大洋ボート

ジョゼフ・コンラッド『ロード・ジム』(1)

ロード・ジム (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)ロード・ジム (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)
(2011/03/11)
ジョゼフ・コンラッド

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  ある登場人物に言わせると、理想主義者でありかつロマンチストである青年ジムが主人公。そうまで言わないとしても、この長編小説は青年像としてひとつの典型を描出し成功したことは確かである。はたしてジムをとりまく人物は、はたまた読者は、彼の生き方、最終的には彼の運命を彼独自の力で決してしまうやりかたに賛同できるだろうか。賛同できないまでも部分的には共感できるだろうか。それとも寄せてきて巻き込もうとする誘惑の波を十分に感じながらも「いやいや」と両手で制止するポーズをとるのだろうか。
ジムがとった行動を誰もがそうやすやすとまねはできないが、私にとっては彼の行動と人生は十分に衝撃的であり魅惑に満ちている。彼の生真面目さや倫理観は狭隘さをともなっているが、それだけにつきつめられたものであり、その追求の姿勢は凡人をたじろがせるものがある。読者はジムの人生と自らのそれとのあいだを何度も往復しなければならない。ジムとは何者か、それは私たちとは何者かという自問自答とかさなりあう。ジムと私たちとのあいだには当事者としての深刻さの度合いにおいて隙間があるが、私たちもまた「当事者」としてふるまわなければならない場面は多々ある。ジムと同じように当事者として刑事責任を問われないまでも、そこにおける失敗や責任意識は私たちの生活や体験にも付きまとってくるもので、その距離は案外とおくもないのではないだろうか。
  柴田元幸氏の翻訳文は読みやすいとはいえない。あとからあとから粘土を貼り付けていくような、それによってはじめに抱かされたイメージに修正を強要されるような、それでいてスピードを減殺されることなくむしろアップさせる効果をもたらす。読者はさまざまな指摘をすべて呑みこめないまま、あやふやに自分のなかで統合しながらせかされるように読み進まなければならない。これは作者コンラッドが語り手であるマーロウに独特な理解の姿勢を付与したことにもよる。コンラッドの文体自体の特徴であることも勿論だが。
  その時々に出会った対象がマーロウに魅力を撒き散らすと、彼は慌てるように情熱的に言葉をつぎ込んでいく。その感覚やイメージ自身「正しい」のかどうか、万人に共有できるものかどうかはまずは問わず、マーロウは刺激されたことの確かさを忘れまいとしてそれらを「魅力」として定着させる。考えを深めるのは後からでいいといわんばかりに。すると後になって同じ対象でありながらも、それまで目にしなかった未知の眺望が開かれ、そこにまた別の魅力ある感覚やイメージや思想的追究課題までが立ちあらわれ、マーロウはそれをまた大急ぎで言葉にする。結果、はじめの言葉は修正を余儀なくされるが消滅するのではなく生き残り、同じ対象でありながらも多面的に切り込まれる。対象とは主にジムをはじめとする人間であるが、作者コンラッドによってはじめから整理整頓されてはいない。知りたい、近づきたいというマーロウの情熱的な欲求と行動をつうじて、彼の後ろからついて行くようにして、私たちは対象を視野に入れることができる。同時に右往左往といえば大げさだが、マーロウに生じる混乱や微修正を彼の語りの力の不足としてではなく、マーロウその人の思想や姿勢の表現としてみなければならない。マーロウはたんに語り手というのみならず、ジムに匹敵する重要人物だ。私は原文を直に読む能力はないが、柴田元幸氏の翻訳はコンラッドという作家の文体のうねりと力強さを見事に移植してくれたと言いたくもなる。
  ジムは一等航海士で、24歳にも満たないと何処かに書いてあった。太平洋とインド洋を股に駆けての遠洋航海の船がもっぱらの職場であるが、客船パトナ号に乗り込んだとき事故に遭遇する。ジムにとっての最初の大きな躓きである。メッカへの巡礼のためにイスラム教徒多数を乗せてシンガポールからアラビヤ半島に向かった同船はインド洋西方で艦首部分が損傷し浸水する。沈没寸前と判断した船長は乗客を見捨てて、気の会う数人の船員をともなってボートで脱出するという「暴挙」にでる。乗客の救助を優先しなければならない船長としてはあるまじき行動であり、これがのちに裁判となる。ジムは船長の方針には反対であり、最後まで舟に残ろうとする意思を強く持ったが結局は船長のボートにあとから乗り込むことになる。勿論ジムも裁判にかけられる。幸いにもパトナ号は他の船に発見されて艦首を傾かせながらも曳航されて無事港に着き乗客全員が救助される。全45章のうち4章あたりから裁判の様子が描かれ、語り手のマーロウも登場する。マーロウも海の男で、遠洋航海における雇われ船長である。パトナ号の裁判に遭遇した彼はジムに異様なほどの興味を持ち、知り合いになり、ついには生涯にわたりジムへの援助を惜しまない身となる。それほど多くはなさそうな聴衆にジムの物語を聞かせるという形式で以後小説は展開する。
  マーロウはジムに言ってみればひとめ惚れする。職業上多くの若者を見てきた彼としては、今まで見たこともない素質と可能性をその外見からのみ判断して疑うことがなく、その判断に自信をもった。ごく自然に惹きこまれて揺さぶられたとでもいうべきだろう。この判断だけでジムを語ることができないのは無論だが、以後のジムとのつきあいのなかでジムの複雑さを知ることになっても、ここで吐露されるジムの好印象は、基底的にはマーロウのなかで変更されることはない。

