大洋ボート

『万葉集』巻七・1268、1269、1271、1304、1336

児らが手を巻向山は常にあれど過ぎにし人に行き巻かめやも(1268)

  「児らが手を」は巻向山の枕詞。恋人の手を借りて枕にすることから枕を巻向山のマキにかけた。「児ら」は単数で「ら」は接尾語。「過ぎにし人」はすでに他界した人で、作者にとってはかつての恋人か配偶者を指すのだろう。死別した人への思いが常に胸中にあって、たまたま目にした巻向山とその名に触発されて歌にした。「行き巻かめやも」は、死者のもとへ行って手枕をさせることができようか、できないという反語的抒情。常住する思いの痛切さと外部の風景や言葉の移り変わりとが巧みに交錯されて歌われる。すると「児らが手を」もたんに枕詞としてではなく、死者の生前の姿を彷彿させるはたらきを持つ句としてもとらえかえされるのではないだろうか。

巻向の山辺(へ)とよみて行く水の水泡(みなあわ)のごとし世の人我は(1269)

  「山辺とよみて」は山部を響かせての意。「行く水」は麓をながれる痛足(あなし)川を指す。「痛足川川波立ちぬ巻向の弓月が岳に雲居立つらし」(1087)という同時期同じ作者によって詠まれたと思われる歌もある。川の水が勢いよく波立てて流れるさまを見るのは爽快にちがいなく、見入ることに没入する時間が短くてもある。だが同じ風景がしだいに微視的に移り変わって「水泡」に凝結する。時間の経過のなかで風景が二重性を帯びるのだ。心の動きがある。そして自分という存在が「水泡」のようにいかにもはかなく小さいものでしかないことへの思いにつながる。この思いも前出の1268番と同じく作者のなかで常住するものだろう。また自分ひとりだけがそうではなく、生きているかぎりは人はみな同じく小さく力なく寂しい存在の「世の人」であるという視点もこめられている。

遠くありて雲居に見ゆる妹が家に早く至らむ歩め黒駒(1271)


  「雲居」は雲のある場所、または雲そのものをさすというが、この場合は「妹が家」のある場所とかさなるので前者とすべきか。地平線に近い雲でなくてはならないだろう。この歌は視線の移動が印象的だ。はじめに「妹が家」のあたりを遠望し、つぎに間近にともにある馬が歌われる。作者は馬上の人なのか、それとも手綱を引いて歩くのか。早く恋人のもとへ到着したいのに馬を走らせようとはせずに「歩め」と諭すのも面白い。以上三首はすべて柿本人麻呂歌集に収録されているとの記述がある。三首とも人麻呂作ではないかと私は思いたい。もっとも1271番は喜びと機知があって、調べは同じではないが。

天雲のたなびく山の隠(こも)りたる我(あ)が下心木の葉知るらむ(1304)


  「下心」は現在でもよく使われる。周囲には知られまいとする強い欲求をさし、下品さや肉体的欲望をからめて使われることも多そうだが、この歌の場合はどうだろうか、後者の要素は希薄だと私は受け取りたい。この歌では下心は恋心だ。恋が成就するかそうでないか、まだ結果はわからない段階か。見初めた相手にもまだ打ち明けていない段階のようにも思われる。恋愛関係が明らかになると、たとえそれが二人にとって幸福をもたらしても周囲の人々は冷たく、ときには非難叱責することが万葉の歌の多くに歌われている。恋愛にとっては現在よりも厳しい環境下にあったのかもしれない。だから安易には漏らさないが、その反対に下心はますます固く確信的になっていき、自己確認し良しとする。そういう頑固さがうかがえるのではないか。「天雲のたなびく山の」は「隠りたる」の序詞で、雲がかかったから山の姿が見えないように、隠すのでわたしの「下心」も見えない、だが木の葉だけは知っているという。「天雲のたなびく山の」は平凡にしか受け取れないが、第5句「木の葉知るらむ」となって作者のごく近い場所へ視点が移動してにわかにリアルさが立ち上がる。木の葉に作者の心が映るのだ。山や木の葉は恋の譬えで、作者が実際に山のなかに居ると解釈してはいけないのかもしれないが、そう受けとってもいいような力がこの歌にはある気がする。

冬ごもり春の大野を焼く人は焼き足らねかも我が心焼く(1336)


  「冬ごもり」は春の枕詞。「大野を焼く」は雑木林を焼いてその跡を農作地にすること。「心焼く」はこの場合、恋愛におけるじりじりして焦り、落ち着かない様子を指す。進行中の恋が思い通りに行っていないことの表現とみる。農作業をする人がそのついでに作者の心まで「焼く」ことはありえないが、作者は実際の恋の深刻さはともかくとして、歌の狙いとしてはおどけて詠んだ。「心焼く」という言葉には万葉集上でははじめて出会うのか。
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