大洋ボート

『万葉集』巻七・1070、1081、1082、1088,1094

ますらおの弓末(ゆずゑ)振り起し猟高(かりたか)の野辺(のへ)さへ清く照る月夜(つくよ)かも(1070)

  「猟高」はテキストでは奈良市東南部の高円山付近の旧地名と推測されている。第2句までが「猟高」の「猟」にかかる序詞で、狩の最中の男性をあらわしている。野辺は野原のことだから、猟高の一帯を月が明るく照らしている光景だろう。「月夜」は一般的には月そのものを指しこの場合もそれにあたる。他には月の照る夜をさすこともあるという。古典の言葉はこのようにややこしい。するとこの場合、やはり月を賞美する歌になるのか。私は月そのものよりも、月(満月かそれに近い状態を想像する)の明るい光に照らされてぼんやりと輪郭をあらわす野原のほうにどうしても想像の視界がはりついてしまう。私は見たことがないが、街灯一つない地域では月の光線によって風景全体がぼんやりと浮びあがるほどに肉眼で確認できることがあるそうだ。深夜にあっても街灯だらけの都会住まいだから、あこがれを抱くのか。しかし古代人でも月光にたいしては霊妙さを感じたと思われる。

ぬばたまの夜渡る月をおもしろみ我が居(を)る袖に露そ置きにける(1081)
水底の玉さへさやに見つべくも照る月夜かも夜のふけ行けば(1082)

  月を愛でる時間をもつということは、万葉人にもそれだけ余暇ができたことになるのか。それとも歌の触手を余暇の領域にもひろげていったのか。歌を詠むことそれじたいも朝廷から委託された少数の人をのぞけば余暇における趣味であったと思われるが。「おもしろみ」は「おもしろし」のミ語法。「オモシロシは、元来、目の前が明るくなるような感じを表す形容詞」とテキストの注釈にある。だから明るくなることそれ自体が面白い、興味深いことでもあるのだろう。戸を開けて室内を照らしてくれる月光を愉しんでいたところ、寒さも忘れてしまって時間がたってしまった、気づくと袖に露がついてしまったというのだろうか。あるいは野外に長時間過ごしたのか、それとも想像で書いたのか。風流というのか、そこまでするほどの魅力が月光にはあるということなのか。「露そ置きにける」は寒さを表わすが、逆に月光のあたたかみというべきものを表現することに重心が置かれていると感じた。
  1082番は月光にたいしてもっとうっとりしている。「さやに見つべくも」は、はっきりと見られるほどに、の意。月の微弱な光で水底の玉が見えることはないだろうが、夜の更け行くにつれて、つまり暗さが増すにつれて月の光がますます冴えわたるという。その冴え冴えした月光を賛嘆する表現として「水底の玉さへ」はっきり見えるほどだと、もっと明るさを増した光とした。作者が月光に代わって玉を見つめているような気にさせられる。月光のなかに身をどっぷりと置くこと、あるいはそれを想像することの幸福感に作者はひたっていると思う。

あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ち渡る(1088)


  巻七は大部分が作者が明記されていないが、『柿本朝臣人麻呂歌集』から引用したとの注解が付されている歌が散見され、この歌もそのひとつ。「人麻呂歌集」は現存しないそうで詳細は不明だが、他の人とともに人麻呂の歌も収録されていたという。私は多くの人と同じくこの歌は人麻呂の作ではないかと思う。「なへに」はするにつれて、の意。川の瀬が心地よく響いてひきこまれるようにたたずんでいたところ、視線を移動させると弓月が岳に雲が立ち上っているという。瀬は音が主に意識されているのかもしれないが、視線もそこにとどまっている。そこから視線を山の上方に移すまでに時間がある。つまり引き込まれような風景が一つの歌のなかに時間を置いて二つ盛り込まれている。人麻呂の有名な歌「東(ひんがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」(巻一・48)も同様に、見とれるべき時間をはさんで風景がふたつ盛り込まれて賞美されている。「かぎろひ」は日の出直前のその一角の空の明るさであるから、吸い込まれて時間を過ごすのも当然で、ふと振り返ると西の空にまだ月が残っているという。力強さとともに共通点がある。

我(あ)が衣色どり染めむうまさけ三室の山は黄葉(もみち)しにけり(1094)


  この歌も「人麻呂歌集」からの採用で、私は自信はないが、これも人麻呂作と思ってみたい。注釈によると「うまさけ」は「三室」にかかる枕詞で、神酒(みき)の古語を「ミワ」と言ったことからくるそうで、「三室」は大和地方の三つの山をさし、この場合は三輪山がそれにあたる。紅葉してきた山の色で着ている衣服を染めようという、紅葉に感動しながらのおどけた表現であるが、不可能なことを願いをこめて歌にするところが、先進的歌人の人麻呂らしいのではと思うからである。例えば、黄土(はにゅう)で衣を染めようとの思いつきは不可能ではなく、「白波の千重(ちえ)に来寄する住吉(すみのえ)の岸の黄土(はにゅう)ににほひていかな(巻六・932)」という歌もある。それに比べると詩的表現として進んでいると思いたいのだが、大げさか。しかしうつくしい歌だと思う。
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