大洋ボート

『万葉集』巻六・978,979,982,997

士(おのこ)やも空しくあるべき万代(よろづよ)に語り継ぐべき名は立てずして(978)


  山上憶良は歌人としての出発がたいへん遅かった人だ。生没年は660~733とされるが、憶良の歌が集中的に収められている第五巻は彼が筑紫守に任じられて大宰府に赴いた神亀三年(726)以降に成ったものである。つまりは60歳代後半からが彼の歌作の最盛期に当たるが、残された時間は短かった。それまでは官職に忙殺されたのか、遣唐使に随行して渡唐しなければならない期間もあって作られた歌は少ない。歌人であった太宰帥の大伴旅人と昵懇になることによってようやく歌作に費やせるだけの時間をえることができたのか。引用した歌は没年の作。藤原八束(やつか)という人が病床にあった憶良に使者をつかわしたときに憶良が応えて詠んだ。
  歌意はやさしい。男たるもの、名を後世に残さずして死んでいくのは何ともむなしい、やりきれないものだという。古代中国の荘子という人は人にとってさまざまな欲望のうちで最後に残るのは名誉欲だといったと記憶する。それ以外の出世欲や色欲、食欲(他にもあるだろう)などは歳をかさねるとどうでもよくなるというのだ。憶良もまた名を残すことにこだわった。すると憶良はどうだろうか。万葉集に彼の歌が多く掲載されて名も後世に伝えられて、結果は彼の願いは果たされたと見るべきか。いや、憶良の野望はもっと上にあったと私はおもいたい。歌聖といわれる柿本人麻呂にも憶良はひそかにライバル心を燃やしたのかもしれない。たしかに出発が早ければ憶良はよりいっそうの分量の歌を残せたはずで、後世への影響力もより増しただろう。それを彼は死に臨んで切歯扼腕したと見る。ただし、憶良の思想歌といわれる作風が、万葉全体の恋や風景を詠んだ歌の伝統をくつがえしてとってかわることは、どちらにしてもできなかったであろう。
  

我が背子が着(け)る衣薄し佐保風はいたくな吹きそ家に至るまで(979)


  大伴坂上郎女(さかのうえいらつめ)が坂上宅を辞去して自宅へ帰る大伴家持を見送ったときの歌。「佐保」は現在の奈良市北部。坂上郎女と家持は叔母と甥の関係で、またともに歌人でありその面で深い交流があったようだ。のちには家持は坂上の長女の大嬢(おほをとめ)と結婚した。歌はそれほど工夫したものではないが、それだけ逆にわかりやすく、たいへん透明感がある。思ったよりも強く寒い風が体感され、さらにその奥にはたんに親戚の関係を超えた両者の親密さ、家持を思いやる坂上郎女の気持ちがあって直截に伝わる。

ぬばたまの夜霧の立ちておほほしく照れる月夜(つくよ)の見れば悲しさ(982)


  同じく坂上郎女の歌。「おほほしく」はぼんやりとの意。「月夜」は夜空全体ではなく月そのものをさす。「悲しさ」までの句が「悲しさ」にかかる序詞とみることもできるのかもしれないが、私は夜霧のせいでぼんやりとしか見えない月を眺めいっているうちにまったく別の悲しさを思い出してしまったと解したい。その悲しさの具体性は何かはわからないが、わからなくても読者が悲しさとしてそのまま呑み込めばいい。ぼんやりしていても月のあるあたりは周りの夜空よりも明るい。そのあたりをとっぷりと眺めていると「悲しさ」が思い起こされた。夜霧で月がはっきり見えないこともつまらないが、それだけで悲しいとなると大げさになる。

住吉(すみのえ)の粉浜(こはま)のしじみ開けも見ず隠(こも)りてのみや恋ひ渡るらむ(997)


  作者不詳。「粉浜」は現在の大阪市住吉区にも地名が残る。万葉の時代は海岸であったようだ。第2句までが「開けも見ず」にかかる序詞で、恋心を相手に打ち明けないままひそかに恋しつづけることだ、の意。その時代なら身分のちがいがあった。また現在でも共通することだが、相手が自分と比べて立派過ぎて見えると近寄りがたい気にさせられて、片思いのまま時を過ごすしかないということもある。卑屈さに押し込められそうだが、生きるとはそういう面もあるから共感できる。
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2013.06.03 Mon 20:38  |  seha #-
動機ですか。
読み物、見世物が好きということです。
しかしブログというツールがなかったら
何も書かなかったかもしれません。

あとは、自分をあきらかにすることです。
人は誰も喜怒哀楽や理想を持っています、私もそうです。
しかし私には自分をふりかえって曖昧なところが随分あるように思います。
それを人様の創造物と交わることによって少しでも明らかにし、
できれば共有するものを築き上げたい、
「動機」はそんなところにあるように思います。


Re: タイトルなし  [URL] [Edit]
教養とはいったいなんなのだろうと思ってしまいます。
やはり書きたいから書くのでしょうか、sehaさまの試みにいかなる動機があるのか気になりました。
  [URL] [Edit]
2013.05.26 Sun 23:23  |  seha #-
>hajimeさん、コメントありがとうございます。

私はさして教養のない男です。シロウトの無謀な試みなので
笑いながら見てやってください。


> 僕の好きな和歌の一つに山上憶良の記事の始めにある歌があります。
> それが取り上げられていたので、大変喜びがありました。
> 荘子のエピソードを添えられていらっしゃるところ、すばらしい説得力がありとても納得しました。
> 古文の知識が乏しいため、万葉集をほとんど読んでいないので大変参考になります。
> ありがとうございます、また遊びに来ます。
Re: タイトルなし  [URL] [Edit]
2013.05.26 Sun 21:07  |  hajime #-
僕の好きな和歌の一つに山上憶良の記事の始めにある歌があります。
それが取り上げられていたので、大変喜びがありました。
荘子のエピソードを添えられていらっしゃるところ、すばらしい説得力がありとても納得しました。
古文の知識が乏しいため、万葉集をほとんど読んでいないので大変参考になります。
ありがとうございます、また遊びに来ます。
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