大洋ボート

『万葉集』巻五・892,893

  山上憶良は貧乏や病や老いや死などを好んで歌い上げた。それらは人間の健康と長寿をそこなうものであり、家族内の平穏を脅かすものである。また出世や表現の欲望の前に冷たく立ちはだかるものである。憶良はそれらを真正面に見据えて歌った。自然の風景がもたらす恵みやめずらしさに刺激を受けて多くの万葉歌人は歌ったが、憶良にとってはその作歌方法は一時的、刹那的として排斥されたのか、風景を中心にして取り上げることが異様に少なかった。人生の全体をたえず意識した直接的な思想性と自然詠の乏しさが憶良の歌の特徴といえるか。
  「貧窮(びんぐう)問答の歌一首 アワせて短歌」と題された長歌と短歌一首ずつがある。貧乏のどんぞこの生活ぶりが歌われるが、斎藤茂吉も指摘するように筑前守であった憶良がそれほどの貧しさであったとは考えにくい。筑前守という立場から庶民の生活ぶりへの同情があったにはちがいないが、私はさらに憶測を加えて、若い頃の生活ぶりを70歳を超えた憶良があらためてふりかえったと読んだ。表現したいと思うことが眼前に山ほどあっても表現力が無ければ何も書けない。当然それは技量が身につくまでの未来に持ち越される。表現の内容が過去であっても、それがいまだ表現されないままにずっと表現者たらんとする者のなかに課題として堆積されてある。表現者にとってはつまりはそれはたえずついてくる「現在」ということになる。現在から見られた過去でもある。現在のフィルターをとおして見られたおのずから少し変化した過去でもあるだろう。

風交じり 雨降る夜の 雨交じり 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅(かた)塩を とりつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ) うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに 然(しか)とあらぬ ひげ掻き撫でて 我を除(お)きて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾(ぶすま) 引き被(かがふ)り 布肩絹(ぬのかたぎぬ) 有りのことごと 着襲(そ)へども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢え寒(こ)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞ひて泣くらむ この時は いかにしつつか 汝(な)が世は渡る(892・部分)

  長歌の前半部である。「堅塩」は不純物の多い塩のかたまり。「糟湯酒」は酒かすを湯で溶いたもの。「麻衾」は麻製の掛け布団。「布肩絹」は袖のない短い肩掛け。寒さが強調されて何回も書かれる。そんななか主人公は塩を舐め、酒をすする。さらに布団や肩掛けをかさねて寒さをしのごうとするが、咳をしたり鼻水がでたりで、とうてい暖をとることができない。さらに主人公よりも気の毒で不憫なのが、同居する父母や妻子である。それを自覚しつつも主人公は彼らよりも少し贅沢をして酒を舐めたりするのだ。ただ寒いことを嘆くのではない。そういう境地に甘んじなければならない自身や家族の屈辱やくやしさが歌われているのだ。「この時は いかにしつつか 汝が世は渡る」こんなときあなたはどんなにして世渡りをするのだという問いかけだ。「貧窮問答」というから貧乏人同士の問答のかたちになっている。自問自答ととれなくもない。「答え」のほうも輪をかけた貧乏ぶりで、寒さにかぎらず、食料もなく、住居も粗末で、さらにそのうえ賦役を課そうとする「里長(さとおさ)」が大声を出して呼びにくる、というものだ。
  忘れてはならないのは、前半部において主人公が「我を除きて 人はあらじと 誇ろへど」と自身に言い聞かすことだ。自分こそがこの世でいちばん立派な人間だ、またそのプライドだ。今に見ていろ、という闘志や何かはわからないが準備するものもあるだろうと見たい。「誇ろへど」の「ど」は逆接であるが、プライドや闘志がまったく消滅するのではなく、貧窮によっていくらかは削がれるものの、かえってそれはまた自身のなかで再生されるものと思いたい。70歳を超えた憶良にもそれは引き継がれている。だが同時に長い人生を経てきて疲弊にまみれてもいる。貧乏で不自由な環境から逃れることができないことも認めざるをえないのだ。たとえ憶良個人がそれを逃れえたとしても、庶民や昔の自身の屈辱の思いは晴れることがない。それに目を瞑ることもできようが、憶良はしない。

世の中を厭(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば(893)


  「厭し」は思いどおりにならずに厭になること。「やさし」は現在とはちがって、恥ずかしい、きまりわるい、恨めしいの意だそうだ。鳥ではないので、こんな憂鬱極まりない世であっても羽ばたいてとおくに逃れることはできないのだという。だが憶良にはそれが満たされないにしても自身が鳥でありたいという願望と誇りがつよくあったからこそ、こういう強く堪える姿勢を歌ったのではないか。鳥になることを諦めてしまえば楽になれるのかもしれないが、長く保持してきた「我を除きて人はあらじ」という誇りもまた同時に喪われるのだ。
関連記事
スポンサーサイト
    14:55 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
Comment







(編集・削除用)


管理者にだけ表示を許可
Trackback
http://oceanic.blog70.fc2.com/tb.php/563-f1a409c1
プロフィール

seha

Author:seha
FC2ブログへようこそ!

カレンダー(月別)
10 ≪│2017/11│≫ 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
最新の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
月別アーカイブ
全ての記事を表示する
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
ブロとも申請フォーム
ブロとも一覧
ブログ内検索
RSSフィード
リンク