大洋ボート

ジョゼフ・コンラッド『ロード・ジム』(2)

ロード・ジム (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)ロード・ジム (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)
(2011/03/11)
ジョゼフ・コンラッド

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  船長以下三名は身柄を拘束されていないこともあって、逃亡したり入院したりで、結局はジムだけが裁判に出廷させられることになる。乗船客を置き去りにしての母船からの逃亡という、船員としての義務違反をジムは厳しく問われる。最年少のジムが矢面に立たされるのだ。裁判とは罪状の詳細をつめていくもので、そこにいた個々人の行動と動機を明らかにするためにもっぱら進行する。たとえジムが逃亡に最後まで反対であったとしても、結局は船長以下と同一行動をとったのだからジムの内面世界がどれほど注目されるのか考慮されるのか、ジムにとってはまったくあてにならない。それにジムが一方的に言いたいことを言える場所でもない。「地獄だ!」とジムは後にマーロウに言う。裁判とはそういうものだ。そんななかマーロウはジムに近づいていき、最初は警戒をし誤解もしたジムであるが、まもなく二人は親しくなり、酒を酌み交わしたりしながら長い対話を展開することになる。七章から十二章あたりまでで、この長編小説の最大の読みどころである。
  蒸気船パトナ号はメッカに巡礼に赴くためのイスラム教徒八百人を乗せてシンガポールを出航したが、アラビア半島手前のインド洋西方で難破する。艦首部分に浸水して船が傾いたのだ。このときの船の傾斜と衝撃に瞬時に気づいたのは、書かれているかぎりはジムをふくめて五人。乗客はまったく無知のままだ。艦首と本体部分は隔壁によって塞がれてはいるが、水圧による隔壁の破壊も時間の問題で、げんにジムは隔壁が内側に湾曲して「手のひら大」の錆がそこから落ちるのを目撃する。沈没まであと三十分ほどの余裕しかないとジムは推測する。ジムはいかなる行動をとったか。まっ先に浮かんだのは乗客の安全だが、救命ボートは乗客八百人にたいして2分の1とも3分の1ともいわれる人数分しかないことがわかっている。とりあえずはボートと船体をつなぐロープをすべてナイフで切断しなければならないと考え、結局はそれは脱出の直前にジムによって実行されたようだが、ボートが実際に海に浮かんだかどうかは記述がない。乗客に難破を告げるべきか。だがそうすると甲板に乗客があふれかえり、人数分のボートは無いから乗客はパニックに陥るだろう。その光景が目に浮かんでジムにはできない。
怖くはなかった、逃げる気もなかったとジムは強調する。船に残るという漠然とした意思以外に具体的な行動を決定できないまま時間が急激に過ぎていく。そんななか目に飛び込んでくるのが、船長以下四人の醜態だ。彼等は乗客を見捨てて脱出するためにボートを用意しようとするのだが、これが船体につながれた固定器具が思うように外れずに悪戦苦闘する。ジムは激しい嫌悪感と侮蔑に見舞われ、虫唾が走るどころではない、私にいわせれば頭の中の純粋な意思を爪でひっかかれるような心地だろう。しかしまた最終的に彼らと行動をともにすることになるのだから無意識裡に彼らに力学的に引っぱられるのだろうとも思える。ジムのいいところは「手伝え!」と船長らに命じられたにもかかわらず、それを拒否してはなれた場所に立っていたことで、これがジムの精一杯の抵抗だ。
  あらかじめ心に準備されていた義務意識、「最悪の事態」に対処すべき用意と戦闘心、「最良の自分」、そこには海の男としての憧れさえもがつまっている。さらに不測の事態に遭遇した現場でもそれを貫こうとする意思、これはよくわかる。だが心に積み上げたものや現場においてさらに心に生起したものとジムは最終的には正反対の行動をとってしまう。私にはこれもよくわかる。本能的な死の恐怖にたいして人間はなかなか正面きって立ち向かえない存在だからで、マーロウ以下彼を評する人物も一様にジムにたいして同情的だ。またそれほどの危機ではなくても、心に生起したことと実際の行動が正反対になりうることを私たちは体験的に知っている。孤立や戦いをともすれば忌避したり、そこまで意識しなくても目立つことを嫌がり妥協してしまったりする。私たちはその臨場感を覚えていて羞恥をともなうことが多いが、このことも理解の糧にはなる。
  私個人は死にたいする心の準備といえるものをしたことがない。いつか寿命がつきて死ぬことは知ってはいるが、まさか近日中にそれが襲ってくるとは思いたくない。多くの人が私と同じであろうが海難事故がついてくる船乗りの場合は、とくに船の安全性が今日ほどの水準ではなかったであろう十九世紀末においては死にたいする心の準備は必要であったと思われる。しかしいくら下準備をしたところでいざ死が切迫してくると、あらたにそれをなさねばならない。ネジを巻き戻すのではなく、切迫する死の具体性、固有性に、否応無しに押し寄せてくる想像力上における映像と感覚にたいして向き合わねばならない。普段における「準備」と実際化した下での「準備」とはちがう。それに、純粋に自分の死のみに向き合えることが可能でもないらしい。難破船という逃れられない具体的現実のなかで、乗客の存在や船員の行動が目に飛び込んでくる。それら全体の雑駁性の奥の奥に自分の死はぼんやりとしてしか映らないからだ。

  『僕にできることは何もない――そのことが、いまこうしてあなたが見えるみたいにはっきり、あのときの僕には見えたんです。手足から力がすっかり抜かれる気がしました。(略)』(略)
  『溺れる前に、息が詰まって死んでしまうと思いましたよ』(p96)


