大洋ボート

『万葉集』巻八・1431,1435,1446,1447

百済野(くだらの)の萩の古枝(ふるえ)に春待つと居(を)りしうぐいす鳴きにけむかも(1431)


  山部赤人の作。赤人の歌は、眼前の風景や出来事に心を動かされてそれをそのまま率直に表現することが多い。その際のあざやかさが赤人の歌の生命だ。歌作りの時間が実際は後刻にずれたとしても、即応的に作られたかのような印象を読者にもたらす。しかし一転してこの歌の場合は、歌われているうぐいすが目の前には存在せずに赤人の想像のなかに存在するところが、赤人の歌のなかでは異例といえる。「百済野」も赤人は訪れたことがあるとみるが、歌の現在では赤人はそこには居ない。萩は落葉樹で「古枝」だから大きさがあって、早春にはまだ枯れたままで全体が白っぽいのだろう。そこに一羽のうぐいすがとまっているという構図。複数のうぐいすよりも一羽としたほうが絵になるように思える。うぐいすが可憐な鳴き声を発することは、うぐいすが春に目覚めて大げさに言えば自己解放することだ。作者にとってもそれを自分のことのように共感したい、また想像のなかの一羽のうぐいすにたいするやさしさでもある。
  うぐいすや梅や雪などは春の歌の定番であり、それらを題材に多く歌がつくられたが、うぐいすが春を告げるように目の前で鳴いて、人がその季節にはじめてその声を聴いて心を動かされたとしても、それをそのまま歌にしても感動にはつながらない。歌としては飽き飽きしているので、そこで歌作りとしては個性化、固有化するための創造的工夫が要求されるのだが、この赤人の歌は見事にそれに応えた。なお「百済野」は現在の奈良県北葛城郡広陵町ということである。「鳴きにけむかも」の「けむ」は過去推量の助動詞で、この歌の場合は目の前ではない場所で起きたことの推量。

かはづ鳴く神奈備川に影見えて今か咲くらむ山吹の花(1435)

  厚見王(あつみのおほきみ)という人の作。「神奈備川」は明日香か竜田のいずれかの川だという。山吹は晩春に開花する落葉高木で、あざやかな黄色の五弁の花をひらく。「今か咲くらむ」は今ごろ咲いているだろうかの意。「らむ」は現在推量の助動詞で、この歌では直接に見ることができない事象を推量することでもちいられる。開花した山吹の花の姿が川面にも映っているという風景。これだけでは単調に感じられたのか、かはず(蛙)の鳴き声を添えた。かはずの姿は直接は歌からはみえないが、読者に想像をうながす作用もあるとみる。絵画的な歌だが、少し弱さもあるか。

春の野にあさる雉(きぎし)の妻恋(つまごひ)に己(おの)があたりを人に知れつつ(1446)


  大伴家持の作。餌をあさる雉が妻の雉をさがしもとめて鳴いて、目立ってしまって人に知られてしまう、という。恋愛中か結婚間もない時期の家持自身を雉になぞらえている。上古においては恋をしてデートの現場を見られてしまうとその男女は注目されることは勿論、激しい非難にも晒されることがあったといい、それを怖れることを歌にした例もある。この時代の結婚事情は詳しく知らないが、おそらくは親同士の合意で結婚させられることが多く、それを男女二人の力で打ち破ることは容易ではなかったのではないかと想像したくなる。身分の高い家持であっても、そういう社会的風潮には無縁でいられなかったのであろうか。
  複数の人にうるさく注目を浴びることは予想を超える緊張と混乱をその人にもたらす。恋の相手に注目されることこそが目的であっても余計な注目が纏わりついてくる。群れのなかに埋没することの平穏さを今さらのように噛みしめるのかもしれないが、よほどの時間がたたないとそれもかなわないのだ。この歌はただ「妻恋」の最中を人に知られてしまった、自分という人間が人々に意識されてしまったという事実だけを淡々と書いた以上の歌ではないが、作者が家持だけに引かれるものがある。読み過ぎを承知でもう少し書くと、家持は恋を意識することとは別に「注目」されることを冷静に意識しようとしたと思う。恋に関して注目されるのは長い時期ではないだろうが(相手を次々換えるようなことをしないかぎりは)歌人としての家持は注目されたがったにちがいない。恋における注目は屈辱の側面があっても、歌人としてよい歌を公表して賞賛を浴びることは当然ながら誇らしいことで、同じ「注目」を意識しながらも、注目されることから逃げずにむしろそれをエネルギーとして歌人として生きたのではないか、そんなことを思った。

世の常に聞けば苦しき呼子鳥声なつかしき時にはなりぬ(1447)


  大伴坂上郎女の作で、彼女は家持の叔母にあたる。「呼子鳥」はカッコウ、ゴイサギ、ホトトギス、ツツドリなど諸説あるそうで、この歌の場合も断定できないという。人に呼びかけるように鳴いてうるさく感じられるという。その鳥の鳴き声がなつかしくなった、好ましく聴かれるいい季節(春)になったというのである。春になって心身ともにいい状態になった、逆に心身の調子がよくなって春を迎えることができた、そのどちらかであるが私は後者かなと思う。恋愛に関することは記されないが、女性にとっては恋愛と心身は男性以上に密接に関係すると愚考する。体調が回復し、煩悶との対話にもほどほどにケリがついた。だから恋も遠望できる。そこまでは読み取れないが、前向きで素朴で、積極性の感じられる歌である。「世の常」は普段という意訳になるそうだが、少し大げさに感じられることもかえって印象深い。
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