(略)若者は少しも動かず、頭をぴくりともさせず、ひたすら日なたの方を見やっていた。それが私のはじめて見るジムの姿だった。若者だけに可能な、なにもかもどうでもよさげな、誰も近寄りえないような気配がそこにはあった。均整のとれた体つき、清潔な顔、しっかり両足で立った姿は、これまで陽の光を浴びたどの若者よりも有望という趣だった。そんな彼を見て、彼の知っていることはすべて知っている上にさらにもう少しほかのことも知っている私としては、なぜか無性に腹が立ってきた。あたかも彼が、何かいつわりの口実を使って私から何かをくすね取ろうとしているのが発覚したみたいな気分だった。何だってあいつはあんなに健全に見えるんだ。(p48)


  裁判に身を委ねるのは計4人で、ボートで母船から逃亡した全員である。これから出廷しようと裁判所前に勢ぞろいしたときにマーロウが偶然に目撃した光景だ。それにしてもジムにたいするマーロウの惚れ込みようは異様に映る。だが後の展開でわかるが、ジムに接したほとんどの人がジムに賛辞を惜しまない。勤勉でよく動き知恵もある。そのうえ馴れ馴れしくなく礼儀を守る。誰もが傍においておきたいと思わせる青年である。「朝露がついた男」という表現もあった。経験上多くの若者に接してきたマーロウだからこその「ひとめ惚れ」だと読者に思わせたいのかもしれない。さらに輪をかけるようにマーロウのジムへの考察。

私はそこにいる若者を見た。彼の外見が私には好ましかった。その外見を私は知っていた。これはまっとうな場所から出てきた人物だ。彼は私たちの一人なのだ。自分の同族全員を代表して彼はそこに立っていた。決して利口でも面白おかしくもないけれど、正直な信念と本能的な勇気とを生き方そのものの礎にしている。そういう人間を代表して立っていた。勇気といっても、軍人の勇気でも市民の勇気でも、その他何ら特別な種類の勇気でもない。ここで言っているのは、もって生まれついた、誘惑をまっすぐ見据える力のことだ。知性などとはおよそ関係ない、進んで事を為そうとする、気取りとは無縁のひとつの姿勢のことであり、ある種の抵抗力、無粋ではあれかけがえのない能力のことだ。外なる恐怖内なる恐怖を前にして、自然の脅威を前にして、人間たちの誘惑的な堕落を前にして思わず身をこわばらせるその幸福なる力は、事実の圧迫にも動じず他人の例にも汚染されず理念の誘いにも応じぬ信念に支えられている。理念など何の足しになる? そんなものは心の裏口をノックする浮浪者、放浪者であって、そいつらが人から少しずつ実質を奪っていくのだ。(p50~51)

  
  優秀な「個」を個の内側からささえる素質と良き信念とそれらの完成形についてマーロウは語るように思われる。そしてそれは特別な職種や知性によって保障されるのではなく、私たち誰でもが持つであろうよき部分の素質、つまり「愛」だの「勇気」だの「信念」だの「抵抗力」だのを、若者としての成長の過程でジムが自己鍛錬によって自分の肉体のなかに具現化したものとして語られる。私達のよき部分を結集し、さらに結晶化されたもので「自分の同族全員を代表して」と書かれる。マーロウのジムにたいする異常ともいえる親近感で、読者もマーロウにそそのかされて鵜呑みにし、ジムという人物に共感しようとして読み進む。しかしこの褒めちぎりは読者に故意に誤解をあたえるものではないか。とりわけ気になるのは最後のほうで「理念」について語るくだりである。ここで指摘される理念とは固有の言葉によって彩られたそれで、これをすべきだ、あれをすべきではないという、何らかの行動規範がついてまわる性質を帯びるものではないか。それならば確かにそういう「理念」とはジムは無縁であるとはいえる。だがジムもやはり理念といってよければ、そういうものに生涯を縛られることになる人物だ。正しさへの盲目的なまでの執着である。裏返すと「正しさ」を具現できなかった場合、いかにして再度それに挑戦するか、またいかに自分にふさわしい懲罰を与えるべきか、という問題意識である。その点では、パトナ号事件という具体的体験を契機としてジムのなかにはじめて立ちあらわれてくる「理念」であって、あらかじめ与えられた理念によって生まれ出てくるのではないことは確かだが。また誰の助けも借りずに、彼一人の思いによって打ち立てられた「理念」であり目標設定であるといえる。自分一人の力を信じて、一人でやりとげようとする、この点をマーロウは過剰にもちあげるようにみえる。頼もしさをみたがる。
  ジムは急進的といえるほど倫理的だが、彼の「理念」と最終的な自己裁断はそうおいそれと私たちに共有できるものではない。牧師の息子であることが何回か触れられ、父にとっては自慢の息子ともいわれる。「正しさ」への執着の出自を指し示すのか。かくして「自分の同族全員を代表して」という言葉は怪しいのだ。物語の大半を知ったうえで語り始めるマーロウは、なにゆえこの「誤解」を記すのか、読者にジムにたいする親近感を強く持たせようとするためか。それとも、あくまで初めて会った頃の印象として限定されるのか。マーロウにおける最も好ましい青年というジムにたいする評価は、基底部ではずっと生きつづけるが、小説の展開につれて、層のようにそこに積みあがっていく別の印象や判断がある。

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