  

(略)死ぬことは怖くなかったかもしれないが、しかし、修羅場は怖かったのだ。混乱した想像力が、頭の中に、パニックから生じる恐ろしい要素すべてを呼び起こした。人々は逃げようとあたふた走り、哀れな悲鳴が上がり、ボートに水が浸水する。これまで耳にしてきた、海での惨事を形成するあらゆる出来事が思い浮かんだ。死ぬことは諦念とともに受け容れていても、死ぬなら余計な恐ろしさなしに、静かな、一種平和な忘我の境地で死にたかったのだと思う。死をある種前向きに受け容れられる人間はそれほど珍しくないが、不屈の決意を鎧のように心にまとって、最後の最後まで負け戦を戦う覚悟でいる者はめったに見ない。(p97)


  二番目の引用文はマーロウの語りである。マーロウは若い頃の自分をほとんどひけらかさず、もっぱらジムの話の聴き手であり引き出し手であるが、ここへきて死に関する持論を披露したのか。死に臨むには余計な恐ろしさがないほうがたやすい、という個所は非常に興味をひかれる。あるいは、作者コンラッドもまた三十六歳まで海の男だったらしいから、マーロウを飛び越えてコンラッドの地声がここで吐き出されたのかもしれない。
  船に最後まで残ろうとするジムの決意は、ジムの語りによると意識的に変更されることはなかったと読み取れる。だが次の個所は難解だ。ジムは自分の死をどっぷりと想像してみる。従容として受け容れようとするのか、諦めるのか、それともあらたな行動のイメージが密かに顔を出してくるのか。少なくとも想像することによってはジムに何ら満足をもたらさなかった。というよりもますます恐怖と嫌悪がつのってきてジムを引き裂く。死ぬことも怖ろしいが、死を想像することもまたそれにもまして怖ろしいことがジムからマーロウに引き継がれて語られる。船に残るという決意が薄らいでいったとしても不自然ではないだろう。私には結局はわからない。また私はジムを責めるのではなく、マーロウと同じく同情する者の一人だ。

  (略)星空が納骨堂の丸天井のように彼の頭の上で永久に閉じる――若い命が抗う――そして真っ黒な最期。彼はそれを思い描くことができた。いや、誰だってそれはできる! 忘れてはならない、彼は彼なりの奇妙な形で、芸術家として完成されていたのだ。迅速な、行動を妨げてしまう先見の明を彼は与えられていた。その才によって見えた光景が、彼の足の裏から首筋までを冷たい石に変えたが、頭の中では、さまざまな想念が熱く踊っていた。それは不具の、盲目の、声なき思考たちのダンスだった。どうしようもなく不自由な者たちから成る渦巻きだった。(p107)


  「納骨堂」という言葉があるが、ここでイメージされる死はけっして神仏に庇護されたやすらかなものではなく、剥き出しになった死としての残酷なものだ。「行動を妨げてしまう先見の明」も皮肉が痛烈に効いた言い方だ。死を想像するよりも、逆に船長らのように死をおそれて闇雲に行動したほうがはるかに楽ではないか、活気がみなぎるのではないかという考察がここには鏤められている気がする。そして「想念」としての「不具の、盲目の、声なき思考たちのダンス」「どうしようもなく不自由な者たちから成る渦巻き」が形成されて居座る。この「想念」はけっして「生」につながるように成長するのではなく、あくまでジムを死に引っ張りこもうとしてジムのなかで騒然と暴れる想念である。ジムのなかの意思としての死は生に思想として直結しているが、もたらされた「想念」のなかの死は、向こう側からやってきたもの、現場で生まれ出たもの、死そのものであって生とはまるで反対のものだ。そして生き残ってしまったジムを絶えず脅かすことになる、つまりは「想念」はジムの現在と未来に同伴する存在となる。
  やがて黒雲が発生して嵐を予感させることも手伝ってジムをますます窮地に追いつめる。悪戦苦闘の末、ようやくボートを海上に浮かべて移り乗った三人が「ジョウジ!」ともう一人の仲間を大声で呼ぶ。私は最初に読んだときには耳を疑った。「ジョウジ!」ではなく「ジム!」と呼ぶべきではないか。それともジョウジとジムは同一人なのか。いや、ジョウジは脱出志願の船長のもう一人の仲間だったが、心臓発作を起こして倒れたのだ。(後に死亡が確認される)それを聴いてジムはたまらなくなってボートに飛び降りる。自分を呼んだのではないのに。

  「(略)『もう後戻りはできませんでした。まるで井戸の中に、永遠の深い穴の中に飛び込んだみたいでした……』」(p123)

  生きようとする明確な意志にもとづいての行動か、たとえそうであってもジムはそれを認めたくはない。死のうとする意志に疲れてしまったのか、薄らいでしまったのか、死を選択するというジム本来の「生」からの転落の意識でもあろうか。しかし一旦はボートに同乗してからも、なおジムは船に戻ろうとする明確な意志をあらためてもったとマーロウに断言する。ボートに乗り移ったときからしだいに、船に残ろうという意思は衰えていきそうなもので、少なくとも私ならそうなりそうだ。船に戻ることは実際には行われなかったが、ジムのこの言は私には呑み込めなかった。未練をあらためて自身に強く刻印することに意義を見出すのか。ジムに寄り添うような読み方を私はしたが、小説ではなくとも実際の人同士の交流においても、腑に落ちなかったり理解不能なことはあり、それを思い出すことになった。

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