大洋ボート

『万葉集』巻六・965,966,967,968

  天平二年(730)太宰帥大伴旅人は大納言に任じられ上京することになった。大宰府の館で見送る役人のなかに児島という遊女(遊行女婦=うかれめ)がいた。地元で旅人と関係のあった女性だ。館をはなれて水城というところでとどまって旅人はふりかえると、見送る人が見える。水城は古く天智の時代につくられた大宰府防衛のための土塁のある場所だそうだから小高く、距離があっても双方が視認できるのだろう。そのときに児島が旅人に向けて詠んだ歌。

凡(おほ)ならばかもかもせむを恐(かしこ)みと振りたき袖を忍びてあるかも(965)
大和道(ぢ)は雲隠(がく)りたり然れども我が振る袖をなめしと思(も)ふな(966)


  「凡(おほ)ならばかもかもせむを」は普通の男ならどうにかなるだろう、の意。自分の手元にとどめておくことができるが、旅人のような身分の高い人であってはそうにもいかない。遊女なら多くの男性と関係をもつであろうからいちいち恋情などいだくことはできない。しかし女性だから人だから例外的に恋情の虜になることもある。その人がたまたま旅人という地元ではいちばんの身分の男性であった。別れを惜しんで袖を振ることも身分の違いを意識するとはばかられる、というのが965番。しかし一転して966番では児島は旅人に向かって袖をおそらくは思いっきり振ってしまう。内発しつきあげてくる恋情を抑えることができないのだ。「なめし」は無礼の意。大和の方角は雲が掛かって見えないから、わたしの振る袖がよけいに目立つがそれでもかまわない。あなた(旅人)ならわたしの気持ちと仕草がわかってくれるにちがいない、そんな気持ちがこめられていると読んだ。
  一見即興でつくられた印象があるが、あらかじめつくられてこの日に詠まれた、つまり公開されたと考えられなくもない。歌にとっては現実は素材に過ぎないということもできる。柿本人麻呂は悲痛を多く歌ったが、歌の中でその悲痛や寂寥がはじめて完成される、純粋化され、絶唱される。つまりは現実の衝撃を受け止める時間とそれを歌にする時間があって、人麻呂においては後者のほうがより長いということができるのかもしれない。それにたいして児島の歌は作歌に費やす時間が短い印象があり、即興にちかく感じられることの因だ。盛り上がりながら断ち切られた恋情という現実がたんに素材ではなくて土台であり、土台が大きく揺すぶられてある感情となって児島のなかに溢れでてくる。それを大して手を加えずに歌にしたと受け取った。歌詠みとしてよりも女性として人としての引っ込みのつかなさの表現でありまた自信のあらわれでもあるのだろう。女性における恋愛感情の突きあげ方はときには女性自身が予想だにできないほどの現実となって、女性をして内部からの声をあげさせるもののようだ。男性としてはたじろぐのに十分だ。それに女性にしろ男性にしろ、男女間の噂をたてられることを恐れる気持ちが万葉の歌に多く歌われているが、児島にあってはそれもおかまいなしだ。

大和道の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかも(967)
ますらおと思へる我や水茎の水城の上に涙拭(のご)はむ(968)

  旅人が児島に応えて詠んだ歌で、のちほど児島に送られたのか。「吉備の児島」は現在の岡山県児島半島をさし、地名である。そこを通過するときにいやおうなく同名の女性であるあなたを思い出すでしょうの意。968番の「ますらおと思へる我や」は万葉集に多く用例が見られる言葉である。「ますらお」とは勇壮で立派な男子のことで、滅多なことではくじけない、まして涙をながしたりはしない、人前ではどんなことがあろうともぐっと堪えて立派さの外見を失わない、そんな気概が込められた言葉であるが、人だから萎れたり悲しんだり涙したりすることもある。旅人もますらおぶりを自負したであろうが、そんな自分でさえ、あなたのことを想うと涙せずにはいられない、という。しかしこの二首、わたしには抑制的にみえてしまう。児島と離別することののたうちまわるような寂しさがあったのかなかったのかはわからないが、礼儀を失しないほどの返答でもあるような。こんなものかとの思いも私にはあって、非難する気にはなれないが。
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