが結局は仕方がないことであり、生きることとはそういうものだという結論に至ったとしても何処か後ろめたさがある。若い時代のひたむきさ、その時代に「世界」から蒙るはじめてのように見える喜びや悲しみは新鮮でありかつ鋭い痛みをともなうものだが、新鮮さは年月の経過とともに鈍磨しやがては忘れられる。マーロウはそういう若い時代のひりひりする感受性をジムをとおして再発見してみたいのだ。マーロウは曇った鏡に対峙するものの自分の若い時代は見えず、その代わりにジムが、少なくともマーロウの主観からは自分の若い時代よりもより鮮明で刺激的な青年像を映し出す。忘れ去ったかにみえた若さがまるで記憶を掘り起こしてくれるように現出する。自分の若さが照れくささやくすぐったさとともに再来するかのように。発見であるよりも再発見であるかのように映ることがマーロウに感動をもたらす。少なくとも身に覚えのある感触を言葉になる直前の皮膚感覚のようにマーロウはえる。だがジムはマーロウの青年時代の像そのものではないので、当然違和感も湧く。引用した個所全体が少し大げさな印象があるのはマーロウのこうした感動と主観があるからで、マーロウはそれを大事にしたいのだ。マーロウが語るジムの「至福の表情」やら「恍惚の笑み」やらは、マーロウは自分でなく他人だったら見過ごしてしまいかねない貴重さとして、それだけ熱っぽく語る。
   「私がそこで驚いたとかショックを受けていたとか思っているんだったら、見当違いもはなはだしいぜ!」マーロウには驚きもショックも生じたが、それ以上にジムの言葉と表情に引き込まれる長い静かな時間を過ごし、没入したということだろう。その時間だけ青年に戻ったのだろう。だがマーロウは主観を大事にするとともに客観的視座もわすれない公平さをもった語り手でもあり、皮肉をとばさずにはいられない。『つまり、船から逃げなかったらということ!』マーロウのこの一言で、ジムはたちまち空想的思想の優雅さと解放感から現実的敗北の事実へと転落する。見たくないものを見させられるのだ。そのときにマーロウが見たジムの「痛み」や「苦悩」はマーロウをしてジムに深い同情を呼び起こさせ、自分の若いときにはこれほどの突きつめた思想的探索はしなかった、これほど自分を責めなかったとふりかえらせる。皮肉を言って相手を打ち負かしたことに満足するのでは決してない。

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